act 2

朝8時、病理診断科。

吉本晋也は白衣を身にまとい、顕微鏡の前に座っていた。机の上には、昨日行われた手術で摘出された組織のスライドが整然と並んでいる。


「さて、今日も始めるか」


吉本は深呼吸をし、最初のスライドを顕微鏡にセットした。


スライドには、薄くスライスされた肺組織が染色され固定されている。患者は65歳の男性、長年の喫煙歴があり、胸部X線で異常陰影が見つかったケースだ。


吉本は、まず低倍率で全体像を確認する。肺胞の構造、気管支の様子、そして異常な細胞の集まりを探す。慣れた手つきでステージを動かし、組織全体を丁寧に観察していく。


「ここだな...」

吉本は、ある一点で視線を止めた。通常の肺胞構造から逸脱した、不規則な細胞の集まりが見えた。高倍率に切り替え、詳細に観察する。


細胞核の肥大、クロマチンの増加、核小体の明瞭化。これらの特徴は、明らかに悪性を示唆していた。さらに、細胞の配列や構造から、腺癌の可能性が高いと判断する。


吉本は慎重に所見をメモしていく。腫瘍の大きさ、浸潤の程度、周囲の正常組織との境界の状態。これらの情報は、癌のステージング判定や今後の治療方針決定に重要な役割を果たす。


「ステージIIの腺癌か...」

吉本は小さくつぶやいた。患者の年齢と喫煙歴を考えると、予想された結果ではあった。しかし、その事実を確定させる瞬間は、いつも重みを感じる。


次のスライドに移る。今度は乳腺組織だ。41歳の女性患者、しこりを自覚して来院したケース。マンモグラフィーと超音波検査で悪性が疑われ、針生検が行われた。


吉本は再び低倍率から観察を始める。乳腺組織の中に、明らかに異常な細胞の増殖が見られた。高倍率に切り替え、詳細に観察する。


「浸潤性乳管癌か...」

細胞の形態、核の特徴、周囲組織への浸潤の様子。全てが悪性腫瘍を示唆していた。さらに、ホルモン受容体の状態やHER2の発現状況も確認する。これらの情報は、今後の治療方針に直結する重要な要素だ。


「ER陽性、PR陽性、HER2陰性...」

吉本は所見を丁寧に記録していく。この結果は、患者にとっては比較的予後が良好な部類に入る。しかし、若い女性患者のケースだけに、診断を伝える臨床医の苦労が想像された。


吉本は黙々とスライドを見続ける。胃生検、大腸ポリープ、皮膚の母斑。一つ一つの組織に、患者の人生が凝縮されている。その重みを感じながら、吉本は慎重に、しかし効率的に診断を進めていった。


午前中のルーチンワークをこなし、吉本は一息ついた時、内線電話が鳴った。


「はい、病理科の吉本です」


「吉本先生、すみません。外科の佐々木です。今、手術中の患者さんの組織診断をお願いしたいのですが...」


吉本は即座に理解した。迅速診断の依頼だ。手術中に摘出した組織の良悪性を、その場で判断する重要な仕事である。


「わかりました。すぐに準備します」


電話を切ると、吉本は素早く行動を開始した。迅速診断用の器具や試薬を確認し、凍結切片作製用のクリオスタットの電源を入れる。


数分後、看護師が組織サンプルを持って病理診断科に駆け込んできた。


「お願いします!」


吉本は受け取ったサンプルを素早く確認する。卵巣腫瘍の一部だった。


「了解しました。15分ほどお待ちください」


吉本は手際よく作業を始めた。組織を適切な大きさに切り分け、凍結切片を作成する。通常の病理診断では、組織を固定し薄切してから染色するプロセスに1〜2日かかるが、この迅速診断では15分程度で結果を出さなければならない。


クリオスタットで急速凍結した組織を、ミクロトームで薄くスライスする。厚さはわずか数ミクロン。熟練の技が必要な作業だ。


スライドに貼り付けた組織切片を、ヘマトキシリン・エオジン染色で素早く染める。この間にも、手術室では術者が次の一手を決めかねて待っているのだ。吉本は時計をちらりと見ながら、冷静かつ迅速に作業を進めた。


「よし」


染色が完了したスライドを、吉本は顕微鏡にセットした。瞬時に焦点を合わせ、組織の観察を始める。


卵巣腫瘍の場合、良性、境界悪性、悪性の判断が重要になる。それによって、手術の範囲が大きく変わってくるからだ。


吉本は集中して組織を観察する。細胞の形態、核の状態、組織構造の乱れ。全ての情報を総合的に判断していく。


「境界悪性腫瘍か...」


吉本は慎重に所見をメモした。完全な良性とは言い切れないが、明らかな悪性の所見もない。このような場合、追加の検査や慎重な経過観察が必要になる。


結果をまとめ、吉本は手術室に電話をかけた。


「外科の佐々木先生、お待たせしました。境界悪性腫瘍の所見です。詳細な説明は後ほどしますが、現時点では...」


電話越しに、手術方針についての簡単な議論が交わされる。吉本の診断結果に基づいて、術者は次の一手を決定していく。


電話を切ると、吉本はほっと息をついた。迅速診断は、その場の判断が患者の人生を左右する可能性がある。プレッシャーは大きいが、やりがいもまた大きい仕事だ。


午後になり、吉本は再び通常の組織診断に戻った。しかし、その合間にも何度か迅速診断の依頼があり、その都度素早く対応していく。


夕方5時、ようやく一日の仕事が一段落した。最後の報告書をまとめていた。


「お疲れ様です、吉本先生」


同僚の岡野が声をかけてきた。


「ああ、岡野君も今日は大変だったな」


「はい...でも、吉本先生の迅速診断、本当にすごいです。あんなに短時間であんな的確な判断ができるなんて」


吉本は少し照れくさそうに笑った。


「まあ、経験だよ。」


吉本は最後の報告書を提出し、白衣を脱いだ。

明日もまた、多くの組織標本が彼を待っている。一つ一つの細胞の中に、患者の人生と希望が詰まっているのだ。


その夜、自宅のアトリエで新しい作品のアイデアをスケッチしながら、吉本は今日見た組織標本のイメージを思い返していた。悪性腫瘍の不規則な細胞配列、境界悪性腫瘍の微妙な構造変化。それらは、彼の頭の中で芸術的なイメージへと変容していく。


「生命の神秘は、ミクロの世界にこそある...」


吉本はつぶやきながら、キャンバスに向かった。明日への英気を養うため、彼はいつものように深夜まで制作を続けた。


病理医としての日常と、アーティストとしての創造性。二つの世界を行き来する吉本晋也の、もう一つの一日が終わろうとしていた。



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