第19話 吉岡真弘
「それで…その……。」
エリカが可愛らしく首をかしげたので、三木は口ごもった。
「僕は…えっと…HOPESを…抜けようと思ってます…。」
「……辞めたくなっちゃったの?」
ゴトッ…とビールジョッキを置かれ、三木は身をすくませる。
「え〜!寂しいよう!せっかく三木きゅんと仲良しになれると思ってたのに…。人見知りなのにいつもきちんとお話してくれて、ABCもいっぱい頑張ってくれてたの、私知ってるよ?優花だって、『三木くんならここでやっていける』って自慢してたもん!」
「す…すみません……。でも、僕は静岡に引っ越さなきゃいけないんです…。」
「就職決まったんだもんね。おめでとう!…でもさ、別にそれで組織を辞めなくたっていいんだよ?」
「え?」
エリカは明るく微笑んだ。
「関西連みたいに、私たちは遠隔でも連携を取って活動してるから!今は関東と関西が中心だけど、三木きゅんみたいにもっと色んな地方にメンバーが進出してくれれば、これからどんどん仲間の輪が広がってくよ。私たちは離れてても、心はずっと繋がってるの。」
「え…えっと…そう、ですかね?」
「うん!会社に入ったら、同じ目標を持つ友達がいっぱいできるでしょ?そしたらまた、その人たちを私に繋げてくれればいいんだよ。ビデオ通話でもいいし、東京に連れてきてくれてもいいし。まだRELIFEの製品を知らない人たちだってたくさんいるから、それを教えてあげれば、周りの人たちも三木きゅんのおかげで”希望”が広がるばずだよ。」
三木はその後も静岡での活動方針を指南され、結局押し切られて敗退した。
座敷を後にして元の席に戻ると、翔吾の正面には馴染みのないメンバーが座っていた。
「あれ、あなたは…?」
「ああ、はじめましてかな?僕は浜本組の小西だよ。よろしく。」
「よろしくお願いします…。そういえば、アキラにも浜本さん以外のアップがいるって言ってましたね。」
「浜本組に会うのは珍しいだろうね。今やうちの組にディストリビューターは少ないから…。」
翔吾は三木が座るスペースを作った。
「で、どうだった?」
「ダメだったよ…。簡単には辞めさせてもらえそうにない。」
「ほらな。」
翔吾は焼き鳥を掴んで、一気に頬張る。
「オレなんか、相手はヤマトさんだぜ?すげえマーケティング戦略提案された上に、メイちゃんまで利用する流れにされちまった。」
三木はテーブルの上で頭を抱えた。
「やっぱりアキラの言う通り、ボスの前で小指詰めるしかないよ…。」
「あいつ、そんな適当なこと言ったのか…。イマドキ、本物のヤクザでもやらねえぞ…。」
やりとりを見ていた小西は、苦笑いしながら言った。
「今までも辞めていったメンバーは大勢いる。心配しなくても、何とかなるさ。」
「…そいつらは、どうやって辞めたんスか?」
「……こうやって辞めにくくなった人たちのために、うちの組織には公式の逃亡ルートが存在するんだよ。これは、偶然僕だけが知った情報だ。君たちが組織を抜けるという噂を耳にして、それを教えるために僕はこの席に来た。」
「逃亡ルートなのに公式なんですか?」
「おかしな話だろう?まあ、聞いてくれ。僕は元々、関西連の竹下組に所属していた友人に勧誘されて、京本さんの系列に着く手筈だったんだ。ところが僕がサインする予定だったABCの数日前、なぜかその系列が軒並み失踪する事件が起こったらしい。結局、現場では浜本組にBを引き継がせて僕を組織に引き入れることに成功したが、僕は消えた友人と繋がっていたから、そのとき中で何が起きたのか、後で問いただしたんだ。」
三木と翔吾は、テーブルに身を乗り出した。
「結局詳細は教えてもらえなかったんだけど、彼はこれだけ僕に言い残した。『もし逃げたくなったら、吉岡さんに合図をしろ。あの人は、ボスと組んでいる』。」
「……。」
「……。」
小西はわどうにいる周囲のメンバーに聞こえないよう、身を小さくした。
「詳しいことは分からないが、ボスが直接手を引いているとすれば、このルートは事実上”公式”だ。君たちが抜けるというなら、今別の店にいるあの人にアテンドしてあげよう。」
*
スタジオから戻り、新宿駅に着いた。今日はわどうで月締めミーティングだったはずだが、もう店も閉店の時間だろう。ひとまずもう帰った方がいい。俺たちは大江戸線のホームからエスカレーターを上がり、南口へ繋がる階段を上ろうとした。
………いや。
「アキラ、どうした?」
コボが俺を振り返ると、残りの2人も後ろを向いた。
「…俺はわどうに寄ってみる。まだ浜本さんが残ってるかもしれない。お前らは帰っていい。」
「…そうか。終電逃すなよ。」
3人は別れを告げると、上階へ消えていった。
俺は後ろの通路から外へ出る。
浜本さん…いや、大塚さんでもいい。誰か俺にアイデアをくれ。この状況を切り抜けるための策を……。
横断歩道を渡り、家電屋の角を通り過ぎ、賑わう居酒屋の並びを横目に、俺はわどうの入り口へたどり着いた。
…そういえば、一人でここに来たのは、初めてのとき以来だ。
あの後は三木くんと翔吾に出会い、何かあるたびに3人でここへやってきた。それからバンドの仲間たちが一人ずつ帰ってきて、ABCに使うこともあった。この2ヶ月は何度も通ったはずなのに、俺は扉に手をかけた瞬間、なぜか懐かしい気持ちがした。
「…アキラか。」
名前を呼ばれて咄嗟に振り返ると、珍しい男が背後に立っていた。
「吉岡さん…!今日も来たんですか?」
「俺は仕事の後はここで飲むと決めている。」
吉岡さんは俺の代わりにドアを開け、俺を連れて階段を下りた。
店の中はもう誰もいない。
HOPESは店側に迷惑をかけないよう、いつも閉店時間を遵守している。もうみんな、帰ってしまったのだろう。
「大将、いつものを。」
吉岡さんはそれだけ言うと、カウンターに腰掛けた。
「吉岡さん、今から飲むんですか?もう閉店の時間ですよ?」
俺が時計を指差して尋ねると、奥から大将が日本酒のボトルとグラスを2つ持ってきた。
「榊さんとマヒロくんはいいのさ。古い付き合いだ。ほれ、お前さんも座りな。」
俺は頭に疑問符を浮かべながら、グラスが置かれた吉岡の隣に席を取った。
「氷はいるか?」
「え…は、はい。」
吉岡さんは俺のグラスにも、氷と自分の日本酒を注いでくれた。
2人はそれぞれの酒に口を付ける。
「アキラ、調子はどうだ?」
「えっと…あまり良くないです。バンドのやつらはもう3人揃ったのに、最後のアホだけギターを握りしめたまま、絶対離そうとしなくて…。」
俺はこれまであったことを全て話した。
ラリーでのこと、合コンでのこと、お茶会でのこと…。そして最後に、1ヶ月後のフェスのこと。
気づけばもう、30分が経過していた。
「そうか。」
吉岡さんは俺の話が終わると、静かにグラスを置いた。
「本当に…本当に集めてしまったか……。」
その顔には、初めて見た優しい微笑みが湛えられていた。
「いえ、まだですよ。4人目がまだなんですってば。今そこが問題なんです。」
「何が問題なんだ?その対バンとやらに勝てば、お前の旅路は終わりだろう?」
「終わりじゃないですよ…!これから1ヶ月、練習の時間もないですし…もし俺たちが勝ったとしても、バンドを続けていけるわけじゃない。俺たちの旅は、まだ終わりでは……。」
「辞めればいいだろう。HOPESを。」
「……え…?」
俺はグラスを両手で持ったまま固まった。
「今、MLMに割いている時間を捨てて、全て練習に使えばいい。」
「…でも…!俺たちはこれで借金返すと決めたんです!辞めてしまったら、もう他に手段なんて思い浮かばない…。これから先、何十年もバイトで必死になりながら、空いた時間で音楽やるしかなくなってしまいます!」
「それの何が問題なんだ?」
吉岡さんは椅子の上で体をこちらに向けた。
「アキラ。お前は昔からずっと、そうしてきたんじゃないのか?バイトでボロボロになりながら、仲間たちを自分の力で集めて、メジャーデビューを目指していたんじゃないのか?毎日必死に働いて、時間に限りがあったとしても、それでもお前は、歯を食いしばってやってきたんじゃないのか?」
俺は口を開けたまま、何も言葉が思い浮かばない。
「人生の好機は、生まれてから死ぬまで、等しく与え続けられるわけじゃない。もしかすれば、お前は明日死ぬかもしれない。生きていたとしても、明日やろうとしたことが、明日の自分に出来るとは限らない。今先送りにした夢が、十年後、同じ形でその手に帰ってきてくれることは、絶対にないんだ。」
静まり返る店内に、壁掛け時計の秒針だけが刻々と止まらない時の流れを告げる。
「……だったら……だったらなんであのとき、俺が組織に入るのを止めなかったんですか……?」
吉岡さんは正面を向いて座り直すと、暫く沈黙した後、静かに語りはじめた。
「俺は……。」
*
ターミナルの待合室で、吉岡は運行ダイヤを調べていた。どうやら一本前のバスは、5分前に発車したばかりらしい。
「次は1時間後だ。タイミングを逃したな。手荷物の受取りで呑気にしているからだ。今日はタクシーにするか?」
「この歳でそう焦っても仕方ねえだろ。」
榊がドサッと椅子に腰掛けると、吉岡はスーツケースを持ってその隣の席に座った。
「最近じゃこんなとこでもタバコが吸えねえ。」
「時代はもう変わっている。」
榊はフンッと鼻を鳴らす。
「マヒロがPDになるくらいはな。」
「………。」
二人は正面を向いたまま話し始める。
「まだ自系のBBCだけで勝手にダウンを作ってやがる。そんなにHOPESが信用できねえか。」
「俺はダウンに自分と同じ轍を踏ませたくないだけだ。最初はそのままABCもやらせてみたが、結局多くが同じ結末を辿る。元々あった信頼関係さえも破壊されて、金も友人も全て失う。それがマルチ商法というものだ。」
「……若えな。」
榊はタバコの代わりにメンソールガムを懐から出した。
「おめえがシャングリラで打ちのめされ、自決寸前までいったときは、さすがに俺も自分のやり方を考えた。自分で立ち上げた組織だが、天堂の介入によってビジネスはどんどん愛用者中心の短絡的な利己団体に成り下がっていった。だから俺は独立して、新たにディストリビューター中心のHOPESを立ち上げた。」
「…愛用者だろうがディストリビューターだろうが、同じことだ。勧誘と契約がある限り、このビジネスは憎まれ、蔑まれ続ける。」
「そうじゃねえことを確かめてえから、おめえはあのときアキラを追い返さなかったんだろうが。」
「………。」
「この世界ってのは、大抵のことが上手くいかねえようにできてる。夢を持って起業するような連中も、どうせほとんどが失敗する。MLMも当然、ただ他のビジネスに比べて参入障壁が低いってだけで、結局は99%が稼げねえバカみてえな商売だ。愛用者を探して金策を
吉岡は黙っている。
「だが、ディストリビューターは違う。やつらは、この嫌われもんのビジネスに、それと分かって入ってくることがある。マルチが好きなんじゃねえ。誘ってきた仲間が好きだからだ。胡散臭え組織だろうが、自分が信じた仲間の判断を、みんな信じて入ってきやがんだ。喧嘩しようがなんだろうが、最後は自分を信じてついてくる。その信頼関係さえ築けたら、それだけが一生の財産になる。あとはマルチなんかどうでもいい。そいつらさえ一緒にいれば、人生のどんな波乱も乗り越えていける。HOPESは目的地になる場所じゃねえ。自分の希望を掴むまで借りておく、ただの
「…だから俺に『辞めさせ屋』をやらせているのか?」
「…アキラを送ったのは、おめえのためだがな。もう組織に用が無くなった人間は、毎月の自費購入が嵩む前に、早く辞めさせろ。ヤマトとエリーに捕まると面倒だからな。」
「だったらなぜ2人にそれを説明しない?」
そのとき、榊の携帯が着信音を鳴らした。
「…藤崎か。どうした。」
吉岡は床の一点を見つめて考える。
そう、分かってはいた。俺は今まで生きてきた中で、他人と本当の信頼関係が築けなかったのだ。自分の直感を信じて道を選んでも、いつも失敗して大きな波乱を呼ぶ。俺はいつも怒っていた。理不尽な世界に。それを変えられない自分自身に。そうしていつの間にか、人と衝突したり、真剣に向き合うことを避けるようになってしまったのだ。
「…分かった。今から俺が向かう。」
榊は携帯を懐にしまうと、立ち上がった。
「お茶会に行ってくる。」
「…ファンシーだな。」
吉岡がスーツケースをどかして通り道を作ると、榊はフンと鼻で笑った。
「天堂も…ヤマトもエリーも、全員俺の可愛い部下だ。あいつらはまだ、おめえのように死にたくなる程の苦汁は味わったことがねえ。頭のいいやつらが死の淵に立たねえまま大きくなると、必ずどこかで道が分からなくなるもんだ。だが、いつか自分の力で気が付いて、一つずつ成長していく。おめえもそれを見守ってやれ。誰か豚箱に入りそうになったときは、俺が代わりに行ってやればいい。」
榊は待合室を出て、タクシー乗り場の方へ消えていった。
吉岡はその広い背中を、見えなくなるまで眺めた。
*
吉岡さんは話が終わると、氷が溶けて水になったグラスを、意味もなくかき混ぜた。
「…京本の部下たちも、高橋も。そして今日は三木と陣内も、全員俺が辞めさせた。俺のやっていることはただ一つだ。”黙って消えさせる”こと。俺達がサインした契約書面はRELIFEとの締結であって、任意団体であるHOPES自体に法的拘束力は何も存在しない。勝手に契約解除を申請すれば逃げられることを教えた。気持ちの問題だ。」
「…俺は…そんなことできませんよ…。浜本さんにもお世話になりましたから…。」
俺がそう言うと、吉岡さんは穏やかに微笑んだ。
「…そうだな。お前は浜本の組に入れて、本当に運が良かった。あいつはずっと、高橋の件で悩んでいた。部下が密かに辞めたがっていることを知りながらも、組織のために組長である自分が逃がしてやれないことに、ジレンマを抱えていた。だから俺はラリーの日、浜本も辞めさせようとしたんだ。ここで自分の正義が分からなくなるくらいなら、もう解放してやりたかった。それでも、俺はそのときあいつの言葉を聞いて確信した。あいつにはもう、俺がこの仕事を引き受けていることを隠す必要もないだろう。」
吉岡さんは再び俺の方を向いた。
「だが、アキラ。お前はもう二度とここへ戻ってくるな。もうこの場所を気にして振り返るな。俺の人生に付き合わせてしまってすまなかった。仲間と向き合う勇気と愛情を、教えてくれてありがとう。」
俺は泣いた。声は出なかった。
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