紫炎

AZUMA Tomo

V《ヴィ》

 今まで出会ったどの人よりも長く、真っ黒の艶々とした髪の毛が印象的だった。そこが屋内だったか屋外だったか覚えてはいないが、とにかく何らかの光を反射した髪の毛はどんなわけか青色や赤色や紫色など、不思議な色に輝いていた。その子どもは女だったと思う。

「ああ、まだねむい」

 真っ白な着物に包まれた体は長い髪の毛の上に横たわって、確かに眠そうな表情でこちらを見上げていた。金色の瞳がうつらうつらと瞼で見え隠れしていた。

「ああ、まだ……そのときやない」

 何のことを言っているのかわからなかった。だが、俺は何となく寂しくて、しかし寂しいという表現もわからずぽつりと文句を言うしかできなかった。

「今日も遊ぶって言ってたじゃん」

「うむ……そうやったかもなあ、すまぬ……」

「……ねむっちゃうの?」

「ああ……きょうは、ねむろう。のう――」


みゆき!』

 ノイズ混じりの無線音が男の名を呼ぶ。一瞬の間、意識が古い記憶に飛んでいたが見事に呼び戻された。男――藤田幸ふじた・みゆきは地面を頭上に高度から超速で落下している最中だった。額まで届く大きなタクティカルゴーグルは超高速の落下速度によるダメージから目を護っているが、これは男が普段地上で勤務しているときでも常にしている装備だ。備えあれば憂いなしとはこのことかと胸中で思うも、ゴーグルだけでは地上に叩きつけられるダメージを防ぐことはできない。

「くっそ……やっちまった!」

『V《ヴィ》、やっと起きたか。この寝坊助が……』

 耳殻に装着した無線から皮肉を言いながらも安堵を隠せない男の声が聞こえる。

「隊長、助けてくれえ!」

『勝手に落ちてこい。お前の技量不足でこうなってるだけだ』

「その言い方はひどすぎるぜ、隊長! 室長の仮説が間違ってたんだろ!」

 首元に張りついているマイクに向かって怒鳴りつける。とりつく島もない言い方をして地上から涼しい顔でこちらを見上げているだろう、長い茶髪をポニーテールに括った上司の表情を思い浮かべながら、やりきれない気持ちになった。つい先程まで心配していたくせに、目を覚ましたら手のひらを返して冷たい。『隊長』は藤田の技量不足とは言うが、男にとってみれば自身はただの『実験対象』であり、その『実験の責任者』に文句を言いたくなるのも当然だった。

『ちょっとぉ、Vくん。今回の事故が私のせいやって言いたいん?』

 次は無線から少し低めの女の声が聞こえてくる。この女こそが『実験の責任者』だった。関西弁の中でも特にゆるいイントネーションで語りかけてくるため、事態の重大さのわりにかなりのんびり構えているように聞こえた。次いで流れてくる『ふうーっ』という長めの呼吸音――女は重度の喫煙者であるため、そのノイズでタバコを吸っているだろうことを察した藤田はまたもやりきれない気持ちになる。

「室長のバカ! タバコなんか吸っちゃって、余裕こいてんじゃねえ! 大事な被験体が死んでも知らねえぞ!」

『いやいや、Vくん、君はこの程度で死なんやろ。しかもこのご時世に施設内でタバコなんて……ふうー……そんなことできるわけないやん。火気厳禁やでえ』

「嘘つけ!」

『V。落下予測地点の避難指示は済んでるから思う存分落ちてこい。落下地点が施設内で良かったな。あ、室長、ライター貸してください』

「なにもよくねえ! 隊長までタバコ吸おうとしてるし! 川田くん、助けて!」

 藤田の意識がある状態での地上への落下を、少なくとも『隊長』と『室長』のふたりは特に心配している様子はない。そうなると藤田が頼れる相手は地上にはあとひとりしかいない。男は『室長』の助手を務めている若者へ必死に助けを呼びかけるが、しかしそれでも望みが薄いことはわかっていた。

『……Vさん、すみませんがいくら鍛えていてもあなたを受け止めることは不可能です。諦めて落ちてきてください』

 藤田に対して一番同情的な姿勢を見せてはいるものの、男の求める言葉はやはり返ってこなかった。

「ちっ、くしょお……! 俺の身体能力を過信するんじゃねえ、バカ研究者どもがァ!」

『バカバカうっさい! さっさと落ちてこんかい、ボケ!』

 ゆるい関西弁イントネーションだった女の口調がいきなり荒くなり、藤田に喝を入れる。

『Vくんがごちゃごちゃ言うてる間に着地予測まであと 十秒ちょいやで! 川田くん、五秒前からカウント!』

『はい!』

 腐っても『実験責任者』である。その女が指示を出した瞬間に一気に空気がひりついたのを、藤田は無線越しにも感じた。そして同時に地面が急速に己の体に迫っているのを視界に捉える。

 ――畜生! 『これ』を展開するとしばらく体が動かねえから嫌なんだよ!

 心中の悪態は留まることを知らないが、藤田の身を守れるのは自身のみだった。いくら文句を言っても誰も助けてなどくれない。

 眼下に迫る山は丸ごと施設の敷地内だった。木々が青々と生い茂り、空はカラッと広く晴れ渡っている。頬を打つ風も心地良い、爽やかな季節なのだ。本来ならば。

 藤田は両の手のひらに熱を集中させる。全身を流れる血に似た何かが心臓と脳を経由して徐々に熱が手のひらに溜まっていく。

『五秒前! 四!』

 若者の声がとうとうカウントを開始する。その頃には藤田は己の手が燃える感覚に支配され、その熱を落下に抗うように放出させる。男の手は燃える「ような」感覚などというぬるいものではなく、完全に「燃えていた」。ターボを逆噴射させるような感覚で、落下の衝撃を和らげる。そしてその試みは実際に成功していた。

 しかし、成人男性ひとり分の質量が地上に落下するエネルギーは並大抵のものではない。

『三!』

「あっつい……!」

 全身から噴き出す汗は己の熱ですぐに乾いていく。それほどの熱量に藤田は弱音を漏らす。しかし男は己の能力を弱めるわけにはいかない。むしろどんどん熱を放出しなければ、落下速度に負けて大怪我をすることはわかりきっていた。

『二!』

 青々とした美しい木々が一瞬にして生命力を失い、熱に枯れていく。藤田が干渉する領域の木々は、すべてが一瞬にして丸裸になり、風化した。まるで最初からそこに何もなかったかのようにぽっかりと空間が開いた。

『一!』

 川田のカウントの直後、観測地点から少し離れた山中で大きな衝突音が上がるとともに、肉眼でも余波の砂埃を観察することができた。

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