第1話 血と獣の狂宴

 薄暗い森の中、夜風が冷たく吹き抜ける。その風の中を歩む者がただ一人——色褪せた黒のロングコートを羽織り、タバコを口に咥えた美女だった。彼女の顔には美しい輪郭が浮かび上がり、その表情は冷たくもありながら、どこか野性的な魅力を感じさせる。そして、腰まで流れる黒絹のような髪が風に揺れる度、彼女の凛とした横顔を引き立てていた。


 だが、その美しさは毒の棘を隠し持つ薔薇と同様、危険で鋭いものだった。


 女はタバコを踏み潰し火を消すと、静かに呼吸を整えながら、前方に待ち受ける巨大な獣を睨んでいた。その獣は、まるで闇そのもののように黒く、三つの頭に鋭い牙と血走った目を光らせている。


「“元の飼い主”を探して彷徨い続ける三つ首の番犬……ケルベロスか。で、依頼はこのデカ犬の心臓……」


 と、女の表情が一瞬こわばった。ケルベロスはただの魔獣ではない。その心臓を食した者は永遠の命を得ると言われている。しかし、その奇食伝説以前にそもそもが神話に語り継がれる存在であり、ひとたび噛みつかれれば魂ごと引きずり抜かれるという。

 それほどいわくつきの魔獣に対し、危険を冒して手に入れたとしても、彼女自身が食べるつもりはない。女にとって、重要なのはその心臓が高値で売れるという事実だけ。永遠の命など毛ほども興味はない。ただ狩って、売る。それが、奇食ハンターの仕事。


「……なぁに。いつも通り狩る。ただそれだけだろ」


 女はそう呟くと、口元に微かに笑みを浮かべながら、腰に携えた剣を引き抜いた。その刃は、ダイヤモンドさえ噛み砕くとされる古竜の牙から作られている。女はじっと構え、ケルベロスの動きを観察していた。三つの悍ましい頭がそれぞれ異なる動きを見せ、どのタイミングで襲いかかるかを図りかねている。


 その時、ケルベロスがけたたましい咆哮を上げた。女の鼓膜がビリビリと痺れる。大地は震え、木々がなびいている。次の瞬間、三つの首が同時に女へ向けて襲いかかった。鋭い牙が女の周囲を取り囲む。が、彼女の俊敏性はケルベロスのそれを遥かに上回っていた。素早く後ろに飛び退ると、低い姿勢で地面を踏み込み、その勢いのままケルベロスの首を二本切り落とした。


「ヴヴガァァァァァァァァ!!!」


 たまらず、ケルベロスが苦しみの入り混じった唸り声を上げる。


「あと一つ」


 女は血しぶきを浴びた顔で楽しげにニヤリと笑うと、ケルベロスの残りの頭を狙い、再び剣を構えた。ケルベロスは一瞬ひるんだものの、再び猛攻を仕掛けてくる。しかし、それを紙一重のところで躱す女の動きはまことに軽やかで、ケルベロスの攻撃をすべて見切っていた。


 瞬き一つ許さぬほどの激しい戦闘が続く中、女は口に含んでいた返り血を吹きかけ、いまだ獰猛な敵の視界を遮った。それによって生じた一瞬の隙を女は見逃さなかった。およそ通常の人間には不可能な跳躍力で飛び上がると、ケルベロス頭上の死角から剣を一閃。


 女の剣がケルベロスの最後の首を切り落とした。


 その巨大な体が地面に倒れ込むと、女は静かに近づき、ナイフを突き刺した。そのまま心臓を抉り出すと、女は血の滴るそれをじっと見つめた。


「永遠の命、か……。フッ」


 女は皮肉げに小さく鼻で笑うと、心臓を袋に詰め込み、振り返らずにその場を後にした。


 その日、森の静寂を破ったのは、女が狩った獣の最後の息吹だけだった。




 ——彼女の名は『アリス』


 初代皇帝没後、およそ千年が経った今、奇食ハンターとして名を馳せる者たちの中でも、ひと際異彩を放つ女だった。


 奇食の入手には果てしない冒険と死に直結する危険が伴う。しかし、アリスは金さえ積めば、どこへだって狩りに向かう。それがたとえ、地獄だろうと……。


 彼女が求めるのは、巨額の報酬…………そして、初代皇帝ですら味わったことのない『禁断の奇食』であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る