音色
nobuotto
音色
「そうですか、そうですか、こんな片田舎まで話を聞きにいらしたと。ええーと、お茶は、まだですな。おーい、 婆さん、お茶をお出しして」
山裾の古屋の風鈴が鳴るたびに涼しい風が入ってくる。
「古典芸能の番組のディレクターさんですってね。婆さんが言うには、とても素敵なお嬢様ということで。ああ、今の時代はそんなことを言ってはいけませんね。それにしても琵琶の名人が多々いらっしゃるのに、もう引退した私なんぞに会いに来て下さって。ああ、そうそう、私の先祖が”耳なし芳一”ということで、何かお聞きしたいとのことでしたっけね。ええと、ええと、婆さんお茶はまだですかい」
その声に答えるような、猫の鳴き声が遠くから聞こえてきた。
「婆さんは耳が遠くて困ったもんです。それで、私もこの通り、もう20年も前からこんな体でしてね。”耳なし芳一”の子孫が盲とは、おっとこんな言葉も今は使ってはいけないですね。けど、見えなくなった分、耳は達者になり琵琶の腕前もあがりましたから、何が芸の肥やしになるかわからないものです。あっ、済みません年寄りは前置きが長くていけません。ええっと、”耳なし芳一”が怪談話として有名ですが、芳一は琵琶も語りも一流だったから、このような話が生まれたのでは、ということでしたっけ。そりゃあ一流も一流で芳一の琵琶の音色も語りも聞く者の心を惹きつけて離さない、平家の亡霊ですらもですからね。けどね、それには、それなりの理由ってもの
があったと伝え聞いております。そうか、それをお聞きにいらっしゃったんですよね」
****
陽が落ち、寺院に広がる静寂の中、芳一の琵琶の音色だけが夜風に乗って阿弥陀寺を包んでいた。
その琵琶の音色は芳一しか語ることができない深い思いを奏でていた。
ある人はそれを悲しみと解釈し、またある人はそれを孤独と捉えた。
しかし、その真実を知る者は一人、芳一だけだった。
芳一の琵琶の音色は吉乃の心にも強く響いていた。
吉乃は阿弥陀寺の和尚の姪で、純粋な心と美しい容姿を持つが、身体が弱く、寺院内で静かな日々を過ごしていた。
彼女は夕暮れの床で芳一の琵琶の調べを聞いて心を慰めていた。
吉乃は芳一を心から尊敬し、愛していた。
しかし、法師、それも叔父の弟子を愛することは許されるはずはなかった。
吉乃と芳一の時間は琵琶の音に包まれて、ゆっくりと流れていた。
吉乃が突如として倒れた。
その報せを聞いたとき、芳一は自分でも驚くほど心から愕然とした。
いつかこの時が来るに違いない、誰もが芳一も心の底では思っていた。
けれど実際に訪れると自分でも抑えきれない動揺に芳一は包まれた。
琵琶の音色に抑え込んでいた気持ちが吹き出すのを、芳一は必死にこらえていたのだった。
芳一の琵琶の音色は、これまで以上に悲しみと焦燥感が混ざり合った響きとなった。
吉乃が病床に伏している寝室に、わずかに月明かりが窓からさし、美しい顔を優しく包んでいる。
吉乃の寝息だけが、流れる時間をやさしく刻んでいた。
心の中で吉乃の手を握りながら、芳一は寺の庭から静かに寝室を見守っていた。
「吉乃様、どうか乗り越えてください」
ここまでが、和尚の姪に許される愛の形であった。
吉乃の生きる力が奪われて行くさまを見るのは、言葉では表せないほど芳一には苦痛だった。
夏も終わりかけた晩、いつものように琵琶を奏でる芳一の前に突如として黒装束の男が現れた。
その目は何かを知らせるように芳一に向けられていた。
男の声が頭の中に響いてくる。
「芳一、あなたの琵琶の音色を、我らの主に聞かせるように。さすれば、あなたの願いを我らの主がかなえてくださるであろう」
男がこの世の者ではないことがすぐに分かった。
芳一は吉乃を救う可能性があるのならと、黒装束の男のあとについて行った。
男が連れて行ったのは坂の下の壇ノ浦であった。
淡い月明かりが浅瀬に反射して幻想的な光景を作り出し、海からは冷たく潮の香りが漂っていた。
そこは、平家の亡霊が静かに集う場所だった。
芳一は使者の命に従い、琵琶を弾き始める。
その音色が夜風に乗って遠くまで響き渡り、亡霊たちに聞こえる。
芳一に亡霊は見えない。ただ、琵琶の音と語りにすすり泣く声だけが聴こえるだけだった。
その夜から、芳一の壇ノ浦参りが始まった。
芳一がそこで琵琶を奏でるたびに、不思議なことに吉乃の体調は次第に回復していった。
芳一はその奇跡にすがるように深夜に壇ノ浦へと向かうのであった。
吉乃は自分の体に巣食っていた病がだんだん小さくなっていき、生きていくための力が大きくなっていくのを感じていた。
何かの力が確かに自分を支えてくれているのを感じていた。
夕暮れにいつも聞こえてくる芳一の琵琶の音の力なのかもしれない、吉乃はなぜかそう思うのだった。
体の憂いが減るかわりに、吉乃の中の小さな疑問が少しづつ大きくなっていった。
夜中ふと目が覚めたとき、芳一が琵琶を大事そうに抱え寺を出ていくのを、また、息苦しさに明け方まで起きていたときに芳一が琵琶を大事そうに抱え寺に戻ってくるのを幾度も見た。
「芳一、夜分どこにいらしているの?」
庭の草むしりを一心にする芳一に聞いたが、吉乃の純真な瞳に答えることなく、芳一は微笑むだけだった。
しかし、琵琶の調べは、ある夜、途絶えることになる。
ここ数日で芳一は別人かと思うほど焦燥していた。
芳一を心配した吉乃は、和尚に夜な夜な琵琶を持って寺をでていることを告げた。
なにか怖いことが起こっているのではないかと和尚に相談したのだった。
和尚は、小僧に芳一をつけさせ、芳一が壇ノ浦で琵琶を奏でていることを知った。
月明かりの中、和尚は芳一に近寄り、厳然とした声で問うた。
「芳一、お前が何故夜中に寺を抜け出し琵琶を奏でるのか、私に語れ」
芳一は眉を細め、緊張した表情で黙り込んだ。
この秘密が露見すれば、今後、吉乃の癒しは叶わず、すべてが終わりを告げてしまうのではないかとの恐怖に、芳一は声を挙げることができなかった。
「恐れるな、芳一」
和尚の声は優しかった。
「私はお前を助けたい、お前が自分の命を削る理由は吉乃じゃな。私も吉乃の癒しもまた願っている。だが、そのために、お前が平家の亡霊と交わることは、やはり避けねばならぬ」
翌朝、芳一は本堂に呼び出された。
目の前には和尚が仏壇の前に正座し、経を唱えていた。
和尚は芳一の全身に経文を記し、彼を平家の亡霊から解き放つ決意を固めていた。
和尚の経文が芳一を守った。
しかし、和尚が経文を書き忘れていた耳だけは、黒装束の男に持ち去られた。
それから黒装束の男が芳一の元に来ることはなくなった。
壇ノ浦の夜の音色は消えた。
そして、その一方で吉乃の体調が再び悪化し始めた。
夜が深まる阿弥陀寺。
芳一は静寂に包まれた寺の庭で虚空を見つめ、一人、思索に耽っていた。
耳を奪われ、あらゆる音が彼から遠ざかっているようだった。
そして、彼の愛する吉乃の回復も止まった。
絶望感が芳一の心を埋め尽くしていた。
その時、金色に照らされた寺の扉が静かに開かれ吉乃が出てきた。
弱々しくも、確かな步みで芳一のもとへと進んでくる。
芳一は、その光景を信じられないといった表情で見つめていた。
吉乃は芳一の前まで辿り着き、優しく微笑んだ。
吉乃が芳一の耳のない部分をそっと撫でる。
「芳一…。私の為でしたのね」
吉乃はゆっくりと言葉を紡いだ。
その声はひ弱だったが、その中には強い意志が宿っていた。
芳一は吉乃を見つめ、じっとその言葉を聞いた。
「吉乃様、どうして…。こんなご無理を...」
吉乃は芳一の言葉に微笑みながら、
「あなたが私のために何度も琵琶を奏でてくれたこと、全てわかっていました」と言った。
その言葉に芳一は涙を流した。
彼女の目はつねに優しさに満ちていたが、今、芳一に送っているその視線は、深い愛情に満ちていた。
「あなたの琵琶は私の生命を繋ぎ止めていました。あなたの愛が私を救いました。ありがとう、芳一」
あふれ出る感情を抑えきれず、芳一の頬を涙が伝い落ちていった。
吉乃はそのまま、芳一の元でゆっくりと身を横たえ、最後の力を振り絞って芳一の手を握った。
「芳一、あなたの琵琶、いつまでも私の心に響き続けるでしょう」
それが彼女の最後の言葉だった。
芳一も吉乃の手を握り返し、「吉乃様…ありがとう。愛していました...」と告げた。
阿弥陀寺のひっそりとした境内に夏の終わりを告げるような漂う冷たい風が、芳一の琵琶の音色を遠くまで運んでいった。
灯篭の火がゆらゆらと揺れ、芳一の陰影を大きく壁に投げかける。
その姿は、耳なしとなった悲しみを背負った男の輪郭だけを浮かび上がらせていた。
芳一は大事なものを二つ失っていた。
一つは、音楽の世界への扉だった彼の耳。
もう一つは、彼の生涯に深い足跡を刻み、琵琶の音色に悲しみの響きをもたらした、美しい和尚の姪、吉乃。
芳一の演奏は、彼の生きる意味そのものであり、彼自身が吉乃に送り続けるメッセージでもあった。
芳一の琵琶の音色は、語り継がれ、時とともに人々によって広く知られることとなり、「耳なし芳一」という名前を通じて、彼の悲しみと愛情は、時代を超えて遠くまで運ばれていくのだった。
***
「さてさて、これが私達に伝わっております話でございます。今と違って自分の気持ちをそのまま言うことができない時代ですからねえ。そのおかげでより深い琵琶の音色を奏でることができたのでしょうが、とても辛い話でございます」
風鈴の音が涼しげに鳴った。
「あれ、お泣きになっておられるのですか。そういえば、私が子供の頃に、同じようにラジオ番組の方がいらして、父がその方と話しておった時に、その女性の方が、すすり泣いていらしたのを、あれあれ、 今、思い出しました。どのような方だったかなあ。女性だったことは覚えているのですが、姿形が思い出せません。姿形は思い出せないのですが、そうそう、あの時も、こちらがいたたまれないほど、寂しげに泣かれていて ….」
音色 nobuotto @nobuotto
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