第三話② 月光、青い羽、導かれる結末。


 僕はボールを持ったまま駐車場に戻り、坂道を上がり、橋の中央まで歩いた。そしてリュックからカメラを取り出す。ここには僕の罪がある。友菜さんの死がある。だからこの場所の過去を視ようとすることに、手が震えた。けれど深呼吸して、そこに向き合う覚悟をする。六年前のあの日、月もないような暗い夜。僕が一番遠ざけてしまいたいあの過去のことを思い浮かべ、シャッターボタンを押す。

 再生画面には、欄干に横たわる友菜さんと、中学生の僕の後ろ姿が写っている。胸の奥がズキズキと痛み出す。もう少し後だ。あの日はどろりとした暗闇の中だったけれど、今は満月が空にある。シャッターボタンを押し、再生画面に切り替える。モニターの中の友菜さんが落ちていく所だ。人の死を間近に感じる。懺悔と恐怖に呼吸が乱れ、食いしばる歯が震えてガチガチと鳴る。でも、まだだ、もっと、見据えなくては。

 欄干に近付いて、川に落ちていく友菜さんをイメージして撮影する。再生画面には友菜さんの最期の姿と共に、いくつもの小さな球体が写っている。

 身体の中に蓄積していた過去という毒が形を変え、思考がクリアになっていく。もし、このボールが、友菜さんが落下しやすいように悪意をもって忍ばせてあったなら。あの時の、僕を呼び止めた男は。

 カメラを構えたまま反対側を向き、少し前の時間をイメージする。友菜さん。ゴルフボール。車。あの男。頼む、写ってくれ。シャッターボタンを押し込む。

 再生画面に映っていたのは、少し若く見える涌井教授の、狂気的な笑みを浮かべた姿だった。

 僕は力なく地面の上に座り込む。ハメられたのか、僕は。利用されたのか。

 ポケットからスマホを取り出し、通話履歴から一件の番号をタップする。やがて通話が始まり、僕は声を出す。案外冷静でいる自分に、微かに驚きながら。

「涌井先生、桜羽柊です。夜分遅くにすみません。どうしてもお話ししたいことがあります。五瀬川にかかる御影橋の真ん中で、お待ちしています」

 返事を待たず、通話を切った。そしてアプリを起動し、カメラの画像を取り込んでいく。


 三十分ほど経った所で、一台の黒いセダンが僕の前で停車した。僕が立ち上がると、運転席のドアが開き涌井教授が降りる。彼は人懐こい笑みを浮かべ、僕に手を振った。

「やあ、桜羽クン、久しぶりだねぇ。心配してたんだよ。どうしたんだい今日は。警察に行く気になった?」

「涌井先生、教えてください。先生が以前話してくれた『自分を変えるきっかけをくれた人』が、蓮見友菜さんなんですか?」

「ん? 確かそれ、前に電話でも言ってた名前だけど、誰のことだい?」

 教授は表情を変えず、にこやかなままだ。

「お願いします。はぐらかさずに教えてください。友菜さんは、先生にとって大切な人だったんですか?」

 僕はスマホの画面を教授の方に向けた。それはこの橋で撮影した一枚目。僕の後ろ姿と横たわる友菜さんが写ったものだ。

「なッ……ん、だい、この写真は。キミが作ったのか? ハハ、面白いね、もっとよく見せてくれないか」

 スマホに手を伸ばす教授から逃げるように、僕は一歩下がった。

「先に忠告しておきますが、このスマホを破壊しても写真のデータはバックアップ済みですし、僕を殺しても、別の写真も合わせて予約投稿でSNSに公開されるように設定してあります。予約をキャンセルするにはパスワードが要りますが、さっき適当な文字列に変えたので、僕を脅しても出てきません」

 教授は手を下ろし、ひとつ息を吐き出した。その顔から笑みが消える。友菜さんの墓の前で立っていた時と、同じ表情だ。

「そこまで言うってことは、もう色々と知ってるんだね?」

「昏睡する友菜さんの身体の下に黒いゴルフボールを仕込んで川に落ちるよう仕向けたのが、あなたであることは、確信しています」

 僕は隠し持っていたゴルフボールを取り出し、教授に見せた。

「川底を探せば、他にもボールはいくつも出てくるはずです」

「そうか……。ハハ、ハハハハ。ワタシがキミを殺すかもしれないことまで考えて対策を打っているとは、念のために持って来たコレも、役に立たなさそうだ」

 そう言うと教授はズボンのポケットから何かを取り出した。月の光に照らされて、折り畳みナイフの銀色の刃が冷たく光る。僕は唾を飲み込んだ。

「……先日、蓮見家の墓の前で、先生はずっと立っていましたよね。あの時、何を考えていたんですか」

「なるほど、それを見てあの日電話したのか。ワタシも甘かったね。キミの住所は知っていたから、遭遇する可能性は考えられたはずだけどな……。しかしそれをキミが知ってどうするというんだい。知ったところで過去は変わらないよ」

「そうかもしれませんが、知りたいんです。なぜ友菜さんが――僕の大切な人のお母さんが、殺されなければならなかったのか」

 教授は意外なことを聞いたというように、眉を上げた。

「ほう、キミの大切な人の、お母さんだったのか、彼女は。それはそれは、数奇な運命だねぇ。キミもつらかっただろう」

「ふざけないでください! あなたがやったことで、あなたのせいで、僕の人生も、星那の人生も、変わってしまったんだ!」

「人は誰しも、どんな形であれ他者に影響を与え、その人生の変化の一因となっているものだよ」

 固く握った拳が痛い。どうやっても、この人は変えられそうにない。

「……先生はこれからどうするのですか。友菜さんは事故死と報じられましたが、僕が警察に証言すれば、再度事件性の検証が行われる可能性はあります」

「どうかな、六年も前に結論の出ている出来事だ。警察も暇じゃない。まともに取り合ってくれるか分からないよ」

 確かにそれは懸念していたことだ。過去を念写した写真など、証拠として信じてもらえるとは思えない。蝶が教えてくれたこのゴルフボールも、川底に沈んでいるであろうボールも、他殺を立証する材料としては不十分だ。

 僕が歯噛みしていると、涌井教授は「ハハハ」と笑い、満月を背景にして欄干の上に飛び乗った。僕は警戒し、後ずさる。

「心配しなくていい。警察に検挙されるかどうか、そんなことはぼくにとってどうでもいいことだ。彼女を汚した世界。彼女のいない世界。そこで生き永らえるのにも飽きていた所だ。欲しいものが何もなくなったんだ。結局ぼくは、彼女が生きていようが、死んでいようが、彼女の隣にいられないなら、乾いていくだけだったんだ」

 教授は右手に持っていたナイフを月の下でひらりと回してみせた。

「そうだな、振り返ってみると、六年前のこの場所でキミを巻き込むために策を巡らしたあの時間が、ぼくの命の最高潮だったのかもしれない。失敗したら死ねばいいとまで思っていた、あのゲームは最高に楽しかったよ。あの時はぼくが勝ったが、今日この場所で、成長したキミにこうして追い詰められることで、僕の人生は完結する。ハハハ、素晴らしいエンディングをくれてありがとう」

「ま、待ってください!」

「そんなキミにお礼のプレゼントを上げよう。友菜の死の真相を世間に知らしめたいなら、まずはぼくの家の庭を掘るよう警察に言ってくれ。そこにかつてぼくが殺した父の亡骸が埋まってる」

「は⁉」

「それを見ればさすがに警察も、ぼくという人間の異常性に目を向けるだろう。そうなれば、友菜に関するキミの証言にも聞く耳を持ってくれるはずだ」

 教授はそこまで言うと、ナイフの刃を自分の首元に当てた。

「待って――」

「ぼくの過去も、想いも、願いも、約束も、愛情も、希望も、絶望も、全部ぼくだけのものだ。誰かに語りたいとも、理解されたいとも思わない。心は言葉にすればその瞬間に陳腐化する。他者に完全に理解されることなどない。ぼくのなかの友菜は、ぼくだけのものだ。だからあの世まで持って行くよ」

 その銀の刃は、いとも容易く彼の首を切り裂いて――

 教授の身体は、ゆっくりと後方の、五瀬川の黒い水面に向かって落ちていった。少しして重いものが水に落ちる時の、どぼん、という音が空しく聞こえた。

 償わせたい、とは思った。けれどそうしたところで友菜さんは帰らない。

 僕は瞼を閉じて上を向き、大きく深呼吸をした。目を開けると大きな月が、眩しく感じるくらいに輝いていた。

 僕の過去。想い。願い。約束。愛情。希望。絶望。それらのことを思った。

 利用されたとはいえ、僕が友菜さんを落としたことは変わらない。

 でも、今は。

 世界の色が少しだけ、変わって見えた。

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