第6話 浮気
七尾の告白を断ったあとの予備校の日、いつも通り教室の一番前の席に座る私の背中に七尾の視線がブスブスと突き刺さった。
その視線はギャップ萌えによる恋慕の視線ではなかった。
珍獣を観察するそれだった。
観察され続けることは精神的に疲れることだとこのとき初めて知った。
集中が切れるたびに突き刺さる視線に意識を持っていかれるからだ。
人間って実験動物をひたすら観察した後に解剖もしてるんだよね。
その日、私は視線に耐えかねて授業が終わると直ぐに逃げた。
七尾に「おい」と呼び止められたけれど、人物を特定する名前じゃないから無視した。
ん?
いま気づいたけれど、あの頃の顕仁は私の名前を知らなかったのかもしれない。
ゲスだ、ゲスゲス。
その後何回かこれを繰り返したが、すぐに慣れた。
顕仁のやっていることってストーカーと同じだったから、いざとなったら常に携帯している痴漢撃退スプレーを吹き付ければいいと思った。
私は昔からストーカーに慣れていた。
お母さんにもストーカーがいた。
お母さんには自衛すること、反応すると喜ばれるから無視すること、あと護身術は真剣に学ぶように言われていた。警察に相談しても実害ない限り無駄、そして実害があっては困る。
お母さんが再婚して直ぐ、お義父さんがお母さんの後ろをついて歩く不審者を発見して捕獲した。
その男がお母さんのストーカーだと知って顔を青くするお義父さんに対し、お母さんも私も「ゴキブリが出たのね」くらいの感想しかなかった。
駆けつけてきたお祖父ちゃんとお義父さんにはストーカーに慣れてはいけないと言われたけれど、不定期に際限なく湧くものには慣れなくては精神的にやられる。
このあとお義父さんが痴漢撃退スプレーをプレゼントしてくれた。
効果を教えてほしいと言われているから使うたびに報告して、いま鞄の中にあるのはお祖父ちゃんがくれた海外製のスプレー。海外のは過剰防衛になる可能性がある、早めに正当防衛ライン内かどうか確認しないと。
「今日は逃げないんだな」
逃げるのをやめたら私はあっさりと自習室で七尾と対峙することになった。
思いきり悪役の台詞だった。
「よく考えたら逃げる理由がなかった」
「……よく考えたらそうだな」
分かり合えたことで共感が生まれたのか、七尾は自習室や図書館にいる私によく声をかけるようになった。
いつもみたいに取り巻きを連れずに一人で私の傍にいる七尾に「もしかして」と勘違いした私、恋愛慣れした男の汚いテクニックだった。
でも、あの時間は嫌な思い出にはならない。
あのときの七尾はいつも人に囲まれて声をあげて笑っている七尾とは別人で、話しかけてくる落ち着いた声と、少し間延びした穏やかな話し方が心地よかった。
……ギャップ萌えにやられたのは私だ。
この時点で私は七尾に対して萌えるに十分な好意があったわけだ。
「花森のこと、好きだ。今度は本当」
七尾が私を「おい」ではなく花森と呼ぶようになったころ、二回目の告白をされた。一回目の告白は嘘だと自白する正直さに笑えなかったのは、七尾の声が真剣で目に熱が籠っていたから。
初めて彼氏ができた。
「顕仁の彼女」と宣言して周囲をけん制する気はなかったから周りに何も言わなかったけれど、あとから思い返せば私が七尾の彼女になったことは不自然なくらい騒がれなかった。
クラスの多くの
騒がれないことにホッとしていたあの頃の私の肩を掴んで「明らかに不自然だろう」と叫びたい。
脳内お花畑だった。
黒歴史だ。
救いはキスまでだったことかな。
賭け対象の女の子と体の関係を持ったゲスもいたようだけど、七尾とはキスまで……舌を入れられたのも一回だけ。
キス止まりは七尾の良心……誤魔化すのはやめよう。
私に魅力がないと思いたくないために七尾の罪を軽くするのはやめよう。
どちらにしても今さら答え合わせはできない。
答え合わせをしても意味がない。
私ももう少しで三十歳。彼氏が自分以外の女とキスする場面を見ても、怒りに任せてその場に乱入する熱も勢いももうない。
七尾のときはキスしていたところに乗り込んだけれど。
若かった。
賭けだと知らず七尾の彼女を気取って笑えると、七尾とキスしていた女の子に言われた。
名前も知らない女の子はキスした直後の甘く火照った顔をしていた。
未熟者の私は七尾に否定してほしかった。
でも七尾は私に「ごめん」と謝った。
謝ったということは女の子の言っていたことが正しいと認めるということ。優しく囁かれた「可愛い」も甘いキスも賭けのための嘘だったということ。
「こんの、クソ野郎!」
力一杯顕仁の頬を殴り飛ばした、きっちり拳を固めた。
うん、若かった。
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