義務感は間違うことがあっても欲望は間違わない。

和藤内琥珀

第1話 締切に間に合えない

氷頭膾を頬張った。

窓の外には、桔梗色が広がっている。ここは全国有数の桔梗の名所らしい。

まあ、それを外に出て鑑賞する程、外は適温ではないが。

「あー涼しぃ…」

「『クーラーの効いた店内最高…』じゃねぇわ」

背後から肘打ちが飛んできた。それを華麗に避けたい…のだが、文系男子である僕には到底無理な話だ。

「季節外れの氷頭膾なんざ食ってねぇで速く書きやがりなさい」

「それ氷頭膾に失礼だよ」

「『季節外れ』が罵倒の言葉に聞こえるんですかアンタ」

脳味噌大丈夫ですか─とでも言いたそうに、僕の担当編集者、麻宮 大貴(あさみや たいき)は、自分の頭の横で、指をぐるぐるとさせた。

「ていうか、本当書けよ今日締切ですよこの野郎」

「今日締切の作品は一昨日出すよ」

「中学生みたいなこと言わないでください」

「ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、僕はきらいだ。締切になれば作品を出せという。出してしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ」

「坂口安吾の『恋愛論』みたいなことを持ち出しても今日締切なものは今日が締切なのは変わりませんさっさと書け」

氷頭膾を口に含む。淡白な味が口内に広がり、コリコリとした食感が僕を楽しませる。ゴクリと喉を通った。

「さてさて、そろそろ行くとするかな」

席を立つ。カランコロンと下駄が音を立てた。

「書くんですか?」

「いいや、違うよ」

扉の上部についた、来客を知らせる為のドアベルが鳴る。

「君(締切)から逃げるのさ」


✕✕✕


「俺から逃げるってなんですか…ってあ」

訊く前に、俺が担当する作家、白 虔(つくも けん)は、長い髪を揺らして、店を立ち去った。

慌てて俺も外へ出る。も、既に彼の姿は消えていた。

「チッ…逃げても締切は今日だぞバッカヤロー!」

と、叫んで終わるもんですか。

スマートフォンを取り出し、マップを開く。右上のアイコンをタップし、現在地の共有を押す。そして、白のアイコンを選ぶ。マップは自動で移動、示された場所は彼の住むアパートだ。

ああ、GPSとはなんと便利なのだろう。こんなに早く居場所が特定できるなんて。アメリカ万歳!俺は若干スキップをしながら、アパートへ向かった。


扉の前に立つ。手をかけると、鍵は掛かっていないようで、すんなり開いた。何かが怪しい。彼は締切に迫られると何をしでかすか分からない男だ。だのに是程あっさりと入れる筈がない。少なくとも扉に鍵を掛けて、ロックチェーンを掛けて、机や本棚でバリケードを作り、入れば頭上に盥が落ちてくるように仕掛けてはいる筈だ。

恐る恐る、室内へと歩みを進める。盥は降ってこない。ところどころ破れた襖を開く。1ヶ月は掃除をしてないであろう程の埃臭さだ。その中に、白の姿は見えない。真ん中に置かれた机の上には、スマートフォンだけが鎮座している。

…スマートフォン?

「あっ…!あいつ…スマートフォンだけ置いて行きやがったな…」

そりゃあGPSが示した場所に白がいないもんだと独りごちた。スマートフォンは現代人の必需品だから彼も持ち歩いているだろうと考えたのが間違いだった。そもそも、締切から逃げ回る彼を一般人と同じ物差しで測っていたのが間違いだった。

『そろそろ着いた頃かな?』

机の奥には、大きな窓の前に、違和感ましまし超大盛りの、埃を被って白くなりかけているテレビがある。今、それが喋った。というより、白が喋った。原稿に手もつけずテレビの改造をしていたのかあの野郎は。改造中のニマニマとしたオタク気質の気色の悪い笑顔が容易に想像ができて吐き気がした。

「テレビ改造してる暇あったら素直に書けや!」

『それとこれとは違うんだなあ。ほら、やる気なのにお母さんに「宿題やりなさい!」って言われるとやる気なくなるのと一緒だよ』

「アンタの場合はハナからやる気なんてねぇだろうが」

『まあその話はそのくらいにして…』

「都合が悪くなると話やめる癖あるよな、アンタ」

『僕はパン屋にいるから早く迎えに来てくれ』

「お、書く気になったんですか」

『十万円程貸してくれ』

「金目当てかよ!てかパン屋でどうやって十万使うんだよ」

『全種類食べてみたくってね』

「暇人か」

『3丁目のぽかぽかベーカリーだからねー、僕無一文なのにお店にいる罪悪感で死にそうだから早く来て』

「それで死ぬならもう作品書いてない罪悪感で死んでるだろ」

『とにかく早く来てくれ給えよ!』

ぶつん、とお決まりの切れる音がして、テレビからは何も聞こえなくなった。

至極面倒臭い。ああ、こんな作家の担当編集者になんかなるんじゃなかったと、数年前の自分を恨んだ。


さてパン屋に着くと。

「やあやあ、遅かったじゃないか。待ち草臥れたよ」

神経を逆撫でするニコニコ笑顔で白が出迎えた。嗚呼、心底腹が立つ。

「言っておきますが貸すのは200円だけですからね」

「ええっ、それじゃあ1つしか買えないじゃないか!」

「はいはい、駄々こねない」

「仕方ない…店員さん、スカシカシパンを1つくれるかな?」

「パン屋にねぇわ」

「じゃあショパンを1つ」

「この世にねぇわ!」

「パリにお墓はあるよ?」

「んな豆知識要らねぇわ!」

「もー…君が変なことを言うから店員さんの顔がひきつってるじゃないか」

「アンタのせいだろ!」

「なんでも人のせいにするのはよくないよ?」

「人のせいにしてるんじゃなくて事実だよ」

「では冗談は抜きにして…どれにしようかな…よし、じゃあ店員さんのおすすめにするとしよう!」

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義務感は間違うことがあっても欲望は間違わない。 和藤内琥珀 @watounai-kohaku123

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