百鬼夜行マーケット

雛形 絢尊

第1話

鬼門という言葉をご存じであろうか。

 鬼が出入りをするという艮(北東)の方角のことである。古くからこの国では忌み嫌われていた所謂『不吉なもの』とされる。近頃、様々な都市伝説などの憶測が転がっているであろう。決してその噂に触れてはならない、と言いたいところだが、実際この物語とは一切関係ないので、触れてみるのもいかがです?

 

  1 

 

 蛇口からひねった水が水しぶきを上げながらシンクへと落下する。何故だかスローモーションに見える。その音しか響かないほど大きな音を出して。そろそろ水かさがシンクの外へあふれ出してしまうほど満帆になる。

手の水色のゴム手袋が蛇口のレバーを下げ水を止める。帽子を深々とかぶり、着るエプロンの上から白い水除を装着している。体の前を濡らさないために腰にはめる簡単な作りのものだ。何かを見つけた稲森修司は、隣の部屋にいる佐田竜馬に目で合図を送る。佐田はそれに気づいたようで頷く仕草を見せる。

 稲森は堂々とした姿勢で脱いだ水除を机の上に置き胸を張り、すぐ近くのスイングドアを右手で押し開け、履いていた長靴の底を黒いマットの上に擦り付け、最低限度の汚れを落とす。

 バックヤードから店内への境界線。一歩踏みしめれば戦場である。言い過ぎたがそんな時もある。少し深呼吸をして、先ほどの扉よりも重たい扉を右手でこじ開ける。行き先は決まっていた、もちろん。

 時刻は大体七時半。ピークと言っても過言ではない。仕事帰りの面々が辺りに蔓延っている。騒がしいと言ったら騒がしい。様々な言葉が聞こえてくる。

 のっそのっそと稲森は歩き出したところで、一人の女性に声をかけた。

 女性は反抗せずに言われたことに対してそっと頷いた。一方、佐田は売り場の近くにいた副店長代理『若林』に訳を話し、少し離れた稲森の場所へ。そこへ向かう途中、佐田は稲森の右目のウインクを見ていた。出来損ないのウインクだった。

 

「で、それからその女の人はどうなったの?」

と、川口倫太郎は疑問に思う。

「そのまま、おとなしくバックヤードに連れていかれたらしいよ」

 そう答えるのは江崎聡。こう見えても二人は今バイト中である。一番通路の缶詰、ドレッシング、パスタ類などの売り場の陳列をこれでもかという近い距離でしている。

 二人は管理部門に属する。『総合管理部門(T.M.S)』通称:管理だ。

 主な仕事内容は、崩れてしまった売り場の手直し、掃除諸々、他部門の手伝いと、万事屋的立ち位置である。二人いれば熟せる仕事量だ。ここ、『スーパーマリオ』は知る人ぞ知るローカルスーパーである。某ゲーム会社の某人気キャラクターであることは大目に見てもらいたい。

 その中で、精肉加工肉を扱う精肉部門、すしなどの海産食品を扱う魚類部門、弁当や惣菜やらを扱う惣菜部門、野菜や果物を扱う青果部門、牛乳やパンなどの寿命が短い食品を扱う日配部門、その他食品、日用品を扱うグロサリー部門、レジ・チェッカー部門、管理部門と約八部門で成り立っている。

「万引きなんてするやつがいけねえよな」

 少し怒ったように川口が言う。

「いつか稲森先輩みたいにとっ捕まえたいな万引き犯」

「そうだな。そういえば稲森先輩ってなんで辞めちゃったんだっけ」

「大学が忙しいんだとよ、まあ就職活動の時期だし仕方がないよ」

 稲森先輩は二か月前の春、大学四年生になる節目にこのアルバイト先から旅立ったのだ。少しの関わりだったけども頼れる先輩がいなくなることはやっぱり寂しい。

「で、本当なのかよ、そのこと」

「ああ、ガチらしい『くるのまちこ』」

 『くるのまちこ』とは人の名前である。と言っても悪い人間のことをさしている。

 会計がまだ済んでいない、レジに来るのを待つ。もし万が一、確実に万引きをしていることを目撃した際にかかるアナウンスでの隠語である。粋なものだ。

「稲森さんもそのことを知って、すぐに外を見たって言ってたよ。そしたら案の定ピンポイントで現場を見たんだって」

 稲森は惣菜部門であった。中で仕事をしていても店内の様子はガラス越しに確認できる。その日から稲森は英雄呼ばわりだったそうだ。

「来ねえかな久留野真知子」

「そんなの待ってるのなんか、お前は久留野真知夫だ」

 それもそうだなと思って少し笑った。缶を四段に積む。が、達磨落としのあの形のようにしっかりと嵌ってくれずに手を滑らして地面に強烈な音が響いた。

 江崎は週四勤務である。月、水、金、土の四日間だ。川口は火、水、日の三日間だ。

 となり、本日は水曜日だ。

 不意に視線を感じ、後ろを振り向くと、副店長代理『北川』がこちらをジーっと見ている。四十代半ばの目のくっきりした顔つきで。言われることは大体想像がつく。

「おしゃべりするな」

ほら当たったと川口と目を合わせ、はい気を付けますと口をそろえる。仕方がなく隣の通路、和食の具材、みそ汁、ふりかけなどが置いてある二番通路へ。たどり着いたのはいいが、こういう時に限ってなかなかの混み様だ。自分たちの仕事の中で一番苦痛なのは、この多くの客が群がる中で丁寧に手直しをせねばならないことだ。

しかし、もっと辛いのは手直しを崩されることである。例えば今あなたが大量のわさび、からし、しょうがなどのチューブ型調味料の箱を縦向きで綺麗に立てようとする。しかし、上手くいかないものだ。どこかの箱が倒れた途端、ドミノ倒しのように倒れるのだ。そのうえ、やっとの思いで並べた商品を取られまた崩れてしまう。そのループだ。さながら賽の河原である。

そんな中で、黙々と作業をこなしていると、すいませんと声をかけられた。

「練乳ってどこにありますかね?」

 即座に振り向き、こちらですと置いてある場所まで案内した。笑顔でありがとうございますと言われる。なかなかに遣り甲斐を感じる瞬間である。その瞬間またも声をかけられた。大体いつもこのタイミングだ。間違いない。

「このお茶、ケースでいただきたいのですが」

 はいと返事をし、お客の手に持つ二リットルのお茶に目を向け、こちらでお待ちくださいと告げて、急ぎ足でバックヤードへ向かう。

 スライドドアを押し、バックヤードへ。日配部門の浦野さんと目が合った。浦野さんは一個上の女性のアルバイトだ。ポニーテールの似合う綺麗な女性。軽く会釈をし、在庫の場所まで急ぐ。

 いくつも積まれたカートラックを見渡す。炭酸物は炭酸、ジュースはジュース。紅茶は紅茶と、纏められている。お茶物もお茶物としておかれている。ここであろうカートラックを力強く引く。しかしそこには目当てのお茶はなかった。

 すると少し遠くの方から「さとちゃん!どうしたの」と声が聞こえる。聡を省略した呼び名である。声の主は三個上の社員『美濃さん』であった。ミノさんと呼んでいる。

「ミノさん、濃いお茶の大きいのって見ましたか?」

 と尋ねると、

「あー、さとちゃんごめん、まだ二階におきっぱだ」

 ありがとうございますと告げ、二階へと駆け出す。二階の搬入口に届いたばかりのものは置きっぱなしにしていることが稀にある。

 階段を駆け上がり出入り口のスライドドアを開ける。するといくつもの商品が積まれたカートラックの中に目当てのお茶が発見された。急ぎ足で商品を届けるため段ボールを抱え階段を駆け下り、しっかりと届けることができた。少し息を荒げながらも作業に戻った。少し疲れた。いや、結構疲れた。

 そんな中真ん中通路を通る人物と目が合った。

「お、聡じゃん!」

 グロサリー部門の大沢樹だった。大沢とは小中と一緒の友人で話す機会も多い。

「お、おっす」

 と咄嗟に返事をした。一応仕事中なのでおっすなどとは言ってはならないが。

「今日いつもより接客多いよな」

 そうだな、もはや運動部だよと言った。笑いながら大沢は通り過ぎて行った。

 淡々と一列一列と手直しをしていくうちに時刻は夜八時を回っていた。そのくらいの時間になると客足も減り、落ち着いてくる。

 作業も落ち着いてきたので先ほどよりかは遠めの距離で川口とこの前のあることについて愚痴を吐いていた。あることとは外のトイレの掃除のことだ。ちょうど一週間前の水曜日の出来事だった。その惨状はあまりにもひどく、綴ることも苦労なほど地獄であった。「あれは俺らの仕事じゃねえよな」

「本当な、危険な高額バイトと一緒よ」

「クソッ、最低賃金め」

「クソとか言うなよ」

 と交わしている直後のことだった。

 男性の罵声が店内に響き渡る。

「だからなんでないんだって聞いてるんだ!」

 と、餌食となっていたのは同い年のグロサリー部門、梶原実来であった。男性のことも知っている。自分のつけたあだ名だが『ブルドッグ』と呼んでいる。いつも着ているブルドッグの描かれたトレーナーからきている。今その場面でも同じような英語と英語に挟まれた憎たらしいブルドッグの顔と目が合った気がした。理不尽クレーマーであるブルドッグはブラックリストに書かれている問題児である。過去にも店員を怒鳴り散らかし周りのお客にも迷惑をかけ、副店長『若林』の勇気ある行動から出禁、出入り禁止を命じられ、来ることはなくなった。しかし、再び現れたのである。

 周りのお客の視線はそちらに向けられ、自分も川口もそれを見ることしかできなかった。

「止めに行こうぜ」

 と川口に言われたものの、一歩を踏み出すことができなかった。立ち竦むばかりで情けない。川口は突然、図星を指すことを言った。

「聡、お前実来のこと好きだったんだろ?」

 全身をつつかれたようにその通りだったが、助けに行くことはできなかった。

 

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