六日目(3)
僕は唖然としたまま、ペドロの言葉を聞いていた。
この、ゴミ屋敷も同然の不気味な一軒家……その居間にいるのは、脱獄した最悪の殺人鬼と殺人犯、そして心が壊れてしまった人間なのだ。何と異様な状況なのだろうか……。
だが当時の僕は、それが異様であることに気づいていなかった。そもそも、自分が殺人犯であるという意識すら、薄かった気がする。
「哲也くん……俺たちは、古の賢者のようにはなれない。だが、そこから心の持ち方を学ぶことは出来る。どのような状況であるにせよ、心の持ち方によって、受ける苦痛の度合いは変わってくる。自分にとって、最大の味方も自分の中にいるんだ。それは忘れてはいけないよ」
そう言うと、ペドロは視線を移した。床に崩れ落ちている児玉を見る。
「さて、学習の時間はそろそろ終わりにしよう。次は実技だ。こちらも、さっさと終わらせようじゃないか」
「え……実技ですか……」
僕が言うと、ペドロは頷いた。
「そう。君は、ここに何をしに来たのか忘れたわけじゃあるまい? 哀れなる児玉智也くんを、呪われし生から解放してあげるためだよ。さあ、見たまえ。今の児玉くんは、むしろ君の手にかかることを望んでいるはずだ」
すっかり忘れていた。ここには、児玉を殺しにきたことのだ。あまりにも想定外な出来事に遭遇したため、頭が混乱していた。ゴミの散乱した室内、明らかに普通でない状態の老婆、精神が崩壊してしまった児玉。
その児玉は今、どろりと濁ったような瞳で虚空を見ている。力なく座り込んでいるその姿は、あどけない幼児のようだった。
この男は、もう死んだも同然なのだ。わざわざ、僕の手で殺す必要があるのだろうか?
その時、またしてもあの声が聞こえてきた──
「君が今、何を考えているのかはわかっている。こいつは、もう死んでる。わざわざ、自分の手を汚す必要はない……と思っているね。しかし、このままでは済まないんだよ。人生に、リセットボタンを押し最初からやり直す、という選択肢は無いんだ。自分の想定外の結果が待っているとしても、最後までやり遂げなくてはならないんだ。敗戦処理という言葉があるが、誰かがその係をしなくてはならない。それが大人の世界だ。まして、自分の選択の結果ともなれば、どんなに嫌でもやり遂げなくてはならないよ」
ペドロは淡々とした口調で語る。怒りや苛立ちのような感情は、全く感じられなかった。代わりに、不思議な強制力がある。その言葉には、頷くことしかできなかった。彼に逆らおうなど、思いもしなかった。僕には、ペドロに逆らうことなど出来るはずがない。
そもそも、ペドロに逆らうこと出来る人間などいるのだろうか? 未だに疑問だ。
僕は両手を伸ばした。昨日、松橋にしたのと同じように、児玉の首に手を伸ばしていく。
ただ昨日と違うのは、ペドロの補助がないことだ。あの怪物は立ったまま、じっとこちらを見つめていた。
当然、僕の視線は児玉の方を向いている。にもかかわらず、ペドロの射るような視線を感じた。まるで、リモコンから発せられる電波のようだ。ペドロの意思が自らの視線を通して僕を支配し、僕の手足を動かしている……そんなバカな考えすら浮かんでしまうのだ。
そして僕は、ペドロの意思に従った。手を伸ばし、児玉の首に手をかける。
直後、恐ろしいことが起きた──
「ヒィヤアアアア! ヒイ! ヒェァ!」
あの時、児玉が何と言っていたのか、正確なところはわからない。そんな風にしか聞こえなかった。
僕の手が児玉の首に触れた瞬間、奴は理解不能で不気味な奇声を発する。次の瞬間、僕は吹っ飛ばされていたのだ。
児玉は格闘技オタクである。関節技で僕の肩を外したのも奴だ。しかし、体は大きくはないし力も強くない。そんな児玉に突き飛ばされ、僕は吹っ飛んだのだ。
奴は、僕をじっと見つめている。その瞳には、先ほどまでとは違うものが浮かんでいた。
これは……死に対する抵抗なのだろうか?
「ヒ! ヒギャアァァ!」
僕を見つめ、なおも奇声を発する児玉。本人以外には、何を言っているのか全くわからない、奇怪な言葉の羅列。
突然、僕の体はガタガタ震え出した。児玉は完全に狂っている。
テレビのニュースなどで、心神喪失などという言葉を耳にすることがある。もっとも、現実にその状態になった者を見る機会はないはずだ。しかし今、目の前にいるのは本物の心神喪失者だ。理性など既に崩壊し、僕が誰かも分かっていない。自分がどこの何者なのか、それすらわかっていないのではないだろうか。
だが、そんな心神喪失者であっても、死ぬのは嫌なのだ。
しかも今の児玉は、力が異常に強い。先ほど、僕を軽々と吹っ飛ばした腕力は異常だった。死への恐怖と狂気が、己を繋ぐ理性という名の鎖を断ち切ってしまったようなのだ。
こんな奴、僕の手には終えない。ましてや、殺すことなど絶対に不可能だ。逆に殺されてしまうのがオチだろう。
「どうだい哲也くん、狂気に取り憑かれた者を見た感想は……俺は今まで、発狂した者を何人も見てきた。だがね、何かを成し遂げる人間は、大なり小なり狂気に取り憑かれている。彼らは案外、端で見るよりは幸せなのかもしれない」
そう言うと、ペドロは児玉に近づいた。手を伸ばし、無理やり立たせる。
だが、児玉はいっさい抵抗しなかった。ペドロの促すまま立ち上がったのだ。
ペドロは、ゆっくりと顔を近づけていく。児玉の鼻と触れ合うくらいの位置にまで、自身の顔を近づけていった。
「児玉智也くん、君の人生はもう終わっている。あとは、それをどのように終わらせるか、だけだ。映画、芝居、小説などなど……あらゆる創作物には、必ず終わりが訪れる。創作物は終わり方によっては、名作にも駄作になりうるんだよ。児君の人生の終わり方を最高のものにしたくないかい? 君の人生を、意味あるものにしたくないかい?」
優しく問いかける。しかし児玉の表情は、先ほどまでと同じだ。どろりと濁った瞳、力の感じられない姿勢。言葉が通じているとは思えない。
直後、児玉は座り込む。糸が切れた操り人形のようだ。もっとも、ペドロはそんなことはお構い無しだった。一方的に語り続ける。
「わかったね。日本には、終わり良ければ全て良しという言葉がある。君もまた、終わりの時くらいは、他の人の役に立ちたまえ。君の命は、そこにいる哲也くんの養分になるのさ。さあ、立ちたまえ」
それは、本当に不思議な光景だった。
ペドロの言葉を聞いたとたん、児玉は自分の足で立ち上がったのだ。既に精神は崩壊し、言葉も通じないはずだった。そもそも、ペドロ本人が言っていたのだ……我々の言葉は意味を持たない、と。
なのに児玉は、ペドロの言葉に従ったのだ。
当時は、児玉がペドロに従った理由がわからなかった。
だが、今ならわかる。言葉が通じていたというよりも、ペドロの意思が通じたのだ。彼ならば恐らく、未開の部族が相手でも意思の疎通が可能なのではないだろうか。ペドロという怪物が、そこに存在する……その事実は、言葉よりも雄弁なのだ。むしろ狂人であるからこそ、その恐ろしさが理屈抜きで理解できるのかもしれない。
ペドロの視線は、今度は僕を捉えた。
「哲也くん、君の番だよ。さあ、児玉くんの人生の幕を降ろしてあげるんだ。彼はもう死んでいる。彼の人生を、意味のあるものにしてあげるんだ」
「え……」
「さあ、早くしたまえ。君は既に一度、人を殺しているんだ。また同じことをやるだけだよ。いいかい、君の目の前にいるのは……かつて君の肉体を壊した男だよ。今では、自らの心が壊れてしまった。因果応報、という言葉の通りだね」
ペドロの言葉が、僕の心を侵食していく……僕の手は、自然と伸びていた。
児玉の首に。
かつて再放送していた学園ドラマで「腐ったミカンを普通のミカンと同じ箱に入れておくと、普通のミカンもみな腐ってしまう。人間も同じで、腐った人間は周りに居る人間をも腐らせる」という意味の言葉を吐いた男がいた、ような記憶がある。
そのドラマは最終的には「人間は腐ったミカンじゃない」と言いたかったのだろう……だが、ペドロは間違いなく腐ったミカンだ。存在だけで、周りにいる人間をどんどん腐らせていく。
いや、そんな生易しい表現ではない。世の中に害毒を撒き散らし、伝染病の如く周囲に感染者を増やしていく……と言った方が正しい。大勢の人間を地獄に突き落とし、振り返りもせずに立ち去って行ける怪物なのだ。
そんなペドロに対し、凡人に何が出来るだろう?
何も出来はしない。
僕はペドロの言葉に従い、児玉の首に手を伸ばした…。
不思議なことに、児玉は一切の抵抗をしなかった。僕にされるがままになっていたのだ。
児玉の顔が紫色に膨れ上がる。やがて、死が訪れた。
「どうだい哲也くん、なかなか得難い経験をした感想は?」
帰り道、ペドロは車の中で聞いてきた。彼はいつもと全く変わりない。僕は放心状態のまま、頷くことしか出来なかった。
そもそも、ペドロはどんな体験をした時にテンションが上がるのだろうか。
絶世の美女が全裸でベッドに寝転んでいたとしても、彼は何の
「ところで、君は神を信じるかい?」
あまりに唐突な質問だった。放心状態の僕にとって、その質問はそれこそ理解不能だった。仮に、ペドロがスペイン語で話しかけてきたとしても、あそこまで面食らった表情にはならないだろう。
「その顔から察するに、君は神など信じてはいないようだね。だが、本来なら人間にとって神などどうでもいいんだ。少なくとも、俺は神など必要ない。なぜなら、信じるものは神などではないんだ。俺自身だからさ」
「え……あ、はい……」
曖昧な返事をした。何せ、ひどく疲れていたのだ。人を絞め殺すというのは、簡単なことではない。事実、僕の前腕から上腕にかけての筋肉はパンパンになっていた。昨日、松橋を殺した時の筋肉痛が残っているのだ。
ドラマなどで、殺人犯が真正面から被害者の首に両手をかけて殺すという場面がある。だが現実には、不可能に近い。五体満足で、しかも必死で抵抗する人間を正面から立ち向かって絞殺するのは、並の男ではまず無理だ。普通の人間では、ウサギ一匹すら絞殺するのは難しいだろう。
生き物の命を奪うのは、決して簡単ではない。ましてや、人間が相手ともなると……。
だが、そんな疲労困憊している僕に向かい、ペドロは静かに語った。
「今の君が信じるべきは、神でも悪魔でもない。君自身だ。君自身の内に秘められたもの、そこにはひとつの世界がある。全宇宙を呑み込んでしまえるくらいのものが、ね」
喋り続ける彼の目は、ずっと前を見ていた。いったい何を考えてそんな事を言っているのか、当時の僕にはわかっていなかった。
さらに言うと、今もわからないのだ。ペドロの真の目的は、いったい何だったのか? 大勢の人間の中から、なぜ僕を選んだのか?
そんな僕の反応などお構い無しに、ペドロは一方的に語り続ける。
「仮に俺が、今ここで死んだとしよう。その瞬間に、俺の目に映っている世界は消滅する。その瞬間、ひとつの世界が消えるんだ。面白いと思わないかい?」
「せ、世界ですか……」
「ああ、そうさ。君が死んだとしたなら、君の見ている世界は消え去る。だとしたら……この世界における神とは、君自身ではないのかな」
「僕が神、ですか?」
「そうさ。君が死んだ後、この世界がどうなるか……そんなことは、君には何の関係もない。今、君の目に映っているものの全ては、君を主人公とした物語の風景の一部という解釈も出来る。この俺もまた、君を主人公とした物語の登場人物のひとりでしかないのかもしれないよ。あの家にいた黒川さんは、覚めない夢の世界で生きている。今の君が、そうでないと言い切れるのかい? 君が見ているものが現実で、黒川さんの見ているものが妄想だと言い切れるのかい? 君の前にいる俺は、君の脳が作り出した幻でないと、誰が言い切れる?」
その時の僕は、疲労困憊していた。何を言われようとも、右から左に抜けていく状態だったはずだ。にもかかわらず、ペドロの言葉は僕の心に深く入り込んでいった。
「哲也くん、もう一度言うよ。信じるものは神でも仏でもない。君自身の内なる情熱と、
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