第5話 かんたん♡らくらく 自殺箱
遅かった。
僕が止めに入ろうとしたとき、事態は既に殴り合いに発展していた。
律二は手加減というものを知らない。与太者は三人がかりで組み伏せようとするがしかし、全く手に負えない。
「いてっ」
額に固いものが飛んできた。
地面に落ちたそれを拾い上げてみる。白いエナメル質の肌に黄色い垢と血の赤がこびりついている。折れた前歯だ。
「無頼漢め、粉々にしてやる!」
「なんだぁこいつ、獣かよ!」
三人は満身創痍になりつつ、衆人の目があって引くに引けない様子。
このまま放っておいたら、司法と医療の両機関の厄介になってしまう。ただでさえどちらも忙しいんだから、くだらないことで仕事を増やすのはよくない。
暴れ狂う四人の頭を冷やさなければ。
グリセーダが隙を見て、争いの渦中から逃れてくる。
「ねえ、止められないの?」
「止めなきゃだけど、迂闊に近寄ったら弾き飛ばされちゃうし……」
僕が逡巡してるあいだにも、殴り合いはより過酷にエスカレートしていき、四人の顔面は血塗れになっている。
観衆は壁を築いて囃し立てはじめるし、そろそろ本当に収集がつかなくなりそうだ。
辺りを見回して、ふと、血よりも濃い赤を発見した。燃え上がった炎を消すにはうってつけの赤き調停者。
その名は、消火器。
栓を抜き、ノズルを構え、一気呵成に白い粉末を噴射する。
消火器を使うのは初めての経験になる。中学生のころ、消化訓練で消防士さんが実演するのを見たことはあるけど。
結構重い反動なんだな。この実直な感想を、作用反作用の法則に照らし合わせると、つまりは噴射の勢いがものすごいということであって。
粉末消火剤をもろに食らった戦闘中の四人は、その勢いに押されて路上に這い回ることになった。
立ち上がった与太者三人は、噛み付かんばかりの形相で睨み付けながらも、喧嘩を続ける気力が尽きたようで、捨て台詞を残して去っていった。
観衆も、興が醒めたとばかりに散らばる。
グリセーダが呆れた様子で、
「いきなり殴りかかるから、止める間もなかったわ。いつもこの調子なの?」
「学校じゃ、喧嘩番長呼ばわりされてるよ。自分から吹っ掛けることは存外少ないんだけどね。あの三人は?」
「肩がぶつかったとか言って、お金を要求してきた」
「うひゃあ、今時古式ゆかしい当たり屋だね」
遠神田一帯は昭和の気風を色濃く残していて、喧嘩沙汰や滑走路みたいな髪型の不良学徒が未だ健在だ。どこで煙草を吸っても怒られないし、パソコンの普及率は県内ワーストだったりする。
「川ひとつ隔てた向こうが、こんなにも違うだなんて。驚いたわ」
「果てしない海と山に隔てられた御国からいらしたお姫様が、いまさら何を言いますか」
軽く揶揄ってみると、気を悪くしたようでぷくりとむくれる。
「悪いが、シャワアを浴びて帰りたい。先に帰っててくれ」
律二はそう言って、十分二百円の洗体屋へ向かった。
僕たちは帰路を少し曲げて、洋菓子屋でアイスを買った。僕は二倍濃厚ラムレーズン、グリセーダはチョコミント。
「思うんだけどさ」
僕は、グリセーダの歯形がついたチョコミント味のアイスを眺めつつ、率直な意見を言った。
「チョコミントの色合いって、けっこうサイケデリックだよね」
チョコはともかく、ミントのあの青とも水色とも形容しがたい、ややエレクトリックな色合いは、なんとも刺激的だ。
「美味しいからいいのよ。それに、サーティワンに行ってみなさい、ピカソみたいなアイスがごまんとあるわ」
「この町にはサーティワンがないんだ」
シャトレーゼもない。実はマックもない。バーガーキングはある。
「萬瑞寺にはあるの?」
「あるわよ。それに、ラカブロスにも……」
ラカブロスはサングロシアの首都であり、王都であったはず。
おっと、グリセーダの表情に翳りが。これはチャンス。
「さあ、この先に、枝ぶりのいい松の木があるんだ」
「……だから、何?」
「首を支点にブランコ遊びをしようじゃないか!」
「嫌よ。あなたは何かにつけて、私を殺したがるわね」
「殺すだなんてそんな恐ろしい。僕はただ、君にきっかけと手段を提供したいだけだよ。死にたいんでしょ?」
「……今は、そうでもないわ。自分でも不思議よ。昨日は完全にその気になっていたのに」
「ある種、それは僕のせいだから。君から死ぬ機会を奪ってしまった。奪ったものは返さなきゃ、窃盗で捕まっちゃう」
「あなたが私から離れてくれるのが、一番の近道だと思うけれど。ちょっと落ち込んだらすぐに『死ぬ? 死ぬ?』なんて囁くものだから、気が散っていけないわ」
突き放すような言い草に、僕は哀しみを覚えた。でも確かに、その通りだ。折角勉強しようかと思った矢先に『勉強しなさい!』と檄が飛んできたら、やる気も顔を引っ込めるだろう。それと同じだ。
「じゃあ、松の木は保留ってことで」
「限りなく中止に近い延期よ。どうせ死ぬなら、人目に触れないようにしたい」
それならやはり、荒れ狂う海に身を投げるのが一番だ。
「残念だよ。もしもの時のために用意していた『かんたん♡らくらく 自殺箱』が役に立つかと思ったのに」
「なに、それ?」
「麻縄と折畳式踏み台、練炭と七輪とガムテープ、鋭利なナイフに青酸カリ、コルトと弾薬、などなど多種多様な選択肢の詰まった夢の箱さ」
「どこから出したの。あなた、そんなものを常に持ち歩いているの」
「そりゃ、男たるもの、常に夢を抱いていなきゃね」
「ひどい夢ね」
「この箱を使うのが、僕の夢だから」
「使えばいいじゃない」
「使おうと思えないんだよ。まだ、ね。惰性で死ぬなんてごめんだよ。前向きに、堂々と胸を張って、コロリと逝きたいんだ」
「……死にたくないのが、そんなに嫌なの?」
「嫌だよ。狂ってる。心と脳みそが齟齬をきたしてるんだ。精神に植え付けられた誤謬だよ」
グリセーダはただ顔を顰めるばかり。自分でも、割と破茶滅茶なことを言っていると分かっている。
分かってもらえないのは仕方がないことだ。これは僕固有の問題であって、他の誰の理解を得ること能わぬ、そしてまた得られたところで何ひとつ益のないことだ。
このまま生きているわけにはいかない。
僕のためにも、父さんと母さんのためにも、僕は僕を殺さなきゃいけない。
君に捧げるトーデストリープ 大魔王ダリア @mithuki223
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