芯-2階の個別指導塾-

ABC

第1話 はじめまして

 神崎響子(かんざききょうこ)が勤め始めたのは、うたい文句でよくありそうな、「フレンドリー」が売りの個別指導塾だった。勤め始めたと言っても、ただアルバイト講師として勤務することを、少し格好をつけて言ってみたかっただけで、正社員ですらない。

 4月になり、大学生2年生になった響子は、学業と両立しながら、新しい勤務先でその環境に慣れなければならない。高校生時代に、「台本人間」とあだ名のつけられていた響子は、予測の出来ない事態に陥ることが最も苦手だった。前もって台本を仕込んでおけずに、対策しようのない危機や幸せと直面することは、精神だけでなく身体をも自滅に追い込んでしまうことを響子は身に染みて知っていたからだ。学校のない日に、塾へ出勤するのは当然だった。あまり多くの台本を1度に脳の引き出しにはしまっておけない。1日にいくつも用事があることもだめだった。余計なことは余計な影響を与える。1つに集中しなければならない。それが響子の中で最も効率よく活動できる条件だった。

 その塾は、目の前にそびえ立つ大きなビルを構成する1つの生命体だった。外から見るにどうやら2階部分全体を占拠しているようだ。「なかなか繁盛しているな」とスーツ姿の響子は額の汗をお気に入りのハンカチで拭った。塾の自動ドアに伸ばす手は少しこわばっている。唾を飲んで深呼吸してから、ボタンをそっと押すと、大きな笑顔を貼り付けた大柄の男性が響子を迎えた。

  「ああ、こんにちは。おまちしておりましたよ」

  「こんにちは」

響子は、その顔に出来合いの笑顔を貼り付けると挨拶をした。教室の中に目をそらすと、他に講師や生徒は一見見当たらなかった。「いい人そうだな」と、響子は思った。屈託のない笑顔から、「この人はもしかしたら、多くの人に尊敬されて愛されているような人だ」と思った。

  「私は大國(おおくに)と申します。」

  「神崎響子です。宜しくお願い致します。」

初めての授業を行なう前に設けられた、大國校長先生との時間は、生徒や他の講師がまだ来ていなかったおかげで、静かな時間でとても心地良いものだった。先日電話をした際に、この時間を指定してくれたのは、大國校長先生なりの優しさだったのだろうか。初対面の人にあまりに大きな好感度を抱きすぎないよう常に気をつけている響子だが、この人にはそれを越えてきてしまうような魅力があった。校長先生として最適な人材だと思った。今まで脳の引き出しに溜めてきた目上の人との会話の載った台本を少し使うだけで良かったため、脳の疲弊が少ない。この後の初回の授業で集中できそうだった。

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