第43話 天馬降臨

 永禄3年(1560年)の5月、駿河の戦国大名、今川義元(山崎育三郎)が尾張国で織田信長(松田龍平)に敗れた「桶狭間の戦い」は、信玄にとっても衝撃的な出来事であった。今川義元との同盟は、甲斐と駿河の平穏を保つ要であったが、義元の死によりその均衡が揺らいでいた。


### 信玄、情勢を見極める


**武田信玄(阿部寛)は、自らの本拠地である躑躅ヶ崎館にて、今後の戦略を考えていた。**


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**信玄**(家臣たちに向かって):

「義元が討死したことで、駿河は混乱に陥るだろう。我々の盟友、今川氏真(北村匠海)は未だ若く、その支配力が問われる時が来る。だが、我らがこの機に乗じて軽率に動いてはならぬ。」


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**馬場信春(福士誠治)**(武田家の重臣):

「殿のお考えはよくわかります。しかし、松平元康(徳川家康)が今川を離れ、三河で独立を図っております。これを好機と見るべきではないでしょうか。」


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**信玄**(深く考え込んで):

「元康が独立するのは予見していたが、今はまだ駿河を乱すべきではない。今川との同盟は我々にとっても重要だ。義元が討たれたからと言って、我々の利益のためだけに動けば、長期的な安定を失うことになる。」


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### 美濃と信長の影


一方で、隣接する美濃国では、斎藤氏の内部抗争が激化しつつあった。織田信長はこの混乱に乗じて、美濃へと進出を狙い、さらに武田との関係改善も模索していた。


**信玄は、この状況も見逃さなかった。信長が今後、どのような動きをするかは未知数だったが、木曽・東濃地域での対立は避けたかった。** このため、信玄は信長との接触を慎重に進めていくことにした。


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**信玄**(冷静に):

「信長が斎藤氏を牽制し、我々に接触を求めている。これは好機かもしれぬ。諏訪勝頼に信長の養女を迎え入れ、関係を強化することで、両国の平穏を保つことができるだろう。」


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**高坂昌信(玉山鉄二)**(信玄の側近):

「しかし、信長はまだ若く、何をしでかすか予測がつきません。諸侯との同盟を結びつつ、後に裏切ることも考えられます。」


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**信玄**(微笑んで):

「その通りだ。だが、我々も一枚上手を行くことを忘れてはならぬ。義元が討たれた今、武田家の勢いを保つためには、信長との協調が一つの道筋となる。だが、信頼を寄せすぎることなく、常に二手三手を先を読むべきだ。」


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### 今川との同盟維持


義元の死後、今川氏真が家督を継ぐも、武田と今川の同盟関係には緊張が走り始めていた。信玄はこれに対して慎重な姿勢を取り続け、今川との関係を保ちながらも、常に後ろ盾となる策を考え続けていた。


**信玄**(独り言):

「同盟は継続する。しかし、どんな時でも背後を見失ってはならぬ。今はまだ動かず、機が熟すのを待つのだ。」


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信玄は、今川との同盟を維持しつつも、信長との関係を慎重に進め、両勢力の間で勢力を均衡させるための道を探り続けた。この時期は、武田家にとって外部勢力との駆け引きが重要な時期であり、信玄の戦略がその後の甲斐国の運命を大きく左右することになる。


 永禄年間、戦国時代の名将武田信玄は、ただ戦の天才として名を馳せただけでなく、戦場における実務的な備えにも細心の注意を払っていた。彼の軍陣には、ただ強力な武将や兵士だけでなく、軍陣医団が常に同行していた。この事実は、後に「武田信玄陣立図」からも確認されている。


### 軍陣医団の配置


武田信玄の本陣は、戦の中心地であるがゆえに、戦闘の激しさが集中する場所でもあった。そのため、信玄は決して医療の必要性を軽視することなく、有事に備えて医師団を配備していた。彼の本陣の前には、御伽衆である小笠原慶庵と長坂釣閑斎とともに、薬師本道と外科の名医たちが常に控えていた。


**甫庵**(杉本哲太):

「信玄公のご配慮により、我ら医師団は常に備えておる。この戦場において、傷ついた者を見捨てることなく、命を救うために働くのが我らの使命だ。」


 閑斎(松平健):

「まさにその通りだ、甫庵殿。戦場では何が起こるか予測できぬ。迅速な治療こそが、武士たちの命をつなぎ、戦の勝利へと導く鍵となるであろう。」


 信玄は、甫庵たちのような医師を信頼しており、彼らに対して特に強い信念を持っていた。彼自身も何度か負傷を経験しており、医療の重要性を痛感していたからだ。信玄の治世下での戦は、単に兵の数や武器の質だけで決まるものではなく、負傷兵の回復力や、いかに早く戦場に復帰させるかも勝敗に大きく影響を与える要素だった。


### 戦場での医師団の活躍


**永禄7年(1564年)、川中島の戦いが近づく中、信玄は飛騨国侵入を計画していたが、上杉謙信とのにらみ合いが続く中で戦傷者が増え始めていた。** 軍勢の最前線からは次々と傷ついた兵士たちが運ばれてくる。戦場の混乱の中、軍陣医たちは迅速かつ的確に負傷者を診察し、治療にあたっていた。


**閑斎**(戦場で治療を施しながら):

「深手だが、まだ助かる。すぐに止血を。火薬傷は慎重に処理せねばならん。」


**甫庵**(指示を出しながら):

「この者は気道が塞がれている。直ちに喉を開け、呼吸を確保せよ。次、矢傷だ、矢を抜いた後に焼きごてを準備する。」


 医師団の統率の取れた動きにより、多くの兵士が命を取り留め、再び戦場へと戻ることができた。信玄の配慮による医療体制の整備が、結果的に軍全体の士気を高め、長期にわたる戦にも耐えうる強靭な軍隊を形成する一助となっていた。


### 信玄の本陣での戦略会議


 ある夜、信玄は本陣に甫庵と大輪を呼び寄せ、戦況と軍勢の健康状況について意見を聞いていた。


**信玄**(冷静に):

「医師団の働きはどうか?兵士たちはどれほどの負傷を負っている?」


**甫庵**:

「信玄公、ご心配には及びません。確かに戦の激しさは増しておりますが、我々医師団はしっかりと対応しております。重傷者も治療後、再び戦列に加わる者が多くおります。」


**信玄**(満足げに):

「よし、貴公らの働きは見事だ。この戦においても、お主たちの医療が軍の勝敗を左右することになる。引き続き、万全の備えを頼むぞ。」


信玄の戦略において、軍医の存在は単なる医療行為に留まらず、戦全体の運命を左右する重要な要素であった。戦場においても冷静さを失わず、万全の体制を維持し続けた信玄は、その知略と周到さで知られることとなった。


### 結び


武田信玄の軍陣における医療体制は、戦国時代の他の大名たちに比べて抜きんでたものであり、彼の軍勢の強さの一因であった。甫庵や大輪といった名医たちが、常に信玄の側にあって彼を支えたことが、彼の数々の勝利を支える重要な要素だったことは間違いない。

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