第22話 本願寺台頭

### 志乃の新たな挑戦


志乃(佐藤栞里)が本願寺での生活に順応していく中、彼女は顕如(竜星涼)との関係を深めるだけでなく、地域の人々とも積極的に交流を持ち始めた。彼女は本願寺の役割を理解し、信者たちの心に寄り添う姿勢を大切にしていた。志乃は、自らの立場を利用して、武田家との絆を強化し、地域の安定に貢献しようと考えていた。


### 三条殿の訪問


ある日、三条殿は志乃の元を訪れた。彼女は妹の新しい生活を見守り、励ますために時間を割いた。志乃は嬉しそうに「お姉様、私も少しずつですが、こちらの役に立てるようになってきました」と語る。三条殿はその言葉に微笑み、「あなたの成長は私にとっても誇りだ」と応じた。


### シーン 40: 地域の問題


しかし、平和な日々は長く続かなかった。近隣の豪族の間で小競り合いが発生し、志乃はその解決に向けて動き出すことを決意する。「私が本願寺の立場を活かして、武田家との仲介を試みます」と彼女は顕如に申し出た。顕如は志乃の意欲を称賛し、彼女に全幅の信頼を寄せた。


### 講和のための交渉


志乃は、武田家と敵対する豪族との講和に向けて、両者の意見を聞くための会合を開くことにした。彼女は自らの人脈を駆使し、武田家の代表としての立場を活かして、両者が歩み寄るための条件を模索した。志乃の誠実な姿勢が、周囲の人々を次第に引きつけていく。


### 和解の兆し


会合の場では、志乃が率先して両者の意見を調整する姿が印象的だった。彼女は「戦は皆の命を奪うだけです。私たちが手を取り合うことで、未来を築けるはずです」と力強く語り、参加者たちに平和の大切さを訴えた。徐々に、彼女の言葉が響き渡り、和解の兆しが見えてきた。


### 成果の実感


ついに、志乃の努力が実を結び、豪族同士の和解が成立する。志乃は、武田家と近隣の豪族が協力して新たな時代を築く第一歩を踏み出した。「これで武田家も、地域全体も安定するはず」と彼女は安堵の表情を浮かべる。三条殿は妹の活躍を誇りに思い、心から祝福した。


### 未来への希望


志乃は本願寺の役割を果たしつつ、武田家との絆を深めることで、新たな平和の象徴となった。彼女は、自らの選択が未来を形作ることを実感し、さらなる挑戦を続けることを決意する。三条殿もまた、志乃の成長を見守りながら、共に新しい時代を築いていくことを誓った。


### 結末への道筋


この物語は、三条殿と志乃の姉妹の絆、そして彼女たちの成長と決意を描きながら、戦乱の時代における平和の重要性を強調している。志乃の行動が地域の未来を切り開き、二人の女性がそれぞれの道を歩む姿は、新たな希望の象徴となった。彼女たちの旅はまだ続き、未来を見据えた挑戦が待ち受けているのだった。


 教光院如春尼(志乃)

 天文13年(1544年)、三条公頼の三女として生まれる。姉に細川晴元室、武田信玄室(三条の方)がいるが、姉二人とは20歳以上の年齢差があり、両者ともこの頃すでに嫁いでいた。誕生したその年に、長姉の夫である細川晴元の養女となり、本願寺第10世・証如の子・茶々丸(顕如)と婚約。


 弘治3年(1557年)4月17日、さらに六角義賢の猶子となって14歳で顕如と結婚、京から船に乗り石山本願寺に輿入れした。翌年に15歳で長男・教如を産む。元亀元年(1570年)から本願寺は織田信長と争い、一向一揆に支えられて10年におよぶ戦いとなった(石山戦争)。この間天正5年(1577年)に34歳で三男・准如を産む。


天正8年(1580年)3月、織田信長との間に和議が成立し、4月9日に顕如とともに石山本願寺を出て、紀伊鷺森御坊に住まった。その後、豊臣秀吉の政策により和泉貝塚・摂津大坂の天満本願寺を経て、天正19年(1591年)に京都の七条烏丸(今の西本願寺)へと移った。


天正20年(1592年)11月24日、顕如が死去。翌日11月25日に、光永寺明春を戒師として薙髪し、法名を如春、教光院と号する。本願寺宗主は、長男・教如が継承した。


しかし、如春尼らは顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴した。この訴えを受けた秀吉は、文禄2年(1593年)閏9月12日、教如を大坂に呼び、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲る旨の命を下した。この時、教如に示された十一か条の中にはかつて信長と顕如とが和議を結んだ際に不満を示し、和議に背いて石山本願寺に一時籠城した件などとともに、「当門主(教如)妻女ノ事」が挙げられており、如春尼と教如の側室・教寿院との確執を窺わせている。この命に対して、教如周辺の坊官たちが秀吉に異義を申し立てたため却って秀吉の怒りを買い、即時退隠せよとの命が下され、同年閏9月16日、准如が本願寺宗主を継承し、第12世となる事が決定した。教如は本願寺北東の一角に退隠させられた。


慶長3年(1598年)に死去した。享年55。



 顕如(けんにょ、正字体:顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主・真宗大谷派第11代門主。大坂本願寺住職。


 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、正字体:信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣・九条稙通の猶子。室は左大臣・三条公頼三女の如春尼。長男は真宗大谷派第12代門首の教如、次男は真宗興正派第17世門主の顕尊、三男は浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如。


 織田信長と敵対した後は全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけ信長包囲網の一角となって、10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。


来歴

誕生から継承

天文12年(1543年)1月6日[1]または1月7日、本願寺第10世・証如の長子として誕生。母は庭田重親の娘・顕能尼。


 天文15年(1546年)、顕如が4歳の時に比叡山延暦寺西塔から翌年正月に行われる礼拝講の執事役として顕如が任命されたが、証如は顕如はいまだ幼少であるとしてこれを断っている。また、翌年にも同じく顕如が礼拝講の執事役に任じられたが、再び断っている。


 天文23年(1554年)8月12日、父である証如が重体となり、急遽得度が行われることになった。顕如は父・証如が九条家の猶子となったことを先例として前関白・九条稙通の猶子となった[3]。そもそも、本願寺の次期法主となる嫡男は、代々天台宗の青蓮院で得度することになっていた。しかし、証如が重体のうえ、この時には青蓮院に門跡が欠けていたこともあって顕如は12歳で証如を師として本願寺で得度している。


 翌13日、証如の死により本願寺を継職し、祖母・鎮永尼の補佐を受けて教団を運営した。


教団の最盛期を築く

 弘治3年(1557年)4月17日、六角定頼の猶子(実父は三条公頼)の如春尼と結婚した。如春尼の実の姉は武田信玄の正室・三条夫人であり、信玄と顕如は義兄弟にあたる。


 政略結婚とはいえ、二人の夫婦仲は良く、結婚31年目の天正16年(1588年)の七夕には、


 いくとせもちぎりかわらぬ七夕の、けふまちへたるあふせなるらん  

 顕如

いくとせのかはらぬ物を七夕の、けふめづらしきあうせなるらん  如春尼

と歌を詠み合っている。


 永禄2年(1559年)、正親町天皇の綸旨により本願寺は門跡となる。本願寺は証如・顕如と2代にわたって摂関家である九条家の猶子となって門跡に相応しい格式を得たとして門跡への昇格を求めていた。折しも青蓮院門跡である尊朝法親王が幼少で門跡の職務を行い得なかったため、青蓮院の異論が出されないまま本願寺の要求が認められたと考えられている。


永禄3年(1560年)冬には院家として三河国本宗寺、伊勢国願証寺、河内国顕証寺が勅許され、続いて摂津国教行寺、山城国順興寺、近江国慈敬寺、越中国勝興寺、大和国常楽寺が許されている。また、坊官には下間氏を任命した。


永禄4年(1561年)には僧正に任じられている。


顕如の時代、本願寺教団は、証如の時代以来進めてきた門徒による一向一揆の掌握に務める一方、管領家であった細川京兆家や京の公家との縁戚関係を深めており、経済的・軍事的な要衝である大坂本願寺(石山本願寺)を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有するようになり、教団は最盛期を迎えていた。

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