「ねえ、これ見て。ヤバくない?」


 ふと思った。



「見た見た! マジヤバい!」


 友達たちのそんな会話を、中庭の芝生の上に座って聞きながら。



「何がヤバいの? わたしも見せて」


 普段当たり前に使ってる「ヤバい」って言葉は、たった一言なのに、持つ意味が多すぎるんじゃないかって。



 何を指すか、どういう時か。環境や状況によって変わってくる「ヤバい」って言葉は、色んな意味を持ってる。



 格好いい、危ない、素晴らしい、イカレてる、凄い、おかしい、可愛い、恐ろしい、賢い、まずい、怖い......etc。



 相反する事柄までもを、同じ言葉で表す事が出来る「ヤバい」って、かなりヤバい言葉だと思う。



 この言葉を最初に考えた奴って、マジヤバい。



 一体何をしててこの言葉を考え付いたんだろうとすら思う。



 なんて、愚にも付かない考えは。



「ねえ、シズネも見てみなって! これヤバいから!」


 そう言った友達に、開いた雑誌を目の前に差し出された事によって、頭の中から消えてなくなった。



「あたしはいい。そのグループ興味ないし」


 雑誌の中の、最近人気急上昇中のアイドルグループの特集写真を一瞥いちべつして、ポケットにある煙草を取り出した。



 そんなあたしに友達は、「あんた、男の趣味悪いからね」って、本心からなのか嫌みからなのか分からない事を言いながら笑った。



 うっせえよ――って笑い返して火を点けた煙草の紫煙が、まるで龍が滝を登ってるみたいに、空に揺々ゆらゆらと上がっていく。



 その紫煙の行く先を追いかけるように空を見上げ、肺に吸い込んでた煙草の煙を吐き出した時、この学校じゃ全く意味のない、予鈴だか本鈴だかのチャイムの音が聞こえた。



 この高校がヤバいってのは、入学するずっとずっと前から知ってた。



 いつ知ったのか忘れるくらいかなり昔から。



 ここらに住んでる奴らなら誰でも知ってるし、この高校にしか通えないような奴らなら当たり前に知ってる。



 だから、入学してから驚く事なんて何ひとつなかった。



 授業が全然ない事も。



 ゆえに、チャイムの音が意味を成さないって事も。



 制服があるくせに、服装自由である事も。



 一ヵ月に一回は校舎のどっかでボヤが起きる事も。



 この学校に知り合いがいるってだけの部外者が、当たり前に校内に出入りしてる事も。



 廊下に、クスリやって倒れてんのか、ただ寝てるだけなのか、それとも死んでんのか分からない奴が転がってる事も。



 校内の至る場所に灰皿が設置してある事も。



 生徒の大半が職員室の場所を知らない事も。



 出席日数が足りてて、三年生の時に実施される研修旅行にさえ行けば、あとは何してても卒業出来るって事も。



 もっともっといっぱいある、上げればキリがないほど、一般的な高校とは違うこの学校。



 こんな高校が存在してるって事自体がヤバいって感じだし、こんな学校に通ってる生徒もヤバいって感じ。



 あたしはそんな、クズだかクソばかりが集まる、掃き溜めみたいなこの学校が好きだ。



 性に合ってんだと思う。



 まあ間違いなく、この高校に通ってる奴らと同じくらいのクズだかクソではあるし。



「トイレ行ってくる」


 友達に一応告げてから、咥え煙草で立ち上がり、煙をひと吸いして、煙草を足許に落とした。



「そこに灰皿あんだから、そっちに捨てろっての」


 笑ってそう言った友達に、煙を吐き出しながら「面倒臭い」とだけ言って、昇降口に向かって歩き始めた。



 今日はバカみたいに天気がいい。



 その所為で、外に出てきてる生徒も多い。



 視界の端に何かが動いてるのが入って、何気に目を向けると、北校舎の外階段にセックスしてる奴らがいた。



 アオカンかよって思っただけで、驚きはしなかった。



 この学校じゃ特に珍しい光景ものでもない。



 ただ、他人のセックスになんて何の興味もないから、すぐに視線を正面に戻した。



 その動作のついでに掻き上げた髪が、ちょうど吹いてきた緩い風に靡いた。



 結構伸びたから、そろそろ髪を切ろうかなんて、ふと思った。



 黒髪も飽きたから金髪あたりに染めるのもいいかなんて、思ったりもした。



 次の週末にでも――。



「うああああああああ」



 突然、悲鳴なのか叫び声なのか分からない大きな声が聞こえて、驚きから強制的に足を止めさせられた。



 近くから聞こえてきたその声が、どこからのものか探そうとした、次の瞬間。



――目の前に、人が落ちてきた。



 余りにもびっくりして。



 しっかり「落ちてきた」のをこの目で見たのに。



 有り得ない事すぎて。



 意味が分からなくて。



 何が起きたのか理解出来なくて。



 数秒、固まってしまった。



「……な、に」


 止まったかのように思えた時間は、自分が発したその一言で再び動きだした。



 あたしが歩いてたところから数メートルほどの距離を取った、斜め前方に落ちてきたのは、私服の男子生徒だった。



 ちょうど低木の植え込みの上に落ちてきたそいつは、低木の枝をバキバキと折りながら少し葉の中に沈み、勢いよく横に回転するようにして地面に落ちた。



 うつ伏せで地面に倒れたそいつの、顔面側がどうなってるのかは分からない。



 頭から落ちてきた訳じゃないから頭蓋骨が割れたって事はないだろうけど、今まで聞いた事のない変な音がしたのは確か。



 左足が曲がっちゃいけない箇所で、曲がっちゃいけない方向に曲がってる。



 でもそれだけじゃない。



 何かがおかしい。



 どこかがおかしい。



 人間として何かが――。



 うつ伏せの体全体が歪んでるように見える。



 人間の骨格としての形が微妙にいびつになってるような気がする。



 気の所為かもしれないけど、そんな風に感じてしまって、思わず生唾を飲み込んだ。



 死んでるんじゃないかと思ったそいつが生きてるって辛うじて分かったのは、右手の指が地面を掻くように少しだけ動いたから。



 それを見ていたあたしの頭上から、騒がしい声が聞こえてくる。



 その騒がしさに引っ張られるように、スゥ――と校舎を見上げた、先。



 落ちた生徒の様子を見ようと、口々に何か言いながら何人かの生徒が群がってる、階上のいくつかの窓のひとつ。



 唯一群がる生徒がいない、落ちてきた男子生徒の直線上にある、開いた窓の真ん前に「あいつ」がいる。



 落ちた生徒を冷めた目で見下ろして、口許に薄っすらと、不気味としか言えない笑みを浮かべる、制服姿の男。



 暴走族「野獣」八代目総長――ソウリュウ。



 あいつは――ヤバい。



 この辺りで一番デカい、いくつもの暴走族が属してる「狂喜連合」。



 その「狂喜連合」を仕切ってる、「野獣」って暴走族の頂点にいる男。



 千五百人以上の人間を従える――。



 ゾッとした。



 人が落ちてきた事よりも、地面に転がってる瀕死の人間を見下ろす、あいつの表情に。



 あいつは――ヤバい。



 何もかも規格外だ。



 背の高さも。顔の端正さも。常識の無さも。その――非道さも。



 この高校に入学して驚く事が何ひとつなかったっていうのは嘘だ。



 あいつに関しては。あいつが関わる全ての物事に関してだけは、驚く事ばかりだ。



 あいつは――。



 騒々しく、こっちに向かって走ってくる、いくつもの足音が聞こえた。



 気の所為か、遠くで鳴る救急車のサイレンの音も聞こえてきた。



 あたしは、未だ薄ら笑いを浮かべて、地面に転がってる瀕死の人間を見下ろしてるあいつから、視線を逸らしてその場を離れた。

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