ワタリと僕
ぼうし
細長い月の夜に 第1話
カーテンを閉めようとするとふと夜の景色が視界に入った。
人々の生活の証である
僕は街を眺め、そして夜空を眺める。人々の営みと空に浮かぶ幻想的な景色、その対比の美しさに心を奪われた僕がいた_
「月見で一杯は花札の役だっけ」
僕はそんなことを思いながら、冷蔵庫から炭酸水を取り出した。そして、窓の側にあるくたびれた椅子に腰を下ろし、炭酸水をグラスへそそぐ。思えば、この椅子とも長い付き合いになる。10年来だろうか。僕は今夜みたいに興が乗った夜に、しばしば外の景色を眺めることがある。そのときは決まって窓の側にあるこの椅子に座る。いわば、この椅子は僕の相棒と言っていいだろう。しかし、この椅子との思い出は「2480円」と「頑丈」という二つの言葉しかない。椅子に恋をする人はあまりいない。そういうことだ。
僕は外の空気を吸いたくなり窓を開けると_
涼しい夜風が僕の肌を通り抜け、部屋に秋の気配を運んだ。同時に鈴虫の透き通った声_まるで鈴の音のような心地よい響きが部屋まで届き、秋の始まりを告げる。
季節の変わり目を実感できる、実にいい夜だった。
明日は休みだし、今夜は夜更かしでもしようか。
すっかりそんな気になっていた。
どれくらい月を眺めていただろうか。
僕はあれからずっと月を眺め、物思いにふけっていた。どれくらいの時間が経ったのか、それすらもわからない。
ふと気がつくと_僕の意識は身体から離れ、夜空と一体になるような感覚に包まれている。僕と夜空の境界線がぼやけ、どこまでが自分の身体で、どこからがそれ以外であるか、それがあいまいになっている感覚_
僕はいつの間にか、生と死の狭間みたいな世界に来てしまったのだろうか。
あるいは夢と現実の狭間、それとも無我の境地だろうか。そのいずれか、あるいはそれ以外なのかはわからないが、僕が現実と非現実の境界線みたいな場所にいることは確かだろう。
僕は自然に身を任せ、この世界の境界線をさまよい続けることにした。
「いい夜じゃな」
どこからか声がした。僕の意識は現実に戻される。
「本当にいい夜だね。こんな夜はめったにない」
僕は返事をする。そうすることが当たり前_といったように
「確かにな。君は風情がわかる御仁じゃな。
現代人は季節もへったくれもないものじゃと思っていたが、君みたいな御仁もおるんじゃな」
「僕は変わり者だからね」
僕はそう言ってシニカルに笑う
「ところでさ、君は誰だい?」
「これは失礼、あまりにもいい夜でつい話しかけてしまった」
なにものかはそう話すと闇の中からゆっくりと姿を現した。
そこには一羽のカラスがいた_
人の言葉を話すカラス、物の怪の類だろうか。しかし、不思議と嫌な感じはしない。そんなことを考えながら言葉を紡ぐ。
「初めましてカラスくん、僕は彰、よろしく」
「わしはカラス、名前はない。だけど、ただのカラスではないぞ、御覧の通り頭がいい」
カラスはそういうと片羽を広げ、おどけて見せた。
「そりゃ君は頭がいい、なんといっても人と話せる」
僕も負けじと肩をすくめる。
「本当におぬしは変わっておるな。わしをまるで友人かのように扱う。普通は怖がるものなんだが」
カラスはそういいながら嬉しそうに笑った。
「ねぇ、君に名前はないの?」
僕はふと疑問に思ったことを口にする。
もっと疑問に思わなければならないことがあることは明白だが
僕はすでにこのカラスの存在を当たり前のように受け入れていた。
こんな夜であるならば、どんなことが起こっても不思議ではない。
ならば、無用な詮索は野暮というもの_
「わしに名はない。昔、クロと呼ばれたこともあったが気に入らなかったから無視してやった。わしはただのカラスじゃよ」
「そっか、なら僕が考えてもいいかい?」
「ん?いいぞ。ただし、わしが気に入る名でなければ無視するからな」
「わかったよ。君が気に入る名前だね。君は普通のカラスよりも少し大きいみたいだけど、日本のカラスじゃないのかい?」
「わしが普通のカラスのはずがあるまい。といっても昔は普通のカラスじゃったがな。おぬしらのいうところのワタリガラスという種じゃな」
「ワタリガラスか」
全長60cm
ユーラシア大陸や北米などに生息する。
冬は越冬のため大陸から海を渡り北海道まで来ることもあるだっけ。
「じゃ、安易だけどワタリなんてどう?」
「ワタリか、可もなく不可もなくじゃな。ま、いいじゃろ」
そういうことになった。
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