第81話 ホロドモール
1935年(昭和10年)1月を迎えた。
最近、アメリカからの嫌がらせとも言えるような挑発行為が目立つようになってきた。
一例を挙げると、我が国の保有する「伊勢」型空母の基準排水量が、東京海軍軍縮条約に違反する大きさなのでは無いか?というような瑣末な話から、少数ながらハワイや北米大陸、特に西海岸に居住する日系移民に対する差別対応といった由々しき問題まで、幅広い分野で日本に対して嫌がらせを仕掛けてきつつある状況だ。
中でも経済分野に対する締め付けが厳しくなって来ており、日本が得意とする繊維関連製品に対しては特に露骨な高関税を掛けてきた。
これは高橋蔵相が故意に放置している円安誘導に対する報復措置であり、日本潰しと言えるだろう。
これに対しては更なる円安誘導で関税を帳消しにすることも可能だろうが、そうすれば今度は日本製繊維製品に対して200%、400%と関税を上げてきてイタチごっこになるだろうから、取りあえずは見守るしかないが、日本国民と政府の反応は当然ながら厳しいものになったし、対米感情の悪化に繋がっている。
俺としてはルーズベルトが日本に対してファイティングポーズを取ることは予想の範囲内というより、織り込み済みだったから何の驚きもないが、普通の感覚の人なら、先代のフーヴァー政権とのあまりの対応の違いに驚くだろう。
これから益々、焦ったスターリンがコミンテルンをけし掛けることによって、史実以上に挑発行為を繰り返すことになるだろうから、ルーズベルトの再選を許しては絶対にダメなのは散々述べてきたとおりだ。
そこでアメリカを動揺させてルーズベルト再選を阻止するため仕込んでいる八つの工作作戦だが、順調にその準備が進行している。
特に南部諸州においては指導者と「影の政府」ともいうべき組織作りが秘かに進行中で、決して日本の工作とは気取られないように注意しつつ人材集めの最中だ。
それなりに資金はかかるものの、この方面は最初に暴れてもらう予定の地域だから手は抜けない。
それからテキサス州も同様に独立派の指導者となり得る人物の育成と組織化が進行中で、来年の大統領選には何とか間に合うだろう。
ハワイは言わずもがなだが、こちらはハワイ王国を復活させる運動を起こすだけだから比較的楽だ。
元国王の血筋を中心に一致団結して声を上げるよう組織化を行っている最中で、国家としての安全保障と経済面における自立が何よりも大切だから、日本が直接かかわる事が最も多くなる場所だろうし、その裏付けが有れば彼らも安心してデモ行進ができるだろう。
その他の工作も秘密裏に、静かに、しかし確実に進行中だ。
どんな結果になるかはわからないが、アメリカ合衆国に対する恨みは俺の予想を超えて深刻なものだから、成功の確率は結構高いのではないかと予想する。
これで現職大統領のルーズベルトを追い込めれば良いのだが。
昨年初めから行われたユダヤ人の大量移住計画は初動から終了まで2往復、半年を要したが無事終了した。
その後は各地に残ったユダヤ人の散発的な脱出と移住は継続しているものの、日本政府が大々的に協力する作戦では無くなっていたが、まだ300万人近い人々はヨーロッパに居住したままだ。
そんな状況の中、昨年秋から始まった「ホロドモール」がいよいよ本格化してきたとの報告が内閣北方協会(NHK)よりもたらされた。
史実より3年遅い。
ホロドモールという言葉はウクライナ語で飢饉を意味する「ホロド」と、疫病や苦死を表す「モール」を合わせて名付けられている。
オスマン帝国のアルメニア人虐殺や、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人に対するホロコースト(ギリシャ語で「全てを焼きつくす」という意味)、中華の文化大革命などと並んで、20世紀最大の人道に対する犯罪のひとつとされていて、犠牲者は最低400万人から最大1500万人、確定的には1000万人という最悪の人数とされている。
また、スターリンがヒトラーをも上回る人類史上ワースト二位の悪名を付けられている要因でもある。
この史実にもあった惨禍が遅くなった理由はスターリンの体制固めが遅れたからだろうと推測しているが、内容そのものは史実に沿っていると考えていいだろう。
そこで昨年11月から国連を通じて対策を講じてきたが、ヨーロッパ各国は証拠がないので動けないとのスタンスだったので、NHKを通じてウクライナ国内での証拠集めを行った。
史実において多くの犠牲者を生んだホロドモールは、ソ連が1929年から行なった農業集団化(コルホーズ)のシステムが原因とされている。
以前にも触れたように世界有数の大穀倉地帯であるウクライナにおいて、富農が所有していた土地は没収され、農民は集団農場と国営農場に組織されていった。
そして収穫した穀物は政府に徴収され、外貨獲得の貴重な手段として国外に輸出された。
しかし、その輸出量はウクライナ国内での消費分が不足するほど過剰で、恵まれた土壌を持つウクライナでも、課せられた収穫高の達成は困難であった。
それによって翌年の作付けの為の種子まで徴収されてしまい、当然の結果として穀物の生産量は激減。
食料が底を付き、多くの農民が餓死する事態へとつながったが、スターリンは外貨獲得のために飢餓輸出を行い続けたのだ。
一般に「飢餓輸出」と表現される事が多く、ここでもそう書いているが正確には「(過剰な)輸出による飢餓」が正解で、スターリンは故意にこれを行った。
その理由はウクライナ人が自分たちのアイデンティティーを守り、皆で一つにまとまり、独立を守る強い意思を持っていたからに他ならず、こういった意思を持つ人々がいる限り、ウクライナはソ連にとって深刻な脅威だったのだ。
よって、ソ連共産党の執行部、特にスターリンがこの独立精神の強い「共和国」のロシア化を最も重要視し、ウクライナ人をロシア人にしようと画策していたということは自然な事だろう。
しかし、歴史上ウクライナ人がロシア人であったことなど一度も無いのだ。
文化・性格・言語・宗教などは全部ロシアと異なる。
ウクライナ人はソ連による集団農業に反対し、共産党の言いなりになるよりは、と流刑や死を選ぶことさえあった。
だからこそ、スターリンやソ連政府はウクライナ人を「模範的な」ソビエト市民へと力づくで変えようとした。
これこそがホロドモールの真の要因だ。
その為に国内パスポート制を導入し、ウクライナと他の共和国との国境は封鎖され、農民は自由な出入りは許されず、村や集団農場に縛り付けられた。
21世紀において一部、いや日本においてはまだ多数派を占めていた共産党支持派の御用学者・ジャーナリストによれば「結果的に餓死者は出たかも知れないが、それは少数だし、スターリンに悪意は無く、天候不順が原因だ」などと主張する向きもあったみたいだが、断言しよう。
悪意以外の何者でもなく、100%の悪意そのものであった。と
このような状況下においてNHKの調査の結果、数多くの虐待の事実が判明し、既にウクライナにおいては食料がほとんど無い事が証明できたので、ソ連に対して国際連盟の名のもとに改善要求を行ったが返答が得られなかった。
このまま座して待てば多数の餓死者を出してしまうのは明らかであり、より強い警告をソ連に通告したが相変わらず無視された。
そこで最終手段として武力行使を辞さないとの最終通告を行い、臨時の緊急国連総会を招集して善後策を協議した。
世界各国の総意としては、ウクライナの民衆に対しては何とか手助けをしたい気持ちはあるが、世界恐慌の痛手から立ち直っておらず、多くの国が制裁や武力行使には及び腰だった。
他人のためにカネは出せないという事ではあるが、救出に賛成だけはするという意見が多く、多数決によって救出の方針は決定された為に、更に常任理事会で協議した結果、黒海を通じた脱出作戦を敢行する事に決定した。
ソ連としては当然だが「内政干渉をするな」との姿勢だが、そんな戯言に構っていられないし、そもそも国家として承認していないのだから、現状はマフィアが支配しているに等しいとの認識だ。
また、今ならソ連軍は機械化の程度も低いからそれ程怖くない。
それから、アメリカがやっぱり難癖をつけてきた。
ソ連同様に「内政干渉にあたる行為はいかなる場合でも許されない」と、21世紀のアメリカ大統領に聞かせてやりたいセリフを斎藤博 駐米日本大使に投げつけてきたみたいだが、「人命は地球よりも重いのです」などと適当に返したみたいだ。
よくやった。マトモに取り合うからこじれるのだ。
作戦主力は日露軍であり、英仏両国はソ連との戦争になりかねないとの理由で、出兵には及び腰だった。
これは仕方ないかも知れない。
史実でも英仏両国の国民は最後までドイツとの戦争には反対で、和平への道を探っていたのだから。
何といっても第一次世界大戦での死者が多すぎて、戦争なんてもう真っ平ごめんだという空気が根強いから、無理に出兵をお願いできない。
それでもルーマニア国内に陸軍兵力を進駐してもらって、ソ連軍が攻めてこないよう警戒態勢を取ってもらうことまでは出来た。
もっとも、兵力を出さないのであればその替わりにと、ヨーロッパ諸国に対しては船舶だけは大量に出してもらった。というより出させた。
日露軍は、はるばるアジアから黒海まで遠征したうえで、封鎖された国境を力づくでこじ開けてウクライナ国民を陸路でルーマニアまで一旦避難させ、安全を確保したうえで順次船舶にてロシアまで送る計画を立てた。
この作戦についてはルーマニア側の反応は極めて好意的だったと言えるだろう。
理由としては第一次世界大戦における日本の遣欧陸軍の活躍のお陰で、戦勝国になれた事が挙げられるだろう。
恩は売っておくべきだな。
更にソ連軍をけん制する為に日露両軍がエニセイ川の露ソ国境を越え、西進する構えを見せる事にした。
動員される兵力は黒海方面へ日露両軍合わせて10万人、シベリア方面で5万人というささやかなものだ。
また陸上兵力を支援し、ソ連の黒海艦隊を牽制する為に日本海軍は「金剛」型戦艦8隻、「伊勢」型空母4隻、「宗谷」型護衛空母50隻、巡洋艦30隻、駆逐艦60隻という過剰なまでの大兵力を派遣した。
ソ連の黒海艦隊には大した戦力は配備されていないから、威圧するには十分な兵力だ。
また民衆の移動用として日露両国から700隻の船舶をかき集め、ヨーロッパ各国からも1300隻あまりを動員し、合計2000隻以上の船舶を使用した史上最大の民族大移動だ。
黒海沿岸に集まったウクライナの民衆は直接日本が救出してロシアへ送り届け、陸路でルーマニアに集まった民衆については順次ロシアへ向けて移動する計画だ。
3月末。
日露陸軍は黒海沿岸から上陸を開始し、ソ連の妨害を排除しながら首都キーウ、東部ドネツクまで進軍してソ連を牽制し、特に西部リヴィウまで進軍した部隊は、国境を封鎖していたルーマニア国境方面のソ連軍も蹴散らしつつ北上した。
同時に日本海軍は黒海に展開を終了し、空母艦載機は航続距離の許す限りの範囲で制空権を確保して対応しているが、半径500kmが限界で、ウクライナ全土をカバーするには至っていない。
5月末
ウクライナ国内に即席の飛行場と補給施設を整えたうえで、空母艦載機は更に奥地まで制空権を確保できたために避難誘導をスムーズに実行可能となった。
ソ連空軍は散発的に襲撃に来たが、九三式艦上戦闘機に太刀打ちできずに絶好のカモとなった。
この間にルーマニア国境を超えて退避を完了したウクライナ国民は800万人、直接日本海軍が黒海沿岸で救出した人数は200万人に及ぶが、これでも全国民の救出は出来ていない。
しかしソ連軍が体勢を整えて進軍して来た為に、これ以上の作戦行動は不可能と判断して撤退する。
大量の船舶は用意できたが、それでも1000万人の人間を一度にロシアに送り届けるのは不可能であり、ルーマニアからはソコトラ島まで運んでもらい、ソコトラ島を安全な2次中継点としたうえでロシアまで送り届けた。
この際に長距離爆撃機も使用したのだが、やはり船舶に勝る大量移動手段は無いのであって、航空機による移送数は全体の1割にも満たなかった。
また、この機会にトルコ共和国との関係改善にも注力した。
この国とはオスマン・トルコ時代の第一次世界大戦で敵対して以降、関係改善がなされていなかったが、この機会を利用して双方の外交関係を再開する事になった。
この時のトルコ共和国側の最高責任者は初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクで、老獪な政治家だ。
また、独裁傾向の強い人物ではあるが意外に開明的であり、女性の権利などにも配慮しているから人道問題に対しての理解も得られやすいと見込んでいたが、その通りみたいだ。
将来的にはイギリスとの関係性が微妙だが、こちら側に付いてくれる可能性はあるし、トルコ自体が戦略上の要衝と言って良い地理的位置に存在しているから重要な国だ。
このように順次ロシアまで移送させたがソコトラ島からの全員の移動完了までに2年を要し、日露陸軍はルーマニア内に展開していた英仏軍と交代してソ連からの侵攻に備えた。
また輸送船を護衛する海軍は交代しつつもこれら船舶の護衛任務を継続した。
とにかくホロドモールは回避できたと言える成果だろうし、陸軍兵力の不足と就業労働者の確保に常に悩んでいたロシアにとって1000万人という国民の受け入れは問題解決に繋がる特効薬であり、国力を一気に増大させる事が出来るだろう。
ただし、スターリンは今頃発狂寸前まで激怒しているだろう事は疑いない。
これでソ連との全面衝突は避けられない事態になったし、日本に復讐するための軍備の増強はもちろん、ナチスドイツとの連携が更に進んでいくことだろう。
よって独ソが敵になるのはもはや確定事項だ。
今更だが。
日本国内向けのプロパガンダも忘れてはいけない。
せっかく相手がエラーをしてくれたのだから、これを得点に結びつけなくてはならないわけだ。
共産主義の実態を広く宣伝して、赤く染まりかけた人達、特に学者やら教授といった社会経験が薄く、視野が狭い上に免疫の低いインテリと、文系の研究者に文筆・小説家、メディアの蒙を啓かせよう。
それとリヒャルト・ゾルゲはやっぱり日本に潜伏しているとの事なので、NHKとNTTが張り付いて監視中だが、予想通り尾崎秀美と頻繁に接触しているらしく、当面は泳がせつつ証拠を固めて逮捕だな。
それにしても2年連続で大量の人員をヨーロッパから極東へ移住させる大計画は何とか発動できた。
作戦が終了するのは来年以降となるだろうが、日本側の兵站・輸送面での経験値としては十分なものを得られるだろうから、将来的に独ソ戦が始まっても大兵力をヨーロッパに派遣することは可能だろう。
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