第53話 東部戦線異状あり

1916年(大正5年)8月


今後の世界史に刻まれるであろうユトランド沖海戦は終了した。

この海戦における勝利は連合国にとっては、とてつもなく大きいものとなった。

結局、イギリス艦隊もビーティ中将をはじめとして多大な人的犠牲を払い、艦艇も20隻近く失ったが制海権は完全に奪う事に成功したからだ。

スカパ・フロー軍港で応急修理を終えた俺たち遣欧艦隊は、イギリス艦隊と共同で北海周辺のUボート狩りと、そもそものUボートの根拠地である北海に面したヴィルヘルムスハーフェン港への夜間砲撃作戦を行った。


既に船団護衛戦術と日英の対潜戦によって、大きくその威力を落としていたドイツUボート群は、根拠地を叩かれて完全に作戦能力を消失しつつある状況だ。

更にイギリス海軍はバルト海への入口のデンマーク・スウェーデン間に位置する、エーレ海峡と大ベルト海峡を封鎖し、ドイツ海軍最大の根拠地であるキール軍港から北海への出入りを不可能にした。

そう言えば俺は子供の頃にドイツ皇帝(だったか?)からの特命を受けて、連合軍側に対する通商破壊作戦に従事した偽装帆船の物語を夢中になって読んでいた事があった。

大西洋を中心に暴れまわり、海の悪魔と恐れられたけれども、太平洋に出てからは日本海軍に発見されないようにする為に苦労したみたいで、最後は津波に船体をやられて行動不能になった。

ルックナー伯爵とゼーアドラー号の物語だったが、この状況ではとても出港は無理だろうし、例え奇跡的に出航しても単独航行している連合軍側商船はほとんど居ないから効果も少ないだろう。


それとより重要な事としては、ドイツは無差別潜水艦戦を仕掛ける余裕が無くなったから、アメリカの商船や人員に被害は発生しないだろうという事実だ。

従ってアメリカの参戦は行われないだろうという点と、もっと言えばイギリスはアメリカの参戦に対して否定的だから、アメリカ参戦の決定的なきっかけとなった「ツィンメルマン電報事件」は発生しないだろうという点も見逃せない。

この電報事件は、アメリカが連合国側で参戦する事を阻止する為に、メキシコを扇動してアメリカに対峙させようとしたドイツからの電報がイギリスに傍受されてしまい、イギリスは内容を解読したうえでアメリカ側へ暴露したために、激怒したアメリカがドイツへ宣戦布告するに至るという、何ともコントのようなお粗末な事件だったが、現在アメリカ国内に参戦の機運は全くないという。


"イギリスなんか助けてやるもんか”といった感じかな?


それに、もしドイツがメキシコへ電報を送った場合でも、アメリカに対する不信感に満ちているイギリスは、仮に解読したとしてもアメリカに通報はしないだろう。


しかし、世界の通信網を抑えて暗号解読まで出来るというのは本当にアドバンテージがある。

情報操作など思うままじゃないかな?

その割にこの時代におけるイギリスの外交政策はハチャメチャだが・・・

時期的にはアラブとロシア・フランス双方に対する二枚舌外交を実行済みだろう。

オスマン帝国の支配下にあったアラブの独立を認めた「フセイン=マクマホン協定」とオスマン帝国をイギリス、フランス、ロシアの三国で分割しようとした「サイクス=ピコ協定」だ。

これ、相当に矛盾した内容だし、嘘がバレると大変な事になるのだが。

アラビアのロレンスよ…

令和の頃はなんでこんなバカな事をしたのか不思議だったが、今なら何となく理解できてしまう。

要するにイギリスは追い込まれているのだ。大英帝国の栄光は過去のものになりつつある事を実感する。


極め付きに来年11月には、ユダヤ人によるパレスチナにおける建国を認めるという内容の「バルフォア宣言」が出されて三枚舌外交が完成されてしまう。

それではユダヤ人の目がパレスチナに向いてしまって大変よろしくない。

俺がシフやロスチャイルドに提示できるユダヤ人安住の地は、もう少しで手に入る可能性が有るので、何とかそれまでに終戦への道筋を見出したいし、無理なら外交ルートを通じて「バルフォア宣言」を阻止させたい。


後は陸上の戦いだが、西部戦線においてイギリス軍は膠着した塹壕の戦線に突破口を開けるため、史上初となる戦車を投入した。

機関銃や迫撃砲まで持ち込まれた戦場においては、兵士の突撃など死傷者を増やすだけの自殺行為だったから戦車に対しての期待は大きく、両軍に与えたインパクトは相当なものであったが、投入された数が少なかったし、故障も多かった為に戦況を変えるには至らなかった。

後日フランスもこれに倣って自国開発の戦車を投入した。

また航空機や飛行船といった空を利用した兵器も本格的に戦争に利用され始めている。


このような西部戦線に対して、東部戦線においてはロシアの状況が悪い。

大戦初期にドイツ領内に大規模攻勢をかけたものの、タンネンベルクの戦いにおいて大敗した話は以前触れたが、ロシア軍はこの戦いで死傷者7万8000人、捕虜9万2000人の損害を出していた。

タンネンベルクの戦いは500年以上前にも発生していたが、この時ドイツ?は敗れており、先祖の汚名を返上した格好になった。

続いて発生したワルシャワ北方の第一次マズーリ湖の戦いにおいてもロシア軍は死傷者10万人、捕虜3万人の損害を受けて東プロイセン方面から駆逐された。

翌1915年になると第二次マズーリ湖の戦いにおいて更に死傷者4万人以上、捕虜9万人の損害を出して、ドイツ領内から完全に追い出される格好となり、戦争開始前の位置にまで押し戻された。


これらの失敗を教訓として戦力の再構築をすすめ、東部戦線に到着した日本軍と共同で1916年9月に後年「ブルシーロフ攻勢」と呼ばれる事になる作戦を発動した。

南方を任せた日本軍とは別に北方から再度ドイツへ攻め込んだのだが、結局この攻勢は更に多くの死傷者を積み上げる結果となってしまい、ロシア革命を早める事につながるのだが。


一方で遣欧日本陸軍はシベリア鉄道沿いのモスクワ近郊に続々と集結し、ロシア皇帝ニコライ2世が直々に出迎えて大規模な歓迎式典を行った。

日露戦争で苦しめられ、強敵と認識した相手が今回は力強い味方となってくれるのだから喜んで当然といったところか。

先発した10万の兵力に加えて後続の部隊が徐々に合流し、態勢を整えた後に1916年10月初頭から40万人という、同盟側に比べたら相当にささやかな兵力で、ワルシャワ南方よりハンガリーを経由してオーストリアに進撃した。

文麿は秋山総司令官の幕僚として同行していたが、俺は出発前から文麿に言い含めていた事があった。

それはもちろんロシア革命についてだ。

タイミング的にもそろそろ発生しそうだし、ヨーロッパの奥深くまで進軍してから後方のロシアで革命が起きれば最悪の場合、退路を断たれて孤立してしまう恐れがある。

そこで文麿は秋山総司令官に対し、注意を喚起し続ける事を忘れなかった。

秋山総司令官もロシア国内の状況には憂慮していた事もあって、文麿の進言を受けいれて情報収集に力を入れながら、可能な限り短期間でオーストリア=ハンガリー帝国を降す計画を立てた。


秋山好古という人は日露戦争時に騎兵部隊を率いてロシアのコサック兵とガチで戦った、沙河(さか)会戦大勝利の立役者でもあるから、元々の考え方が機動力・スピード重視だ。

そこで秋山大将は騎兵に代わる機動力の切り札として、ヨーロッパの戦場に新開発の「五式突撃車」と命名された戦車と、「五式飛行機」と命名された航空機を持ち込み、一気に勝負を決めにかかった。

帰国後に戦車の現物を見せてもらったが、21世紀の戦車を映像で見た事のある俺が見ると、やはりちょっとショボイと感じるような代物だった。

4人乗りの不恰好なブルドーザーみたいな鉄の箱に機関銃を3丁積んだだけとでも表現したらいいのか。

それでも敵から見たら恐ろしい新兵器であるのは変わりないだろうが。


また秋山総司令官は、文麿たち参謀からの適切な意見具申と状況判断により、オーストリア軍の戦意と士気の低さを感じており、積極果敢な進軍を命じた。


今回は戦車も飛行機もそれほど十分な数を用意できず、またイギリス同様に故障も多く発生して稼働率は上がらなかったが、対するオーストリア=ハンガリー軍は日本軍が戦場に現れて以降は一方的な逃げ腰となっていた事もあって、十分な戦果を挙げることが出来た。

オーストリア=ハンガリー帝国への進攻開始から20日でハンガリーの首都ブダペストを防衛していたオーストリア軍を降し、ハンガリーを平定すると、更に20日後にはオーストリアの首都ウィーンに迫った。

これに対して日本軍と直接対峙したオーストリア軍将兵の士気は更に落ち、投降兵・脱走兵が続出して軍は崩壊寸前となっていった。


ハンガリーの東側に位置しているルーマニアはこの機を逃さず、同盟軍側に対して宣戦を布告し、ルーマニア南部からブルガリアへ襲い掛かった。

日本から見たら火事場泥棒的に領土を拡大しているようにしか見えなかったが。

同時にイタリアとギリシャがドイツとオーストリアに対して史実よりも遅く宣戦布告をして、オーストリア国境からウィーンを伺う勢いを見せた。

どうやら日本の本格参戦を見越して参戦時期を伺っていたみたいだ。

イタリアはドイツとは同盟関係にあったが、オーストリアとは国境紛争を抱えており、この機に乗じて領土を掠め取ろうとしたのだ。

こっちの動きも火事場泥棒的に見えるな。

そしてやっぱりドイツを裏切ったのか・・・


そしてこれは史実通りではあるのだが、よりによってこのタイミングで、11月21日にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は86年に及ぶ波乱に満ちた生涯に幕を閉じ、これによってオーストリア国内は更に混乱状態に陥る。

思えばこの皇帝は人間としては優しい人物だったが、仕事では失敗続きだったし、私生活でも不幸の連続だった。

最愛の奥さんは早くに暗殺されたし、期待の皇太子は情死してしまい、後継者として指名した甥はサラエボで夫婦揃って暗殺されるといった具合に散々だった。

しかしながら優柔不断な性格が幸いしてか、国民に対しては苛烈な統治はしなかったので民衆からの支持は不思議とあった人らしい。


また歴代のハプスブルク皇帝も国民から敬愛された開明的な人物が多かった。

特に女帝マリア・テレジアやその息子のヨーゼフ2世など、時代背景的な事情はあったにせよ啓蒙専制主義者と言われたし、その代表だろう。

こういった歴史的事実があった事で、史実では1980年代末に起こった、共産党支配から脱するための「ヨーロッパ・ピクニック」が、フランツ・ヨーゼフ1世の孫のオットー大公によって旧オーストリア帝国領だった国々で行われ、これが発端となってベルリンの壁とソ連の崩壊に至るわけだ。

歴史は繋がっていると痛感させられる。


それと、全くどうでもいい話としては、ハイドン作曲のオーストリア皇帝賛歌「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」の旋律部分は21世紀のドイツ国歌として採用されていた。歌詩は「なんとか川から、なんとか海峡まで、ドイツのワインがどうのこうの、ドイツの女性はなんだかんだ」と、原曲と全く違うし、フランツといってもフランツ・ヨーゼフ1世の讃歌では無いが。


一方で皇帝の崩御とオーストリア軍の予想以上の弱さに慌てたドイツ軍は、ロシア正面の戦力を引き抜いて日本軍に当てようとしたが一歩遅かった。

オーストリア=ハンガリー帝国はこの緊急事態に接して、日本と連合国に対して降伏を申し出たのだ。

ここに西暦962年のオットー1世以来、1000年近く続いた神聖ローマ帝国の残滓と言える国は消滅した。

三国同盟から発展したドイツを中心とする中央軍事同盟は、そのメインプレーヤーの一角が崩れる事態に直面して、ドイツはロシアへの攻勢を中断して体勢の立て直しをせざるを得なくなった。

また、ドイツとオスマントルコ間の連携が地理的に断たれた事は痛恨の極みと言えた。


遣欧陸軍はウィーンにおいてドイツ軍の様子と、ロシアの動向を見極めていたのだが、12月末にはロシア国内で民衆暴動が発生したため危険を感じ取り、オーストリアの守りは大変不安があるものの、イタリアとギリシャに任せて、補給線の確保を優先させるために一旦モスクワ南部まで後退する事にした。

またこの時に調子に乗って攻勢に出ないようイタリアとギリシャに釘を刺すことも忘れなかった。

遣欧陸軍は最悪のケースだと敵中に孤立する危険すらあったのだが、文麿が適切な進言を行えたこともあり、大きな問題もなく移動することが出来た。

当面はここで日本本国からの補給の生命線となったシベリア鉄道を守り、革命の推移を見極めつつドイツ側の攻勢に対処しようとしていた。


ロシア国民も都市部を中心に、苦しい生活を強いられることになっていたが、遂に暴動に発展してしまい、史実より早くロシア革命が発生したのだ。

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