第49話 1914年の状況
1914年(大正3年)7月
遂に後日、第一次世界大戦と呼ばれることになる戦争が開始されてしまった。
戦いは世界に拡散するのだが、主戦場たるヨーロッパにおいては、やっぱり史実同様に東西の両戦線がメインだ。
まず東部戦線においてドイツとオーストリアに対して人数的に不利だったロシアは、四国協商を通じて同盟関係にあるフランスに対して、ドイツ西部で第二の戦線を構築するよう要請した。
これはもちろんドイツの力を分散させるためだ。
それに対し、かつて普仏戦争で敗れドイツ皇帝の戴冠式をベルサイユ宮殿でやられた事により、復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。
独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェンプランに基づき北西部のベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。
しかしその結果、ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。
ここは少し分かりにくいかも知れない。ベルギーの中立を犯したらなぜイギリスが反応するのかと。
これは久しぶりに地政学の話をするが、イギリスにとってのベルギーは、日本にとっての朝鮮半島と同じ意味を持つためだ。
最初のころに触れたように朝鮮半島が日本に敵対的になる、若しくは敵対的な勢力によって占領されると日本の安全と独立が危うくなるように、ベルギーがイギリスの敵対勢力によって占領されるとイギリスの安全が脅かされるのだ。
地図を見ていただければ良く分かるが、ベルギーはイギリスにとってドイツに対する
そしてここからあまり知られていないが、とても重要な史実を紹介すると、8月7日にフランスが、次いで10日にはロシアが「日英同盟に加入したい」と言ってきた。
驚いた日本政府は態度をいったん保留するが、最終的な結論としては、この申し出を断ってしまった。
非常にもったいない結果で、もしもこれを受け入れていたら、その後の世界史の様相はガラリと変わっていただろうから経緯を示しておこう。
この申し出の要因としては日英と露仏は軍事同盟で結ばれていたが、英仏、英露は協商、日仏、日露は協約関係にあるだけで同盟では無かった為、この機会に軍事同盟へ昇格させようとの意思だ。
まずフランスとしては東南アジア、特に仏印(21世紀のベトナム・ラオス・カンボジア)の利権を日本に守って欲しかったし、ロシアは日露戦争にて日本の強さを嫌というほど知っている当事者だ。味方と出来ればこれほど頼もしい相手はいないと考えただろう。
この露仏のラブコールに対して日本側は乗り気の部分もあったのだが、肝心のイギリス外相の態度は「どっちでもいいよ」だったため、日本側の意欲も減退し、最終的に申し出を断るに至るが、ロンドン宣言に加盟することだけは行った。
この一連のやり取りの要因として、イギリスの日本に対する不信感が根底にあったと思われる。
事実、日本が参戦することに対しての態度も誠意が全くなかった。
日本の参戦を許し、日本の勢力がこれ以上拡大すればイギリスの権益まで侵されるのではないかと疑ったわけだ。
その結果として日本の参戦に対するイギリス外相の態度は二転三転四転し、日本側の参戦意欲をなえさせた。
しかしこの世界においてはそうではない。
露仏のみならずイギリスも四国協商を四国同盟へ昇格させる事に対して異論は全くなく、むしろ積極的に日本への働きかけを行った。
そして四国協商は露仏同盟と日英同盟に矛盾しない範囲で四国同盟へと昇格し、第一次世界大戦を共に戦う事となった。
これはワシントン海軍軍縮条約締結の際に日英同盟の代替として調印された四ヶ国条約とは全く内容の異なる、意味のある条約だった。
ただし、主戦場から遠く離れた日本の立場としては、ヨーロッパへの陸海軍の即時派兵は準備が整っておらず、ヨーロッパへの直接参戦は後日に延ばされることとなった。
こうして第一次世界大戦が開始された。
参加国は以下の通りだ。
・同盟国(三国同盟)側:オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ、オスマン帝国、ブルガリア
・連合国(四国同盟)側:セルビア、ロシア、フランス、イギリス、日本
ところでイタリアよ。君はドイツとオーストリアと結んだ三国同盟の一員だったが?どこに行った?
参戦しなくていいのかい?と疑問に思うが、この理由は三国同盟には参戦の義務が無いからだ。
これって戦争が進んでいくと史実通りにこちら側に付くのだろうか?
なんか嫌だな~。
何といってもイタリアは戦争に弱いという事実は折り紙付きというか、達人の域に入っているというか……
出来ればこちら側で参戦しないで欲しいし、それはきっとヒトラーも将来同じ事を思うだろう。
それとブルガリア。やっぱりロシアを裏切って敵に回ったか。君たちはまったく・・・
1914年の開戦からの出来事を戦線別に記すと、まず西部戦線においてはドイツ陸軍のパリ進軍が同年9月のマルヌ会戦で食い止められると、両軍はこのまま塹壕をひたすら掘り始め、お互いが相手の北側に回り込もうとした為に延々と塹壕が北に向かって伸び、遂にはドーバー海峡まで達するありさまだった。
そしてこのまま消耗戦の様相を呈し、塹壕が東西にほとんど動かない膠着状況となった。
塹壕の距離は500㎞〜700kmにも及ぶという。
こういう風に書くと双方がモグラのように必死に塹壕を掘っている姿が想像されて何故かギャグっぽく感じるかもしれないが、双方大まじめだし、何より多くの死傷者を出してしまっている。
東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリー軍には勝利したが、タンネンベルクの戦いでドイツに大敗を喫した。この戦いは1914年8月17日から9月2日にかけてロシア軍の第1軍・第2軍と、ドイツ軍の第8軍によってドイツ領内の東プロイセンのタンネンベルク周辺で戦われた。ロシアはドイツの2倍の兵力であったが大量の死傷者と捕虜を出してドイツ領への進軍は食い止められ、ドイツのヒンデンブルクとルーデンドルフは英雄と称えられることになる。
ロシアの敗因は通信に暗号を用いなかったので情報がドイツに筒抜けだったからだ。
一体何をやっておるのだと言うしかないが、間抜けというかお粗末だ。
11月にオスマン帝国がドイツ側に加入すると、南部戦線とでもいうべき中東方面の戦線が開かれた。
戦いはこのまま激しさを増していく。
アフリカやアジアにおいても戦いは開始された。
8月末。イギリスから要請を受けた日本は膠州湾に進出して、ドイツの
余談だが、この地のビールがドイツ系の味なのは、ここがドイツ領だった歴史があるからだ。
日本海軍は南方諸島へも同時に展開して、瞬く間に中部太平洋方面に点在するドイツ植民地の占領を完了した。
この方面に展開していたシュペー提督率いるドイツ艦隊は、バルチック艦隊を撃滅した実績を持つ日本艦隊と戦う事を恐れ、南米経由でドイツ方面へ脱出を図ったが、途中南米ラプラタ沖でイギリス艦隊によって殲滅された。
その後、日本海軍はイギリス、アメリカ、メキシコの要請によって、北米西海岸のドイツ勢力駆逐に乗り出す。
参戦4か月後の1914年の末には、アメリカ西海岸から最南端のホーン岬、更にはアラビア海からアフリカ南端の喜望峰までの広大な地域の警備任務に就く。
これはオーストラリアとニュージーランドの要望でもあった。
つまり地球の半分以上に相当する太平洋全域とインド洋全域の守りを担当するようになったわけだ。
11月。青島要塞攻略に成功したイギリスは、アジアには治安維持程度の部隊を残してヨーロッパへ全力を集中させようとしており、日本に対しても本格的な出兵要請が来た。
これに対して日本は、戦争準備が完了していない事を理由にヨーロッパ派兵を渋っていたが、開戦1年半を経過する1916年初頭を目標に、陸海軍の本格派兵を行うと決定する。
それまでの間に同盟国に対する援助も怠りない。
①同盟国、とくにロシアへの武器弾薬の供給
②アメリカに代わってイギリス・フランスの国債を大量購入
③ウラジオストク銀行の金塊をカナダへ輸送
④英仏に対する軍需物資の供給
といった具合だ。
日本が本格参戦するまでは膠着状態がひたすら続き、参戦各国は膨大な死傷者を積み上げ、同時に国力をすり減らす状態になる。
こうして短期決戦で終了すると思われていた戦争はどんどん長引いていく。
やっぱりヨーロッパは悲惨だな。
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