第39話 最終話 契約補則

 その日の晩。

 ベッドに仰向けに寝転がり、リドリアは天井に向かってかざした左手を見ていた。


 正確には薬指にはまった暫定結婚指輪を、だ。


 いま、アレックスが寝室内の照明を落としているところだが、それでもわずかな光を帯びて内から光っているように見える。


 金の指輪だ。

 蔦を模した繊細なデザイン。


 たぶん、自分では決して選ばないだろう。それぐらいはかなく、女性らしい。どちらかというと節くれだったリドリアの指に似合うとは思えなかった。


 だが実際はめてみると、ぴたりと指に沿うせいかいつもより細く見える。

 この指輪がとても似合う。まるでリドリアのために誂えたように。


(不思議だなぁ)


 指を少し動かし、めつすがめつ指輪を眺める。


 アレックスといると、気づかなかった自分がいる。


 自分が想像しているよりいまの仕事に誇りを持っていた。当初は「フィンリーのため」「家名のため」と考えていたが、そんなの口実だと知る。


 他人と暮らすことがこんなに楽しいとは思わなかったし、自分の指にこんな指輪が似合うとは思わなかった。


 化粧したり着飾った姿が苦手だったのに、アレックスは「きれいだ」と言ってくれる。


「気に入ったのか?」


 ベッドがかすかに傾ぎ、リドリアは視線を移動させた。

 アレックスがキルトケットを持ち上げて隣に寝転ぶところだった。


「ええ。とてもきれいなデザインです」


 ぼすり、とアレックスが枕に後頭部を乗せる。見えないが、彼の指にも同じデザインの指輪がはまっている。


「あ」

「なんだ」


 寝位置が決まらないのか、もぞもぞとまだ身じろぎしていたアレックスだが、動きを止めてリドリアを見た。


「これ、偽装結婚が終わったら返さないといけませんか?」

「は?」


「指輪」

 リドリアは首を横に向ける。


「数年後、偽装結婚の契約が終わったら離婚するわけでしょう? そのとき、この指輪はどうなります? アレクに返却したほうがいいですか?」


「いらん」


 嫌そうにアレックスは応じるが、リドリアはほっとした。もう一度だけ天井にかざした指を見てから、大事に左手をキルトケットの中にいれる。


「じゃあ、もらってもいいですか? すごいきれい」

「というか」


「はい?」

「離婚、な」


「離婚……するん、ですよね?」


 これはあくまで偽装結婚だったはずだ。

 契約書まで交わしている。


 いろんなことがあり、うっかり結婚までしてしまったが、当初は婚約の約束だけで済ませて終わるはずだった。


「契約書には何年と書いた?」

「3年じゃないですかね。フィンリーが成人するまでですから」


「3年か」

「3年のはずです」


「……内容を追加しないか?」

「内容? 追加?」


 リドリアは目をまたたかせる。

 眠るために照明は最小にしぼられているため、室内は紗をおろしたように薄暗い。


 その先で、アレックスは天井を見上げている。


「補則を設けたい」


 契約書の最後に付け足す部分だ。さらになにを追加するのか。リドリアはまばたきをして尋ねた。


「なんの補則ですか?」


 アレックスはむくりと上半身を起こし、リドリアを見た。黒瑪瑙のような瞳はまっすぐに自分に向けられていた。


「どちらかから契約延長の申し出があれば両者は話し合いを行い、同意を得たら期間を更新することができる」


 リドリアは彼の言葉を脳内で反芻してみる。

 契約延長。


「……それは何年? 3年を繰り返すわけですか」

「そう」


 ぱちぱちと何度もリドリアは無言でまばたきを繰り返す。


 それは。

 もう契約云々ではなく。


 れっきとしたなのではないのだろうか。


 リドリアもよくわからないが、世間では違うのだろうか。

 ただアレックスの至極真面目な顔を見る限りでは、世間的には「契約」という仲にとどまるのかもしれない。


 迷った末にリドリアはうなずいた。


「かまいませんよ。3年ごとの更新、ということで」

 言ってから、リドリアは小首をかしげた。


「というかアレクはいいんですか? そもそも女性との生活が面倒くさいとか結婚なんか煩わしいとか言ってましたが。もし私が世間体のために『もうあと3年』とか言い出したら、その都度話し合いを設けて延長しないといけないんですよ?」


「……いや、当初おもっていたよりこの生活は快適だ」

「じゃあなおのことじゃないですか?」


 リドリアはきょとんとした。


 彼が当初想像していたものと違ったのだ。しかも彼の両親は息子が良縁を結ぶことに積極的でもある。


「3年後に契約を終わらせて、ほかの令嬢を探してみてはいかがです?」


 言った途端、舌打ちされた。

 む、とリドリアが眉根を寄せると、アレックスはベッドに胡座したまま髪の毛をわしわしとかきむしる。


「この生活がいいんだ」


「この、って……。あ。この家? 確かにメイドさんの腕前も素晴らしいですし、市場にも近いですもんね。立地的に最高。でもあれですよ? ここ王太子妃さまが準備してくださった家ですから、よく考えたらメリッサ王女が嫁がれたら出て行かなくちゃですからね。ここでの生活はやっぱり期間限定……」


「近日中に引っ越し先を見つける! 〝豪華なおうち〟とやらを!」

「いいですねぇ。理想ですよ、それ。王宮に近いところがいいですけど、この市場の近さは捨てがたい」


「契約書に補則をつけてもいいんだな⁉」

「私は……かまいませんが」


 あ、その話はまだ続いていたのかとアレックスを見やる。


「本当にいいんですか? 面倒くさくないです?」


 どうもこの契約はアレックスに対して不平等のような気がするのでそう申し出てみたのに。


 彼は不機嫌を煮詰めたような表情というか。

 もはやそのような存在の権化になっていた。


「なん……です?」


 せっかく譲渡したというのに。ありていに言えばなぜこんなにキレているのだ。


「3年後をみてろよ。君のほうから更新の話を持ち出させてやるからな」


 まるで決闘を申し出るような気迫で言われた。


「は……あ? まあ……ええ、どうでも」


 いいんですけど。

 と言いかけたのだが。


 ぎしり、と。

 ベッドがきしみ、リドリアの身体がわずかに左右に傾ぐ。


 ふわりとアレックスの香りが間近にした。

 それもそのはずだ。


 リドリアの肩口に彼は両手をつき、顔を覗き込んでいる。


「アレク」


 どうしました。

 続く言葉は、彼の唇によってふさがれる。


 あっけにとられたまま何もできないリドリアだが。

 その唇はすぐに離された。


「契約締結。いまにみてろよ」


 鼻と鼻がくっつく距離でにやりと笑われた。

 呆然自失で動けないリドリアをよそに、アレックスはさっさとキルトケットの中に潜り込んだ。


「おやすみ」


 ぶっきらぼうな声にようやくリドリアは我に返る。


「この……っ! なにするの! 痴漢! 最低!」


 素早く上半身を起こし、枕をひっつかんでバシバシとアレックスにたたきつけるが、彼は我関せずとばかりに微動だにしない。


「信じられない! 最悪! もう国境復活です! こっからこないで!」


 こうしてふたりのベッドにふたたび国境線は敷かれたが。


 夫婦生活はこののち、何年も。

 何十年も。

 契約更新が続けられた。

 死がふたりを分かつまで。


 

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