ミント味
國 雪男
第1話 ただそれでしかない味
横たわる鹿の腹を横でカラスが何度も啄んでいました。真っ暗闇の死亡推定時刻でしたが、彼らは朝日が立ち昇るその時まで横たわるそれに気付くことなく、電線に翼を預けていました。
空腹を満たすには絶好の獲物でした。人でいう朝食は彼にとっては夕飯時で思いの外、がっつりとその神経を啜っています。酸味の強い中枢神経は苦味のある末梢神経に比べて彼の好みに合っているようです。
引き摺り出された鹿の肝臓は車輪に押しつぶされて一部損傷しているものの、もう片側は生きていました。光沢が残り、それは艶やかで赤黒くしっとりとした食感が残っていました。血液が果汁のように滴り、肝臓には食事の跡が残っていました。
人間に比べたら彼の口は小さく、何度も同じように啄むことでしか獲物を捕らえることはできません。その代わり、彼には元来の生存能力がありました。近づく車輪の音を上手く聞き分けて死が迫るギリギリまで取る食事をことができます。
迫り来る死を察知し回避するこの能力は飛行できる他のどの動物にも劣ることはありません。
「おはようございます」
校長先生に挨拶する小学生の声が聞こえました。
「はい、おはよう」
蛍光緑の旗を振る校長先生に導かれながら男の子は左右を確認して横断歩道を渡りました。
「今日も元気いっぱいだね」
校長先生がそういうと男子児童は脇目も振らず走り出しました。
「みっちゃーーん!おはよう!」
手を振りながらみっちゃんと思しき人物のそばに駆け寄ります。みっちゃんは一瞬トラックで見切れた後、おーい、しゅんちゃん、と手を振り返します。
車道を挟んで向こう側にいるみっちゃんに近づこうとしましたが、一般車が2台、3台と通り過ぎるとしゅんちゃんと呼ばれた人物は速度を緩めパカパカと光る青色を前に苛立ちを見せました。
「ああ、もぅ!」
語気を強めてしゅんちゃんはそのまま立ち止まりました。
「しゅんちゃん、今日のおとめ座はね12位だったよ。12位だよ?12位。ハハ!当たったね」
みっちゃんと呼ばれた人物がそう言うとしゅんちゃんはさらに苛立った様子で
「知ってるよ!12位なことくらい。けどね、ラッキーアイテムが黄色い帽子だったから僕もう12位じゃないもん」
「ていうか、みっちゃんのみずがめ座だって11位だったじゃん!11位は12位より悪いんだよ」
しゅんちゃんがそういうとみっちゃんは何故か悲しい顔になりました。
「ぼ、ぼく、べっ、べつに11位じゃないし!お母さんが12位より11位の方が良いって言ってたもん!だって、しゅんちゃん12位でしょ!僕の方が一個上じゃん!」
みっちゃんが焦った様子でそういうと、しゅんちゃんの背中は丸くなり小刻みに揺れました。
「何笑ってんだよ!」
「だって、みっちゃん、お母さんと一緒じゃないと朝の占い見れないんでしょっ!」
「3年生になってるのに・・・」
みっちゃんの顔は何かまずいことでも知られたかのようにぎこちなく曇ってゆきます。
「ちがうし」
そうとだけ言ってみっちゃんは体を右に回ししゅんちゃんを置いて歩き始めました。
「まってよ」
しゅんちゃんは呼びかけましたが、みっちゃんは聞こえているのかいないのか、スタスタともトボトボともとれる速さで歩きます。黄色い帽子が作る日陰はみっちゃんの表情をますます暗くさせました。
「おい、待てって!」
しゅんちゃんの声は今度こそトラックにかき消されて宙ぶらりんになります。
近くを犬が通りました。
5歩程度離れたところからおばあさんが歩いてきます。
「おはようさん」
しゅんちゃんは走り出しました。
青く光るライトは今度はただじっくりとその走りを迎え入れているようでした。
ダダダッ、タッタッタッ、ハァハァハァフゥ、ドドドッ、ドドドッ、キュッギュッギュン、ダダダダッ、ザッ
「みっちゃん、みっちゃあん、待て!おい!みつき!高沢蜜樹!」
チシッ、キンッカンッカラカラカラカラッ、ポチャン
しゅんちゃんが蹴った小石が傍の鉄の網目に吸い込まれて落ちました。
ドンッ、ギュッギュ、ズッザッザザザッ、チャンカラカラカラ、コンコンコんコロコロ、キリキリキリキリ
しゅんちゃんが右膝を立てて飛びつくと、みっちゃんの背負った黒いランドセルは縮んだ勢いを思い切り跳ね返し、みっちゃんの身体を数歩手前にあった道路に投げ出しました。
「いってぇ、なにすんだよ!」
しゅんちゃんは何も言わず、ただしどろもどろの表情を浮かべて擦りむいたみっちゃんの膝を見ていました。
「おい」
みっちゃんはそういいましたがしゅんちゃんの虚ろな顔を見ると喉に詰まりを感じたまま目を背けました。
まるで、「しゅんちゃんは非道で友とは呼べない薄情なやつだ」と感じたようでした。
目線を落としながらみっちゃんの姿を視界に入れないようにしゅんちゃんは通り過ぎて行きました。
二人の間に気まずい空気が流れます。
しゅんちゃんが通り過ぎて十数秒後、みっちゃんは立ちあがろうとしましたが、気力も足も心に追いついてこない様子で、踏ん張れども立つことはできませんでした。
僕は手を貸すために駆け寄ろうとしました。
ですがみっちゃんの諦めた姿に僕は速度を緩めました。そしてその助力で近寄ろうとしました。
そのとき
グゥーン、バンッ、キキーーーーッ。
一瞬の出来事でした。
僕が見ていたみっちゃんはタイヤ痕に押し潰され、先程の鹿を彷彿とさせる姿に変わり果てていました。
アスファルトに広がる赤黒い水滴はまるでキッチンに流れ込んだ飲みかけのぶどうジュースのようで、喉ごしを感じるものでした。
車はそのまま立ち去り、辺りにいたはずの小学生はすでに校舎へ入っていくところでした。
きっとみっちゃんもしゅんちゃんも遅刻寸前だったのでしょう。
僕はすぐさま駆け寄り、みっちゃんの体温を感じ抱き寄せました。彼は、グッ...ゥヴ、と人間味のある声で僕に助けを乞うてきました。
僕はたまらなく愛しくなり冷たくなり始めたみっちゃんを温めることにしました。
朝の日差しを浴びながらも彼の体は冷たく硬くなってゆきます。
鮮度の劣化は時間とともに訪れ、風味を悪くすることをかつて彼らから教わっていたので僕は大事に大事に自宅まで持ち帰りました。
38種類目のこの味覚は秋の訪れを感じさせました。
この間までまだ夏だと思っていたのが嘘のように帰り道は寒々としていたように思えます。
彼を食した数時間後、犯行現場の近くに戻ると今朝頂いた鹿の残骸はまだ転がっていました。しかしその周りには一匹のカラスも群がることなく、ただ風に吹かれて血液と内臓の一部のみが残されていました。
「だから言ったでしょう。時間が経つと鮮度が落ちると。」
彼の矜持はカラスの群れによって為されたものなのでした。
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