第一章

第1話

 いつかこの先でこれまでの日々を思い出して、恋しく懐かしく思うだろうか。

 ──否、

 きっと、それらの日々が無ければ良かったと思うに違いない。



 九月初旬が過ぎ些か涼しい微風が肌を舐めるが、陽射しはまだ肌を抓るようで少し苛立ちの気分が足下から生える。只今、平日の正午である。学校を出たのが確か正午であった筈だけれどもどういったわけか、十分ほどは確実に歩いているというのにまったく時間が進んでいないように思えてしまう。首に掛けた懐中時計の短針と長針は十二時を指したままで、秒針は二十秒が経ったところで止まっている。壊れてしまったか。この懐中時計は確か、あれ……いや、父から十二歳の誕生日に貰った物である。


 「どれほどの貧困者であれ、それがたとえ家族であったとしても直にただでお金をあげるという行為を私はしたくない」というのがわたしの父であり、誕生日プレゼントは勿論のことお年玉を現金で貰ったことはただの一度もない。


──えっと、確かそうだったかな。


 全て何かしらの物であり、全てが高級品であったように思う。父ははっきりとは言わなかったが、つまりはそれを売ってお金にしろということであるのだけれども、わたしはあれこれ何か欲しいという物欲の塊を抱かない人間であるから、殆どがそのまま物として残っている。物欲のなさは幼少期からそうらしく、そんなわたしを父は実に私好みだと語り、頭を荒々しく撫でてくれた時の記憶が矢鱈と鮮明に脳みそにこびりついているが、その時の父の容姿と最後に会った頃の父の容姿がまったく不変であり、些かの老いがなかったことに最近になって思い返し気がついた。どれほどかと言えば、隣に並べば兄妹や恋人同士だと勘違いされるほどであり、決してわたしが老け顔というわけでは断じてない。まあそんな父だが、わたしが高校に上がると同時に仕事が忙しいらしく殆ど家には帰って来ない為、もしかしたら今頃の父は年相応に急に老け込んでしまっているかも知れない。父の歳は知らないけれども。しかし、これでも知っている方ではあるのだ。母のことは何も知らないのだから。父は母のことについて何も語らなかったから、わたしは父に母のことを何も聞かなかった。語らないのは、話したくはないからなのだと、勝手にそう思っているからだ。


 ──ただいま。


 家には誰も居らず、ただただ静寂が無駄に広い部屋に居座っている。そのまま居間へと向かいその辺に荷物を放って崩れるように長椅子へとうつ伏せになって倒れた。そのまま目を瞑ってからどれほど時間が経っただろうか、体を起こし懐から懐中時計を取り出し見た。


 ──ああ、壊れてるんだった。………あれ。

 秒針が少しだけ進んでいた。ニ五秒へと進んでいたが、まあいいやと、部屋の掛け時計を見やったが懐中時計と同じ時刻で止まっていた。奇妙なこの偶然に流石にわたしの首は傾いた。


 ──ピンポーン。


 呼び鈴の音がリビングに響いた。が、出ようと言う気にはなれなかった。しかしどうも客人はしつこいようで何度も呼び鈴を鳴らしている。静寂に包まれているこの家に誰か居ると確信しているというのか──きっとそうであろう、でなければそう執拗に呼び鈴は鳴らさないだろうが、それとも単なる嫌がらせだろうか。まあうざいが、我慢でもしとけばいずれ飽きるだろうと暫くの間無視し続けたけれども、いやはや本当にしつこい──休みなく呼び鈴は鳴り続けるどころかドアを乱暴に叩く始末である。


 甚だ腹の立つ客人だ。


 わたしは鼻息ひとつ荒く吹かせ足音響かせ玄関へと向かい、扉を開けた。


 「いい加減にしなさいよね!迷惑極まりないったらありゃ──」


 客人の姿が目に映ったその瞬間、思わず言葉が失せてしまった。


 ──異様である。異様そのものであった。白黒の人間である。熊猫である。いや、人間である。熊猫人間である。人間なのか?

 ──でもなんだろう、何か既視感が………。


 肩にかかるほど伸びたその髪は白く、肌もまたとても白い。まるで生まれてから一度も陽に照らされることがなかったのではないかと思うほどに。ただ、一際目を引いたのはその白さではなく、右眼、左腕、胴体と両脚がそれとは対照的で墨のように真っ黒いことである。


 「ぱ、熊猫は両耳、両目周りと両手両脚が黒で他は白なんですよ?」


 まるで翡翠を嵌め込んだかのような綺麗な左眼がわたしを見下ろす。

 「そう。熊猫、好きなの?」

 「は、はい」


 別に好きではないのにそう答えてしまった。


 「ち、因みにハロウィーンは一ヶ月ほど先です」

 「仮装なんてしていないけれど」

 「そ、そうですよね。はは、冗談です」


 確かにそうなのである。熊猫人間は仮装なんてしていない。それどころか装いすらしていないのである。つまりは全裸なのである。わたしはなんとか視線が下に落ちないよう上を見上げる。その所為か、彼の左手に持つそれに気が付かなかった。


 「彼がダメになってしまった」


 そう言って彼は軽々しく左手に持っていたそれを離し、地べたへと落下させた。


 「──え?」


 彼とはわたしの父である。

 最後に会ったのはいつだったかはっきりしない。いつだったかな………半年か、それとも七ヶ月か八ヶ月前だったか。覚えていないけれどある日、父は大きめの紙袋を手に持って帰ってきたのだった。それはわたし宛てのお土産なのだと勝手に思ったが、どうやらそうではないらしく、わたしはそれは何かと訊ねると父は笑みを浮かべ、服だよと答え袋の中を見せてくれた。それは白を基調とした着物であり、新品の下駄も一緒に入っていた。わたしは続けて、誰が着るのだと訊ねたが、父は明言せず、知人がねと答え、きっと彼女──ああいや、彼に似合うだろうと嬉しそうに独りごちた。


 ──ふうん。


 わたしは機嫌を損ねたが、父はそんなわたしを気にもせず着物が入った紙袋を丁寧に箪笥へとしまうと、いつか知人が訪ねてきたらこれを渡しておくれ。着方は、まあたぶん分かるだろう。向こうでも似たようなのを着ていから──と。


 知人とはまさかこの綺麗な女性的顔立ちをした筋骨隆々の全裸熊猫人間だと言うのか。そして力無く倒れている父は生きているのだろうか。


 「生きてはいるよ。死んだように寝ているだけ」


 彼の言葉にわたしはほっと胸を撫で下ろしたが刹那に怒りが芽生え「父を乱暴に扱わないでください」と思わず怒鳴りつけるように注意した。しかし彼はああ、と言って仔猫の首根っこを掴むかの如く、父の首根っこを鷲掴みにし持ち上げた。再度わたしは注意したが、左眼はこちらを見て──いえ、どうもこちらに焦点が合っていないご様子──どうやらわたしではなく背後を見ているようで、わたしはそちらへと振り返ってみた。が、特に何もない。気がつけば、彼はわたしをよけて家の中へと上がり込んで行くではないか。しかも、乱暴に掴まれる父の足は床を擦ってしまっている。わたしは慌てて父の両足を抱えた。


 「あの、ちょっと、勝手に入らないでください。あなたは父の友達か何かですか?」

 「友達じゃない。ただの知り合いだ」

 「ただの知り合いが一体なんの用なんですか。どうして父はこのようなことになったんですか。ほんとに眠ってるだけなんですか。そもそもあなたの名前は………ちょっと止まってください」


 きょろきょろと家中を歩き回っていた足がぴたりと止まった。


 「私の名前はヴィクター。只今素っ裸で恥ずかしいので、服を探している。彼曰く、ここに私宛てに用意された服があると聞いていたんだが」


 一応彼の中にも羞恥心は存在しているんだなとわたしは思った。そして彼の言葉から箪笥の中にしまった着物のことが連想された。とすると、彼は父の知人であることは確かなのだろう。


 「服なら父の寝室の箪笥の中にあります。が、わたしが持ってくるので、あなたは………ヴィクターさんは居間で待っててもらえますか」


 彼は頷くと居間へと向かって歩き出す。父を長椅子へと横にしてもらうが、その横でエンメイは恥ずかしげも無さそうに立っている。恥ずかしいという言葉から羞恥心があるのだと思っていたが、とても羞恥心をその身に宿しているようには見えない堂々たる佇まいである。もしや、敢えてそうしているのかも知れない。彼の様な風貌の持ち主が裸を晒すことをもじもじと情け無く恥じらっていては格好がつかない。だからこそこうして堂々胸張って一物勃たしているのかも知れない──嘘、下は見ないようにしているから知らないけれど、うん、知らない。


 「す、すぐ持って来ますから、彷徨かないでくださいね」


 わたしは階段を駆け上がり、父の寝室から例の物をとって急ぎ戻る。堂々たる姿の彼にそれを渡すと、ヴィクターは袋から着物を取り出しぎこちない様子はなくあっという間に着物に着替えるのであった。父が言っていた様に似たようなのを着ていたからなのだろう。着物を着たことにより筋骨隆々の肉体美は隠れ、その容姿はわたしほどはでないけれど、可笑しな表現をしてしまうが耳が孕むような低音のその声を聞かない限りは美女そのものと判断してしまうほどだ。ただ異様な部分は消えていない。手脚胴体は服で隠れたが、右眼には暗闇が嵌まっている。


 「あの、いくつか説明してもらいたいことがあるのだけれども………」

 「いいよ。何を説明すればいいのかな?」

 「まずは父のことです。どうして父は眠っているのですか。起きる気配がありません」


 そしてそんな父の見た目に異変は見られない。異変どころかやはり不変である。まったくの老いを感じない。このヴィクターという男はこのことについて何か知っているのだろうか。


 「焦らないのかい?」と、長椅子の縁へとヴィクターは腰掛けた。

 「あなたこそ随分と落ち着いてますが」

 「ううん、そうだね………何から話そうか………」


 ヴィクターは左腕の墨のような黒い人差し指をこめかみに当て考える仕草を見せた。


 「気になるかい?」

 「え………」


 まあ気になるといえば、気になる。気になることだらけである。


 「これはね取り繕ってるんだよ。どうして取り繕っているのか、それはね、無いからだよ──」


 言いながら、左手を握っては開き握っては開きを繰り返しそれを眺めながら、「──ああでも、初めから無いってわけじゃないんだ。途中から、無くなってしまったんだ」

 「事故とか、ですか?」


 ふふ、とヴィクターは鼻で笑った。


 「いいや、事故じゃないよ。奪われてしまったんだよ。争奪、争奪戦によって部分部分を奪られてしまったんだ」


 「よく意味が分からないんですけれど」

 「ほら、私って美しいでしょ。だから──」


 ──いや、意味が分からない。繰り返しになってしまうけれども、わたしほどではないが確かに美しい人ではある。だが、美しいからという理由で何故そうなるのか全く理解ができない。


 「まあそんなこと理解しなくたっていいんだけれどね。何せ相手は人間じゃあないのだから。人間に似て非なる何かで、正直、何故かは私にも分からない」


 ──ズドン。

 と、どこか離れたところで突然に轟音がした。


 「なに………」


 窓ガラスがカタカタと音を立てる。わたしは窓へと近寄りカーテンを開けたが、そこから見える景色は特に異変はなかった。


 「因みにこの取り繕った部分は──」と、ヴィクターは突然の轟音を全く気にもしない様子で話を続ける。


 「義手や義足ではなくちゃんと器官として在り、神経が通っていて痛覚もある。けれども本物じゃあない。だから奪られてしまった私の一部を取り返したいところなのだけれども、この体じゃあね。私の体は特殊でこの状態じゃ満足に力を発揮できない」


 ヴィクターはわたしをちらりと見やった。とても嫌な予感がした。ベタベタな展開になる気がした。


 「体の一部を奪られてしまった今、私は実力を発揮することがやはりむつかしい。だから彼に協力してもらったのだけれども、いかんせんただの人間ではやはり無理、結果こうなってしまった」

 「わ、わたしもただの人間です。無理ですよ、そんなの」


 ヴィクターは首を傾げる。口角を吊り上げたその表情は嬉しそうに見えた。


 「私は一言も手伝って欲しいとは言っていないけれど」


 しまった──完全にそういう展開になるのだと思い先走った発言をしてしまった。確かに手伝って欲しいだなんて一言も言っていない。これでは逆に手伝ってあげたい奴ではないか。いや、しかし手伝って欲しいと言っていないということはそれを望んでいるわけではないのか。


 「しかしまあ、その気持ちだけで嬉しいよ──」


 なんだ、やっぱり手伝ってくれることを望んでいるわけではないのか。なら安心──。


 「──と、言いたいところなのだけれども君に手伝って貰いたいと思っている」

 「え………いや、わたしはだから──」

 「父を助けたくはないのかい?彼の心は今、私の一部と共にある。このまま放っておけば本当に目を覚まさなくなってしまうよ。分かるかい………キスしたって目を覚さないんだ」

 「まあ、父は白雪姫じゃないのでそりゃあ………」


 ………なんだろう、何かが変だ。でも、何が変なのだろう………。何か気づかなければならいことがある………と思ったのだけれども、それがなんなのか分からない。


 「父を捨て置くかい………」


 ヴィクターが問う。


 「まあ彼が私に協力しようとしたのは彼の身勝手であり──意志である。私としては他に宛てがないからどうしても君に手伝って貰いたいところなのだけれども、彼がこうなってしまったのは自業自得、至極当然のことながら君に何の責任もないから見捨てたところで罰なんて当たらないとは思うのだけれども──」


 ヴィクターは言う。


 あと一つでも私の体の一部を取り返すことができれば彼を眠りから覚ますことが出来る、と。

 しかし、そこが肝心なのである。このヴィクターという人物がどういった人物であり、どれほどの力を有しているのかわたしは知らない。けれどわたしはわたしに何の力も有していないことを知っている。だから、しつこいようだけれどもそんなわたしが得体の知れない何かと戦うなんてことができる筈がない。


 「そうだね。君には何の力もないから戦えない。しかしどうやら勘違いしているようだけれども、私の言う手伝って欲しいとは、代わりに戦って欲しいということではないよ」

 「………それじゃわたしは何を?」

 「敵の前に出て小石の一つでもぶつけてくれれば良い」

 「でもそれで解決はしないんでしょ。そんな単純なことで済むのなら、あなたは体の一部を奪られてしまうなんてことはなかった筈で、父もこういうことにならなかった」


 まあね、とヴィクターは微笑む。


 「でも君と彼は違う。君は特別だからね、その後は君の背後の者たちがどうにかしてくれるよ」


 わたしの背後の者たち………。

 背後へと振り返るが誰も居やしない。


 「今の君には見えないよ」


 わたしは小首傾げて訊ねる。


 「何がですか………」

 「さあね」

 「…………」


 さあねって、彼には一体何が見えているのだろうか。


 「はっきりとは私も視認できないが、君に憑いているそれらは君を守ってくれると思うよ」

 「そ、それらってお化けですか………。複数憑いているんですか………」

 「七かな。お化けじゃあないけれども、まあ、完全に出てくれば君にも私にも視認できよう。君に問題がなければだがね」


 ──で、どうする、と彼は続けて訊ねた。


 「わたしがすることがそんな単純なことだけでいいのなら、後はよく分からないけれど、あなたがやってくれるのでしょう………。それなら、それで父が助かるのなら」


 ヴィクターは笑みを浮かべ──


 「それじゃあ早速行こうか。先ほどの轟音は人間に似て非なる何かがこちらへ来た合図だからね」


 そう言って立ち上がる。

 わたしは不安を抱えながらヴィクターと共に家の外へと出た。

 窓から覗いた方角とは逆の空に夜が在った。正確に言えば青い空にぽっかりと巨大な楕円形の穴が空いていたのだ。あれは?、とヴィクターに訊ねると彼処から来たんだと言う。


 「何処に繋がってるの。宇宙?」

 「さあね………現実かな」


 そう言ってその辺に落ちている拳におさまる小石を拾いこちらに差し出した。


 「ほんとに小石を投げるだけでいいんだ」

 「ああ、それだけでいいよ」

 ヴィクターは巨大な穴のある方へと歩みを進めた。

 

 陽はまだまだ高い。

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