私たちはみんな、ヒロインの死を求めている

「風立ちぬ」は堀辰雄が三十代前半頃から書きはじめ、昭和十三年に刊行された小説だ。堀辰雄の代表作として知られている。


 おそらくこの作品を真面目に語ろうとすれば、作者の実人生を重ね合わさなければならないような気もする。例えば、「風立ちぬ」を書きはじめる前年に、作者が病状の悪くなった許嫁を亡くしていること、とかだ。だけど僕は評論家でもなんでもないし、語る相手は夏風しかいない。千夜一夜物語ではないが、夏風が満足すれば別にそれでいいのだ。そしてたぶん、いや絶対、夏風は僕がそんなことを語るのを望んでいない。


「まぁ、死んでるか分からないしね。生きてればいいなぁ、って思った」

「えっ、それだけ」と僕の感想に、夏風が笑う。「でもさすがにあれはどう見ても、死んでると思うんだ、私」


 今日は六月三十日。国崎の悩みを聞いてから、三日が経っている。放課後の僕たちは、図書室にいる。周りには司書の先生しかいない寂し気な雰囲気にも慣れてきた。


「でも、はっきり、小学生でも分かるくらいはっきり、『節子は死にました』って書かない限り、僕は認めない。信じるのは、こっちの勝手なんだから。読む側はいつだって、自分の読みたいように読むんだ」

「もしかして、私が真面目過ぎる読み方、って指摘したから、頑張ったようにフランクな感想を目指してない?」

「……い、いや、そんなことはないよ」

「あっ、目を逸らした。そういうところも真面目だ」


〈風立ちぬ、いざ生きめやも。〉


『風立ちぬ』はタイトルにも使われているそんな詩句が印象的なサナトリウムでのふたりの日々を描いた小説だ。『お前』と語りかける美しい冒頭から幕を開ける。大病を患った婚約者とともに知り合いの院長のいる八ヶ岳山麓にある療養所に行った青年のまなざしから、見える世界の情景や婚約者の節子に対する想いが綴られている。描かれる情景が綺麗であればあるほど、余計にふたりの間を引き裂く残酷な運命が際立ってくる。高原の療養所で、二番目に病状が悪いと言われている節子、つねに仄めかされる死、そして最終章の〈死のかげの谷〉を読んで、それでもまだ節子が生きている、と信じるのは、夏風が言うように、さすがに無理がある。


 口を開こうとすると、そんな僕をさえぎるように、


「でもね」

 うーん、と夏風がほおを指でかく。


「何?」

「私は意外とその考え、嫌いじゃないよ。だって私たちは、……あぁ、敢えて、たち、って付けるね。私たちはこういう物語を読む時、たぶん心のどこかで、その登場人物の死を望んでいる。望んでいなければ、私たちはこういう物語を手に取らないはずなんだから」

「いや、僕は夏風に読めと言われたから読んだだけで、別に望んでいたわけじゃ」

「日比野くんは、たまに『空気が読めない』と言われるでしょ」夏風が、そういう話をしたいんじゃない、とでも言いたげな苦笑いを浮かべる。「じゃあ、まぁ、日比野くんは例外ってことでいいや。でも私や私の〈大切なひと〉はそれを望んでいる。そこにはなんだか罪悪感があるから口には出さないけど、共感して死なないで欲しい、と思うと同時に、死ななかったら納得がいかない気がする。その物語を許せなくなる気がする。もやもやする」

「そうかな……」

 聞きながら、僕はもやもやしたとしても、生きていて欲しい、と思った。口には出さなかった。


「そうだよ。私たちは物語に対して、いつだって自分勝手なんだから。定められた運命なんて壊れてしまえ、って思いながら、壊れたら壊れたでその世界を憎むんだ。吐き気がするね」

 今日の夏風は容赦がない。


「何かあった?」

「たいしたことじゃないよ」夏風は答えてくれなかった。ちいさく息を吐き、手で胸を抑える。「病状が悪化したみたいで」

「えっ」

 と僕は思わず狼狽えたような声を出してしまった。


「あぁ、私のことじゃないよ」夏風が本気か冗談か分からない笑みを浮かべる。「私の〈大切なひと〉が」

「その……〈大切なひと〉って」

「うん?」

「あっ、いやなんでもない」

 僕はずっと疑い続けている。だけど聞けずにいるのは、夏風と自分はそれを聞くのが許される関係なのか、という点で自信が持てなかったからだ。いやそれだけではない。怖かったからだ。『実は私のことなの』といきなり言い出すのではないか、とそんな暗い想像がよぎって。


「変なの。私は別に隠したりしないのに」

 僕はその言葉に何も返せなくなって、僕たちにすこし沈黙の時間が流れ。時間にしてみれば、一、二分くらいのことだと思うが、もっと長く感じられた。


「そう言えば、水野が、さ」

「水野泳さん?」

「うん」

「日比野くんと幼馴染の?」

 なんで改めて言うんだろう。


「うん。僕と幼馴染の。彼女が今度、夏風とふたりで話したいらしい」

「なんか嫌な予感しかしないんだけど、なんとなく、だけど」

 夏風にも自覚はあったのか。いや、ないほうがおかしいか。


「僕も嫌な予感しかしない。だから行かないほうがいいと思う」

 と僕は正直に伝える。


「なのに、こんな話をするんだ」夏風が笑う。

「一応、お願いされたから。なので、この場で断ってくれたら。僕のほうも、『お願いしたけど、断られた』って言いやすい」

「なんで断る前提。今度、私、水野さんとふたりで話してみたい」

 夏風の意外な返答に、僕は困惑してしまった。分かった、と僕は頷きながら、もちろん不安はある。水野もいきなり攻撃的な態度は取らないだろうが、喧嘩にはならない、と言い切る自信はない。


「隠しておくのはあれだと思うから、言うけど、たぶん水野はきみのことをあまり良く思っていないよ。だから」

 やめたほうが、と続けるつもりだった言葉は夏風の言葉にさえぎられた。


「知ってるよ、そんなの。だって私のせいで、水野さんは大切な時間が奪われたんだから」

「じゃあ」

 どうして、と続けようとした言葉も、夏風にさえぎられた。


「もし水野さんが私と話したくないなら、それはそのままでもいいかな、って思うけど。本来なら話したくもない私と敢えて話そうとする、ってことは、彼女はそのままでもいいと考えてない、ってことでしょ。だったら私もそのままにしておくことはできない。それは彼女に失礼だよ」


 もしかしたら、と僕は思った。ふたりはお互いに、どこかで仲良くなれる未来を探しているのかもしれない。これは僕の希望的観測でしかないのだが。僕はふたりが嫌いではなくて、だから本質的には上手くいく、と信じているのかもしれない。


「そうか。分かった。今度、ふたりっきりで話せる時間をつくるよ」

「っていうか、本当は同じクラスなんだから、自分たちでつくれよ、って話ではあるんだけどね。今の私たちは、そんな感じではないから。……っと、もうこんな時間だね。この話はまたにして、次に読む本を決めようかな」

 と夏風が無理したように笑って、僕に背を向ける。書架へと向かう足取りは、いつもよりも重そうだ。


 彼女が一冊の本を手に取り、戻ってくる。

 それは僕の読んだことのある小説だった。自ら望んで読んだわけじゃないが、僕はその作品を知っている。


「読んだことあるよ」

「中学の時の教科書に載ってたからね」

 三田誠広の『いちご同盟』だ。文庫はこんな表紙だったのか、と新鮮な驚きもあった。


「別の作品にする?」と僕が聞くと、

「授業のために小説と自分から読みに行く小説はまったく違って見えるものだよ」と夏風が笑う。

「まぁ、それはそうかもしれないけど」

「それに授業で読んだ、っていっても全部じゃないよね。続きとか読んだことないでしょ」

「うん」

「中途半端に知っている、っていうのが、一番もったいないんだよ。ってこれも私の〈大切なひと〉の受け売りなんだけど。この間も、これ読んでたよ」


 彼女の話が事実ならば、その〈大切なひと〉に残された人生はあとわずか、らしい。夏風も以前そんなようなことを言っていたが、それなのに、なんでこういう作品ばかり選ぶのだろう、と確かに思ってしまう。


 僕は『いちご同盟』を借りて、かばんに入れる。正面玄関を出て、別れようとした時、彼女が言った。


「ねぇ、もし良かったらなんだけど、今日、一緒に帰らない?」

「えっ」

 と僕の口から思わず間抜けた声が出てしまった。


「今日は電車で帰るから、駅まで」

「わ、分かった」

 僕の戸惑った声を聞きながら、夏風は楽しそうだった。もしかしたらそれなりに僕たちの距離は近付いてきたのかもしれない。そう思う気持ちと、うぬぼれてはいけない、と自分自身を戒める気持ちが、心の中でせめぎあっていた。


 正門を出て、僕たちは横に並んで歩く。僕は自転車を引きながら。

 途中に通り過ぎた家屋の花壇で、向日葵が花を咲かせていた。時期的にはすこし早い気もする。ただ二週間前にプールの門で見た向日葵のリースとは違って、間違いなく本物だと分かる。


「もう真夏って感じだね」

 暑くなってきた気候にうんざりするように、夏風は手をうちわ代わりにした。彼女の汗の粒がこめかみからほおをつたっていく。


「まだ、そこまで真夏ってほどじゃないでしょ」

「夏が嫌いな私にとっては、すでに真夏。みんなが真夏、って呼ぶ日は、私にとっては、真々夏かな」

「初めて聞いたよ、そんな言葉」

「だっていま作ったから」


 風が、木々をちいさく揺らす。ふいにお互いの言葉が、止んだ。


「えっと……」

 先に沈黙を破ったのは、僕だ。間に耐えられなくて。


「日比野くんは、あまり聞いて来ないよね。相手のことを……というか、私のことを。例えば、プールでの一件のこととか〈大切なひと〉のこととか」

「聞いて欲しかった?」

「いや、別に聞いて欲しい、ってわけじゃないんだけど、気にならないのかなぁ、って思って」

「隠し事が増えるのも大変だから」

「前もプールの話の時、そんなこと言ってたよね。でも、それ本心?」

「嘘をついたつもりはないけど。まぁ気になるか気にならないか、で言ったら気になるよ。多少は。……でも」

 特に、〈大切なひと〉に関しては、思わせぶりなところもあって、余計に聞きづらい側面もある。


「でも?」

「別に相手が話したいと思わないことを無理に聞く気はないかな。誰だって言いたいこと言いたくないこと、それなりに抱えてるだろうし。夏風が言いたいなら、聞くけど」

「じゃあ、とりあえず今度にしようかな」

「そうなんだ」

「まぁ今ここで、言っちゃってもいいんだけど、すくなくとも日比野くんは周りには言い触らしたりはしなさそうだから。国崎くんだったら悩むところだけど。でも、せっかくだから」

「せっかく?」

 意味が分からず、僕は聞き返す。


 夏風が一度、足を止める。


「ほら、せっかくこうやって日比野くんとそれなりに接する機会ができたのに。こんな話をして、終わりになったら、あまりにも寂しすぎるからね」

 自分で言いながら、夏風は自分自身の言葉にどこか困惑しているようだった。


 僕は何を返していいか分からず、迷って結局、何も言えなかった。

 僕たちはまた、歩き出す。


「……でもちょっと聞いてみたくもあったんだ」

「聞いてみたかった?」

「日比野くんがその辺りのことをどう思っているのか。変なふうに思われてたらどうしよう、とか不安になる時もあったりする。だからいつか話した時は、日比野くんがどんなふうに考えてたのか、教えてね」

 駅が見えてきた。夏風が僕の前に立ち、上目遣いに僕を見る。


「そう言えば、初めて会った時のこと、覚えてる?」

「一応」

「私たち、割とお互いの第一印象、良くなかったと思うんだ。初めて会ってから、そのあとすこしの間も」

「それは否定できないね」

「でも私、あんまり日比野くんを嫌い、っていう感情はなかったんだ。ただあの時は、見られたくないものを見られた、って感情が後を引いてて。結構、緊張してしゃべってた。だからいま三年になって、こうやって気軽に話すことができて、本当に嬉しい」


 確かに以前の、二年生の頃の夏風には、もっと刺々しい印象があった。気が付けば、それは消えていたが。夏風のほうにそんな気持ちがあったとは思わなかった。


「だから」

「だから?」


 また、これからもよろしくお願いします。


 語尾が透明になっていく頼りなげな声で、夏風が手を差し出してきた。その手を握る。互いの緊張感が伝わってくるように、僕たちの手のひらは汗ばんでいた。


 駅の中へと彼女が消えていく。

 僕はひとつ息を吐く。僕たちはこれからどうなっていくのだろう。僕はこれからどうしていけばいいのだろう。ふとそんな考えを浮かべていた自分に驚いてしまった。どこかで彼女とのこれからを考えはじめている自分に。


 その時、背後から突然、声がした。聞いたことのある声だが、それが誰の声なのか、すぐには判断できなかった。


「久し振り」

 振り返ると、かつての同級生がいた。最後に会ったのが中学の卒業の時だから、会うのは三年振りだ。あの頃と変わらず、爽やかな笑顔を浮かべている。


『俺、人生は十八歳までで良いかな。それ以降はなんだか、惰性にしかならないような気がするんだ』

 と三年前、彼が語った言葉はいまも僕の耳に強く残っている。


「あぁ、久し振り。五十嵐」

 彼の名前は五十嵐十八。十八と書いて、とうや、と呼ぶめずらしい名前だ。十八歳までで人生を終えたいと語った彼は今年、十八の年を迎えた。彼がそういう名前ではなかったから、彼からそんな言葉は出なかったような気もする。


 西條八十とは反対だよ、という言葉は中学時代の彼の口癖だ。僕は、というか、大抵の中学生は西條八十なんて詩人の名前を知らなくて、僕は彼がきっかけで覚えた。


 もちろん死んだなんて思ってはいなかったし、仮に死んでいたとしたら、誰かの口を通して、僕の耳に入ってきたはずだ。なのに、彼と会えたことに、どこかほっとしている自分もいる。


 あぁ良かった。生きていたんだ。


「生きてたんだ」と彼に伝えてみる。もちろん失礼な言葉ではあるのだが、彼なら許してくれるだろうと思ったのだ。


「勝手に殺すなよ。生きてるよ。いまのところは」

 と彼が笑う。

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