#4 分からない感情

 朝の到来と共にスマートフォンがけたたましい音を鳴らす。

 瞼の上から手の甲で目を擦り、じわじわと覚醒して行く脳が起きる時間だと理解するまでにアラームを止めては鳴り響きの二回の攻防を繰り広げた。

 もう朝か……とようやく覚醒した所で両手両足をぐっと伸ばして欠伸を噛み殺す。次のアラームが鳴る前に枕元のスマートフォンを拾い上げて設定を解除すると通知とSNSの確認から始める。

 通知はSNSからのものが幾つか。大体はいいねの通知だったがひとつだけ異なる物が有った。

「……あ」

 例の夏鈴さんからフォローバックの感謝を述べた投稿が届いている。文面を見る限り、やはり昨日会ったあの夏鈴さんで間違いは無さそうだ。

 何故だかそれがとても嬉しくて、むず痒くて、何とも言えない感覚を起こさせる。

「えーっと……こういう時はどうしたら……」

 返事に悩みながらも『昨日はお手紙ありがとうございました。これからよろしくお願いします』という無難な形に何とか収めて返事を送った。

 SNSの夜中の投稿は少なく、すぐに現在時刻の投稿まで一通り見終えると、スマートフォンをケーブルから外してよいしょっという掛け声と共に上体を起こしてベッドから降りる。

 また欠伸をひとつ零すと、よろよろとした足取りで寝室から出てリビングに向かい、カーテンを開けてからキッチンへと足を運ぶ。コーヒーは好まない為はちみつ紅茶のティーバッグを棚からひとつ取り出してマグカップに開封したそれを入れて糸を外に垂らす。電気ポットからお湯を注ぎ、それをリビングのローテーブルへと置くとまた再びキッチンへと戻り食パンをトースターへと投入して二分に設定して冷蔵庫からマーガリンを用意した。

 その間に洗顔を、と洗面台の有る脱衣所まで歩きヘアバンドで前髪を完全に上げて蛇口を捻って手を濡らし、洗顔フォームを泡立てて顔に塗布していく。一通り塗り終えると冷たい水を両手で掬い一気にパシャリと顔に浴びせた。この瞬間は本当に目が冴える。

 泡を流し終え、歯ブラシを手に取ると歯磨き粉のチューブからひと絞り分ブラシの上に出してキャップを閉め戻す。歯ブラシを咥えて歯の表面、裏側、上部を隈なく磨き、プラスチックのカップに水を溜めて口を漱ぎ、ブラシも綺麗に洗い流す。これで良し、と蛇口を捻って水を止め全てを元の場所に戻してからキッチンへと向かえば食パンはすっかりきつね色に色付き香ばしい匂いが漂っていた。

 トースターから食パンを取り出して皿に乗せ、用意していたマーガリンと共にリビングのローテーブルへと運ぶとはちみつ紅茶の甘い香りが漂っている。

 いただきます、と両手を合わせて独り言ちまずはマグカップを手に取りはちみつ紅茶をふうふうと息を吹きかけ冷ましながら一口啜る。はちみつの風味と茶葉の香りが口いっぱいに広がって思わず笑みが零れる。もう一口啜ってからマグカップをテーブルに置き、マーガリンの蓋を開けてバターナイフで削り取り、食パンを持ち上げて塗っていく。

 じゅわりと溶けだすマーガリンもまた食欲をそそる匂いを放ち、食パンの表面にマーガリンを粗方塗り終えるとバターナイフを仕舞い蓋を閉める。

 早速トーストにさくりと噛り付き頬張ると空腹だった胃が食べ物を欲して動き出すのが分かった。何度も噛み、ごくりと飲み込むと今日も始まったなぁという感覚がする。大型イベント後で憂鬱はMAXだが働かなければ趣味に没頭する事も出来ない。故にまた働きアリの如く仕事に勤しむのだ。

 仕事は私服勤務のウェブマーケター、至って普通の会社員。土日祝が休みの割とホワイトな職場。勤務先も近く一駅で着く。諸々加味しても割と恵まれている方だと私は思う。

 さくり、さくりと食パンを食べ進め、紅茶を啜る。最後の一口を食べ終えると一気に紅茶を胃に流し込んでパン屑を払う。食器とマーガリンを纏めて持ち起ち上がるとキッチンと冷蔵庫にそれぞれ片付け、着替えるべく寝室に向かう。

 今日の服は無難にロングのデニムスカートと白のトップス。あっという間に着替え終えると最後にメイクが残っている。リビングに戻ってメイクポーチと鏡をテーブルに広げ、手の届く範囲にいつも置いている化粧水と乳液を取り、顔にしっかりとそれらを馴染ませる。

 それからポーチの中身をがばりと開いて化粧下地、ファンデーション、コンシーラー、フェイスパウダーをそれぞれ取り出す。順番に顔に塗り拡げて行き顔色を整えると次は茶髪に馴染む同じ色のアイブロウ、濃すぎないアイシャドウ、ペンシルタイプのアイライナーで目元を縁取り、そしてマスカラで睫毛を整える。最後に淡い色のリップを塗り、ほんのり色付く程度にチークを乗せてミストのスプレーを振りかければ完璧な塗装の完成だ。

 取り出した化粧品を手慣れた物だとパズルを組み立てる様に収納していきファスナーを閉めるとスマートフォンで時間を確認し、ヘアバンドを外して洗面台に髪を整えに行く。ヘアアイロンのコンセントを洗面台に繋ぎ、暖まるまで暫く待つ。その間にブラシで全体を梳かし寝癖直しのミストで跳ねた所を撫でつけて直す。ヘアアイロンが十分に暖まったのを確認して前髪とサイドを真っ直ぐに伸ばせばいつも通りの自分が出来上がる。ヘアアイロンの電源を切りコンセントのプラグを抜くと洗面所から出て電気を消した。

「よし、行くかぁ」

 気乗りはしないが仕事は仕事、今日を乗り越えれば昨日送った戦利品達が届く予定だ。頑張るか―と寝室の仕事用鞄を取りに行き、肩に掛けて家の鍵とスマートフォンを忘れずに持ち玄関まで一直線に向かう。ロックを外して外に出ればすっかり秋に染まる景色が伺える。

 しっかりと鍵を閉めて鞄の中のポケットに入れようとした所でピンク色のハンカチが目に留まる。そっとそれに触れ、嬉しい気持ちがまた沸き上がって来るのを感じながら普段より足取り軽く出勤ルートを辿った。








「おはよ桃音、何か良い事でもあった?」

「え?おはよ……別に何も、無いよ」

「それにしてはいつもより顔が嬉しそうだけど」

 職場に着いて自分のデスクに座るとすぐ横の同期、遠藤はるかがにやにやと声を掛けて来る。そんなに分かりやすかっただろうかと自分の顔を抑え、はるかに向き直る。

「そんなに……顔に出てる?」

「いつも仏頂面だからねぇ、今日は全然違ーう」

「そんな事ないって……」

「それより明日合コンあるけど行く?人数足りないんだよね」

「私が行くと思う?」

「あはは、そりゃそうだ」

 はるかが愉快そうに手を叩く。歳も歳だ、良く誘われはするが合コンなど一度足りと行った試しがないし興味が無い。それならみきつばのオタ友達とオフ会している方が時間と金の有意義な使い方だ。

「はるかは、やっぱり彼氏欲しいの?」

「んー、そりゃこの歳だからねぇ。仕事が恋人って訳にもいかないでしょ」

「それはそうだけど」

「桃音こそ彼氏作んないの?顔若いしモテそうなのに」

「私はいいの。自分の時間無いと死んじゃうから」

「まぁ今時結婚が全てじゃないしねぇ」

 それもそうか、とはるかが納得した様に自分のデスクに向き直る。はぁ、と溜息を吐きながらデスクに突っ伏した後座り直してノートパソコンの電源を入れいつものマーケターとしての仕事を開始する。

 結婚なんて私には最も縁遠い話だ。何より同人オタクは何物にも縛られたくない人が多いのではなかろうか。勿論アラサーで独身は世間的にどうなのか、というのはあるとは思う。それでも人間をどうしても好きと思えないのだ。

「……ねぇはるか、好きって、どんな感情?」

「哲学的な事言うねぇ」

「私には分からない感情なんですー」

「頭だけで考えないで心で感じるものなんじゃないの?」

「心で……」

 うーんと頭を悩ませる。難しすぎる。好きってなんだ、猫ちゃんは好きだがそういった好きでは無いのは良く分かる。いつまでも結論付かない事に頭を悩ませても埒が明かない。仕事だ仕事、とメモをしようと付箋にボールペンを走らせようとしてインクがもう切れそうなのか掠れた字にしかならず仕方なく鞄からボールペンを取り出そうとしてまたハンカチが視界に入る。好きって、なんだろう。

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