第1話 半裸が空から降ってきた
近所にある大きな公園の、外周にポツリと置かれたベンチに腰掛けて。
少年たちがサッカーに興じている楽しそうな声を聞きながら、ただ心を無にしている。
よく見ると、腰掛けているのはただのベンチではなかった。
どうも腹筋をするための器具のようで、ベンチの端に足を引っ掛けるためのバーがついている。周囲には他にも体を捻る器具だとか、伸ばす器具だとかがあるが、残念ながら誰も利用していない。
しかし、いくら他の利用者がいないからといって、何もせずにこの場所を長時間占拠しているわけにもいかない。
貴志はそう考え、正しくこの器具を使ってみることにする。そう、腹筋をするのだ。
正直なところ、貴志はここのところ全然運動をしていなかった。
新卒でIT系の会社へ入ってもうすぐ丸三年ともなると、新規の案件を振られることも増えてきた。
その割に、スキルはそこそこ程度のままで。だから納期に間に合わせるため無理をすることが多く、寝不足が続いているのだ。
そんな中で運動なんてとても無理だ、と自分に言い訳をしながら体を折り畳む。
「ふー、これで20回……っと」
ぼんやりと決めていた目標をなんとか達成すると、貴志は深い息を吐いてばたりと仰向けに寝転がる。
そのままの体勢で目を開けば、嫌でも空が目に入った。
——ああ、お前は今日も憎いほど青いのか。
毎日同じ事の繰り返しで、ただ老いて、そして死んでいく。
社会に出ると、そんな無味無乾燥な自分の未来が容易に想像出来るようになった。
そうなると、なんだか世界が灰色に見えるようになってしまって。
いつ人生を終わらせても別にいいんじゃないか、そう思う日が増えていった。
それでも空だけは相変わらず青くて。だから嫌になった。
軽度の鬱だと診断されたのは二ヶ月ほど前のこと。
仕事に疲れ果て、すれ違いがちになった彼女と別れた頃だった。
まず風呂に入るのが億劫になった。それから新しい事への興味が薄れて、だから積みゲーは増えていく一方で。
心療内科で貰った薬は向精神薬と、あとは胃薬に睡眠薬らしい。
処方される組み合わせとしてはポピュラーなものらしいので、安心して薬を飲んで横になった。
次に起きたのは——昼もとうに過ぎて、夕方に差し掛かろうという時間だった。
恐る恐る覗き込んだスマホの画面には、見たこともない量の着信が残っていた。
メッセージも数時間おきに送られてきていたが、内容は叱責しているものばかりで、その中に貴志を心配しているものはひとつも見当たらない。
貴志は次の日から薬を飲まなくなった。そうするしかなかったのだ。
「あーあ、生きるのって面倒だな。今死んだらこの前読んだラノベみたいに異世界転生したりしねえもんかな」
ついぼやいてしまったのは、一人暮らしをはじめてから独り言が増えてしまったから。
「—————縺薙l豁サ縺ャ繧�ッ!」
そんな空耳が聞こえてきたのは、ついに幻聴が始まったから——ではなかったらしい。
青空が広がっていたはずの貴志の視界に、突然少女が出現したのだ。
それはまさに空から落ちてきた、としか表現できないほど急だった。
驚いた瞬間にはもう強い衝撃を感じていて、それと同時にむにゅ、という暴力的な柔らかさが襲ってくる。
それは今まで味わったことがないほど、至福の柔らかさで。
ただ、鼻と口を豊かに実った〝それ〟で塞がれ、息ができないのは少々問題だった。
「むぐぐ。ぐるじい……」
下敷きのままジタバタと暴れると、貴志に抱きつくような格好をしていた少女が慌てて体を起こす。
「ほえぇ……っ?」
貴志は思わず
なぜなら、自分の体に跨っている少女がとんでもない美人だったから。いや、それだけじゃない。
彼女の着ている服がボロボロで、見せてはいけない部分が見えてしまいそうだったからだ。
「縺斐a繧薙↑縺輔>縺」
少女は、半裸に近い姿で知らない男に跨ってるというのに、何故か逃げようとしない。
それどころか、困ったような表情で何かを呟いている。
貴志は聞き取れなかっただけか、と思って聞き返す。
「なんて言ったんだ?」
「縺薙%縺ッ縺ゥ縺薙〒縺吶°��……?」
何かを尋ねていることは語尾のニュアンスでなんとなく感じ取れたが、それ以外はさっぱり理解できない。
けれど分かることもある。それは、このままじゃまずいってことだ。
どういうわけか彼女は半裸で、今にも泣き出しそうな顔をしている。
つまりこのまま大声で泣かれでもしたら、きっと貴志が悪者にされるだろう。
そんなニュースを聞いたことがあった。
貴志は慌てて自分のカーディガンを脱いで、少女に手渡した。
彼女は意味が分からないとでもいうように、こてんと首を傾げた。
しかし自分が半裸なことに気がついたのか、押し付けられたカーディガンを受け取ると、破れかけた服の上から羽織ってくれた。
それから貴志の目を真っ直ぐに見つめ、柔らかそうな桃色の唇で言葉を紡ぐ。
「隕九◆�? 溯イャ莉サ蜿悶▲縺ヲ繧医�!」
相変わらず何を言っているのかは分からない。
けれど貴志は、その必死な表情に魅入られたように、気づけばこくりと頷いていた。
すると彼女はパッと花が開いたような笑顔で笑う。
そのあまりの可愛らしさに、思わず貴志の心臓は高鳴ってしまった。
貴志は灰色だった毎日が色づき始める、そんな気配を感じていた。
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