ノクターン
K
本章
いつもの朝、目覚まし時計が機械的に鳴り響く。安藤香織は、重い瞼を開け、反射的にアラームを止めた。デジタル時計の数字がぼんやりと滲み、その瞬間に現実感が希薄になる。身体は重く、まるで自分自身が無意味な重力に囚われているようだった。彼女は目を閉じ、夢の残像にしがみつき、もう少しだけその温もりに浸りたいと願う。
昨夜もまた、彼女はノクターンにいた――夢の中でしか到達できない、もう一つの現実。「ノクターン」は、ただの仮想空間ではない。最先端の電気工学と認知科学の融合によって生み出されたこの仮想世界は、脳波を通じて参加者全員が一つの共通の夢を共有する場所であり、香織にとっては生き生きと感じられる唯一の場所だった。
香織が眠りに入る時、彼女は毎晩特定の枕を使う。それは外見は普通の枕だが、内部には高度な技術が詰め込まれており、装着者の脳波を調整し、特定の夢空間に導く機能がある。その夢の中では、彼女は「KAORI」という強大な戦士として生き、戦い、尊敬を集めている。現実の香織が持つ無力感や孤独感は、ノクターンでは影も形もなく、彼女はそこに確かな自己を見出していた。
だが、目が覚めた瞬間、夢の情景は次第に薄れていく。目が覚めてしまえば、香織はただの一人のOLに過ぎない。仕事に追われ、社会の歯車として淡々と日々を過ごす自分――その違いが、彼女の心を静かに蝕んでいく。通勤電車の窓に映る自分の顔は、虚ろでどこか遠くを見つめている。彼女の内側で、現実と夢の境界が次第に曖昧になり始めているのだ。
出勤の途中、香織は満員電車に押し込まれる。壁のように押し寄せる人波に包まれながら、彼女の意識はまた夢の中へと逃れようとする。昨夜のノクターンの戦場、仲間たちとの会話が鮮明に甦る。まるで現実の自分が「偽物」で、ノクターンこそが「本物」の世界であるかのような錯覚に陥るのだ。
その日も、仕事を機械的にこなしていく。上司の指示や同僚とのやりとりは、まるで遠くで響いているノイズのように感じられる。香織はデスクに座りながら、心の中で「今夜も早く夢に入れればいい」と何度も繰り返していた。空虚な日常と社会の鎖から解放され、KAORIとして生きる瞬間こそが、彼女にとっての「本当の自分」であるという確信が次第に強まっていく。
夜、自室に戻り、香織はベッドに倒れ込む。彼女は、いつものようにデバイス付きの枕に頭を預ける。深い息をつき、目を閉じると、次第に意識が夢の世界へと移行していく感覚が広がる。薄暗い部屋の中、静寂の中で、香織の心はもうすでに現実から離れ、ノクターンへと誘われていた。
「KAORI、今日も待っていたよ。」
夢の中で、仲間のクロノが彼女に話しかける。広がる星空、澄み切った空気、風に揺れる木々――それらはすべてがリアルで、網膜を通して感じる普段の景色以上に色鮮やかだ。香織は、KAORIとしての自分がここで生きていることを実感し、再び自分を取り戻す。ここでは、彼女はただの一人の人間ではなく、必要とされる存在だ。だが、彼女はまだ気づいていない。その感覚が次第に現実を侵食し、境界がぼやけていくことに。
ノクターンの世界では、香織はもはや「KAORI」という存在そのものだった。彼女の剣は何度も血と汗にまみれ、その刃は数多くの敵を屠ってきた。風が吹き荒ぶ戦場で、彼女は悠然と立ち、輝く鎧が太陽の光を反射して周囲に眩いばかりの光を放つ。KAORIが現れると、戦場は静まり返り、その存在感に圧倒される。彼女のカリスマ性と戦闘能力は、誰もが認めるところであり、ノクターン中にその名が轟いていた。
香織はその感覚を愛していた。現実では感じることのできない生き生きとした実感、誰もが自分に頼り、必要としてくれること。それは香織として決して得られなかった感情であり、彼女にとって何よりも大切なものだった。KAORIであること、それこそが香織の「真実の姿」であり、彼女のアイデンティティそのものだった。
ノクターンでは、彼女の周りにはいつも仲間がいた。特に「クロノ」との関係は深く、彼は魔導士として香織の右腕となり、どんな戦いでも共に立ち向かってきた。クロノは高潔で知恵に富み、KAORIと並んで戦場を指揮する存在であった。二人の間には深い信頼と絆が築かれており、彼女は彼を戦友として、またかけがえのない相談相手として頼りにしていた。
ある日、KAORIとクロノは、巨大なドラゴンを討伐した後、疲れ果てた身体を岩陰に預け、少しの間だけ休憩を取ることにした。青い空が広がり、澄み切った空気が二人の肌を撫でていた。戦いの激しさの余韻が、まだ二人の心に微かに残っている。
クロノがふと、静かに言った。
「KAORI、君って現実世界ではどんな人なんだろう?ノクターンでの君はいつも強くて頼りになるけど、実際の君も同じようにカッコいいのかな。」
その瞬間、香織は心の奥底でわずかに動揺を覚えた。KAORIとしての自分が、まるで彼女のすべてであるかのように振る舞ってきたが、クロノの問いかけは、彼女が心の奥底で押し込めていた「真実の自分」を静かに揺さぶったのだ。
「現実の自分…?」香織は曖昧に微笑みながらも、胸の中にわだかまる感情に気づいていた。普段の香織は、KAORIのように強くも美しくもない。ただ、どこにでもいるような凡庸なOLに過ぎなかった。彼女は、ノクターンでの自分こそが「本当の自分」であると信じたかったが、クロノの言葉が鋭い刃のように、その信念に一瞬のひび割れを生じさせた。
「私は…私はただ、ここでは強くいられるだけよ。」香織はその言葉を自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その言葉には確信が欠けていた。ノクターンでの時間がますます充実する一方で、現実の自分が遠くに押しやられていく感覚が、次第に彼女を苛むようになっていた。
だが、香織はそんな不安をかき消すかのように、KAORIとしての役割に没頭し続けた。彼女はクロノや他の仲間たちと共に、数々の冒険を繰り広げ、幾多の試練を乗り越えていった。ノクターンの世界では、KAORIは不動の存在であり、誰もが彼女を崇拝し、頼りにしていた。その感覚は、彼女にとって何よりも甘美なものだった。
「これが、私の居場所だ。」香織はそう思わざるを得なかった。仮想世界の中でこそ、彼女は輝き、意味を持ち、必要とされていた。現実の世界では、彼女はただの一人の人間でしかなく、誰も彼女の存在に興味を持たない。それが、彼女には耐え難いものだった。
ノクターンでの日々が過ぎるにつれて、香織はますますKAORIとしての自分に執着するようになった。現実の自分は次第に影を潜め、仮想世界の中でのみ彼女は生きているという感覚が強まっていく。現実の香織は、仮想世界の中でしか自分を見出せないのだと信じるようになり、その結果、彼女の現実感覚は徐々に失われていった。
だが、その一方で、心のどこかで香織は気づいていた。どんなに仮想世界での自分にのめり込んでも、それは現実の自分を補完するものではないということを。仮想世界での栄光が増すほどに、現実の彼女の無力さがますます際立ってくる。そのギャップが広がるたびに、彼女の心の中には焦燥感が募り始めた。
そして、その焦燥感が、徐々に彼女の内面に暗い影を落とし始めるのだった。
香織は、現実世界での自分がどんどん薄れていく感覚を、日増しに強く感じていた。朝目覚めるたびに、夢の中で過ごした時間の鮮烈な記憶が、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。ノクターンでの体験が、日々の感覚に浸透していく。目を開けると、また色褪せた世界に引き戻される――それが、香織にとっては耐え難い苦痛となりつつあった。
仕事に向かう道すがら、香織は何度も霧の中に沈んでいくような感覚に襲われる。目の前に広がる東京の街並みも、まるで夢の中の風景に見えることがある。満員電車に揺られながら、彼女は心の中で何度もノクターンに戻りたいという衝動を押さえ込む。しかし、その抵抗は日に日に弱まり、現実への執着は次第に薄れていった。
会社では、彼女の変化に気付く者はほとんどいなかった。周囲の人々は、香織がどこかうわの空で、会話に集中していないことに気付きながらも、誰もそれを問いただすことはなかった。彼女の視線は虚ろで、まるで別の場所に意識を飛ばしているかのように感じられた。業務のミスが増え、同僚たちとの距離も広がり始めたが、香織自身はそれに対して何の感情も抱かなくなっていた。
「香織さん、最近少し疲れてるみたいだけど、大丈夫ですか?」
昼休み、同僚の玄野美沙が声をかけた。彼女の声は優しく気遣っていたが、その響きが香織には遠くから聞こえるように感じられた。香織はぼんやりと微笑み返したが、その笑みは形だけのものであり、心の中では何も感じていなかった。彼女の意識は、すでに現実から半分離れてしまっているのだ。
「うん、大丈夫…ちょっと寝不足なだけ。」
言葉は表面的で、どこか空虚だった。香織はその場をやり過ごすように返事をしたが、彼女の心はすでに次に訪れる夜、そしてノクターンでの冒険に向いていた。会社での会話や人間関係は、彼女にとってますます無意味なものに思えてきていた。
夜になると、香織は再びデバイスをセットし、眠りに落ちる。ノクターンへと導かれる瞬間、彼女の心は解放され、KAORIとしての自分に戻る。現実では決して味わえない高揚感と充実感が、夢の中で彼女を包み込む。KAORIとして戦い、勝利し、仲間たちから称賛されるその瞬間が、香織にとっての「本当の生」だと感じるようになっていた。
だが、その夜のノクターンでの冒険は、いつもとは少し違っていた。夢の中で彼女は、戦場ではなく、不思議な静寂に包まれた森の中に立っていた。夜露に濡れた草木の匂い、遠くでささやく風の音が、彼女の感覚に染み込んでくる。香織は何か異様な気配を感じ、周囲を見渡した。誰もいない。通常の冒険で感じる刺激とは異なり、この場所はどこか不気味な静けさを帯びていた。
そのとき、彼女の前にクロノが現れた。だが、彼の表情はいつもと違い、どこか深刻な影を落としていた。
「KAORI…最近、君がここにのめり込み過ぎているように思うんだ。まるでワーカホリックのようにここでの生活を中心に生きているように感じる。リアルの自分を蔑ろにしているようで、みていて少し不安になるよ。」
クロノの言葉に、香織は動揺した。彼の声には、いつもの穏やかさに加え、どこか警告めいた響きが含まれていた。
「何を言ってるの?ここでしか、私は本当の自分を感じられない。現実なんて、もう私にとっては意味がないものよ。」
香織の言葉は強がりのように響いたが、その裏側には彼女自身が抱える不安が隠れていた。彼女は現実からの逃避を正当化しようとするたびに、心の中でわずかに痛みを感じていた。クロノは静かに彼女を見つめ、続けた。
「KAORI、この夢が現実に影響を及ぼしていることに気付いていないのか?君は次第に、どちらが夢でどちらが現実かを見失いつつある。夢は現実からの逃避として存在するものじゃない。それは、自分を見つけるための一時的な安らぎであって、永遠の住処ではないんだ。」
クロノの言葉に、香織は目を伏せた。彼の言っていることは理解できる。だが、それでも彼女は現実に戻る勇気を持つことができなかった。夢の中での彼女は、確かに生きている。現実では感じられない手応えが、ここにはある。しかし、それがただの幻想に過ぎないとしたら――その考えが彼女を一瞬の不安に駆り立てた。
だが、香織はその不安をかき消すように、強く言い返した。「ここでしか生きられない。幻想でも、私にとってこれが現実だ。」
クロノはそれ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。彼もまた、自らの葛藤を抱えているのだろう。彼らは共に、この夢の世界で生きているが、その先にある現実とどう向き合うべきか、答えを見つけられずにいた。
夢の中での時間が終わりに近づくと、再び現実が香織を引き戻そうとする力が働き始める。彼女は目を閉じ、現実に戻ることに抵抗するが、無情にも目覚まし時計の音が彼女を現実に引き戻す。朝が再びやってくる。灰色の空、無機質な街並みが彼女の目の前に広がる。
香織は、現実に戻るたびにますます空虚を感じるようになった。現実の生活は、もはや彼女にとって無意味なものになりつつあり、彼女は次第に夢の中に溶け込んでいきたいという思いに駆られていく。夢の中では生き生きとしているが、その一方で現実の自分は消耗していく。
香織は、自分自身がどこに向かっているのかを見失いかけていた。現実と夢の境界はますます曖昧になり、彼女の心は次第に裂け目を広げていく。ノクターンの中で感じる充実感が強くなるほど、現実の香織は薄れていき、まるで影のように存在感を失っていった。
香織は、ノクターンとの境界が崩れ始めていることを日々痛感していた。夢の中のノクターンで過ごす時間が増えるにつれ、現実世界での時間感覚が歪み、日常のリズムが乱れ始めた。日常に戻るたびに、香織の体は重く、意識はまるで霧の中に迷い込んだようにぼんやりとしている。目を開けても、すぐに閉じてしまいたくなる衝動に駆られ、現実のすべてが彼女を遠ざけるように感じられる。
ある日、会社での重要な会議中、香織は突然強烈な眠気に襲われた。頭の中にノクターンでの光景がちらつき、彼女は無意識のうちに目を閉じてしまった。ほんの数秒のことだったが、彼女は確かにノクターンに戻っていた。剣を手にし、仲間たちと戦場を駆ける感覚が蘇る。しかし、次の瞬間、冷たい声が彼女を引き戻す。
「安藤さん、どうかしましたか?」
上司の冷たい視線が彼女に向けられていた。周囲の同僚たちも、彼女を不安げに見つめている。香織は焦りながら言い訳を口にしたが、その声はどこか遠くから響くように感じられた。現実感が急速に失われ、彼女は自分がどこにいるのかさえ一瞬わからなくなった。
「すみません…少し体調が悪くて…」
その言葉は何とか絞り出したものの、内心では震えていた。会議が終わった後も、香織の頭の中はぼんやりとし続け、ノクターンへの渇望がますます強まるのを感じた。彼女は自分のデスクに戻ると、早く夜が来て再び夢の中に入れることだけを考えていた。
そしてその夜、香織はいつもよりも早くベッドに潜り込み、夢の中へ逃げ込んだ。ノクターンでは、彼女は再びKAORIとしての輝きを取り戻し、戦場で活躍していた。仲間たちと共に次々と敵を打ち倒し、彼女の名は再び轟く。現実の自分が抱える不安や無力感は、この夢の中では全く存在しない。香織はこの世界に永遠に留まりたいと心から願った。
だが、その夜の夢はいつもとは違った。戦場での勝利に浸る間もなく、突然、風景が歪み始めたのだ。鮮やかだった空が灰色に染まり、草原は干からびた荒野に変わる。仲間たちの姿も次第に消えていき、香織は一人取り残された。周囲を見渡しても、もはや誰もいない。音も色も消え去り、ただ空虚な空間が彼女を取り囲む。
「これは…夢なのか、それとも…?」
香織は混乱し、何が起きているのか理解できなかった。彼女の中で、境界が完全に崩壊しつつある。次の瞬間、彼女の目の前に現れたのはクロノだった。しかし、彼の表情はどこか暗く、冷たいものだった。
「KAORI、君はここに永遠に留まるつもりなのか?」
クロノの声は、いつもの優しさとは異なり、どこか警告めいた鋭さがあった。香織は彼の問いに言葉を詰まらせた。彼女の心の中では、夢に留まり続けたいという強い欲望と、香織に戻らなければならないという理性が激しく衝突していた。
「私は…ここでしか生きられない…現実なんて、もう私には何の価値もない。」
香織は震える声でそう言ったが、その言葉には確信が欠けていた。彼女の内心では、現実を完全に捨て去ることに対する恐怖が渦巻いていた。もしこのまま夢に閉じこもり続けたら、彼女は本当に自分を見失ってしまうのではないかという不安が、心の奥底にしっかりと根付いていた。
「KAORI、このままでは君は本当に自分を失うことになる。夢は現実の避難所であって、現実を完全に否定するものではない。君がここでどれほど輝いていても、現実を捨てることはできないんだ。現実の君がいなければ、ここでの君も存在しないよ。」
その言葉が香織の胸に深く突き刺さった。彼女はクロノの言葉の意味を理解しながらも、それを受け入れることができなかった。現実では、彼女はただ無力で空虚な存在でしかない。KAORIとして生きるこの夢の世界こそが、彼女の「本当の居場所」だと信じたかった。
その瞬間、香織は自分の意識が急速に現実へと引き戻される感覚を味わった。目覚まし時計の音が遠くで鳴り響き、彼女は無理やり目を覚まされた。部屋に戻り、灰色の朝日が差し込んでいる。彼女はベッドの中で震えながら、現実がどれほど冷たく、無情なものであるかを再び思い知らされた。
香織はその日、会社を休むことにした。彼女は一日中、布団の中で過ごし、ただノクターンに戻りたいという欲望だけを抱えていた。現実での生活は、もはや彼女にとって耐え難い苦痛でしかなくなっていた。
そして、夜が訪れる。香織は再び特製の枕に頭を預け、夢の世界へと逃げ込む準備をした。その枕は見た目には普通のものと変わらないが、内部には脳波を調整する高度な装置が組み込まれており、香織をノクターンへと導くために特別に設計されている。彼女は枕の微かな振動と、耳元で聞こえる低いハミング音を感じながら、深い息をついた。目を閉じれば、次第に意識が薄れ、ノクターンへと引き込まれていく――はずだった。
だが、その時、ふと目が開いた。彼女は一瞬、手を枕から離し、考え込んだ。このままでは、本当に戻れなくなるのではないか、と。夢の中に逃げ続けることで、現実の自分が完全に消えてしまうのではないか――その恐怖が彼女の心を揺さぶった。
香織はしばらく動けずにいた。ノクターンに戻りたいという欲望と、現実を捨てることへの恐怖が彼女の中でせめぎ合う。彼女は目を閉じ、涙が頬を伝った。
「私は…どこにいるべきなの…?」
その問いに答えは香織にもKAORIにも出せなかった。
香織は、自室の薄暗い光の中で、デバイスを眺めていた。ノクターンに戻りたい――その欲望は彼女の胸を強く締め付ける。しかし、もう一方で、現実を完全に捨て去ることへの恐怖が彼女を躊躇させていた。彼女はまるで深い海の底に沈むような孤独感に包まれながら、次に取るべき一歩を決めかねていた。
目の前にある選択肢は二つ。夢の中に逃げ込んで、KAORIとしての自己を保ち続けるか、それとも、冷たい現実に立ち戻り、ただの無力な香織として生き続けるか。どちらの選択肢も彼女にとっては耐え難いものだった。夢の中では確かに輝けるが、それは偽りの安息であり、現実の香織を徐々に消耗させていく。一方、現実ではただ空虚な日常が待っているだけで、何の希望も見出せない。
彼女は深く息を吸い、心の中で問いかけた。
「私は、本当はどちらを生きたいの?」
夢の中の自分――KAORIは強く、美しく、誰もが尊敬する存在だ。しかし、それは仮初の姿に過ぎず、現実の香織を支えるには脆弱だ。彼女は一瞬、クロノの言葉を思い出した。「現実の君がいなければ、ここでの君も存在しない」。その言葉は、彼女の心に重く響いた。
香織はついに決断を下した。デバイスを握りしめた手を緩め、静かにそれをベッドサイドに置いた。彼女は、香織として世界と向き合う決意を固めた。夢は甘美だが、そこに逃げることはただの逃避でしかない。現実にこそ、自分を取り戻す道があると信じたのだ。どれほど無味乾燥で、冷たくても、そこにしか本当の自分を見つける道はないのだと、彼女は自らに言い聞かせた。
しかし、その決断は彼女にとって簡単なものではなかった。決断瞬間現れたのは自分自身を殺すかのような感覚。KAORIとしての自分を捨てることは、彼女が築き上げてきたすべてを手放すことを意味していた。だが、それでも彼女は、仮想の栄光に溺れ続けることが真の生き方ではないと信じた。
翌日、香織は重い足を引きずるようにして会社へ向かった。彼女には、かつて感じていた孤独や無力感が再び押し寄せてきた。だが、それでも彼女は逃げなかった。日常の雑踏の中で、彼女は少しずつ自分を取り戻そうとしていた。満員電車の中、無数の無表情な顔の間に立ちながらも、香織はしっかりと地面に足をつけている自分を感じた。
会社での一日が過ぎる。業務をこなし、同僚たちと表面的な会話を交わしながらも、香織は今まで感じていた虚しさを少しずつ異なる視点で見つめ直していた。現実には確かに退屈で苦しい瞬間がある。しかし、その中にこそ、自分が本当に生きている証があるのではないかと、彼女は微かに感じ始めていた。
気がつくと3ヶ月が経過していた。
香織はベッドに横たわりながら、何度かノクターンの世界を覗きにいくかどうかを迷った。デバイスはすぐ隣にあり、手を伸ばせばまた夢の中に入ることができる。しかし、弱い私はまた飲み込まれてしまうかもしれない。彼女はそっとそのデバイスに手を伸ばすことをやめた。KAORIに逃げることなく、香織に向き合おうという決意が、彼女の中で強まっていた。
その時、彼女のスマートフォンが振動し、メッセージが届いた。クロノからだった。
「元気に頑張っているみたいだな。いつかまた話をしよう。」
その短いメッセージを見た瞬間、香織の胸に温かいものが広がった。
スマートフォンを握りしめたまま、深く呼吸をした。彼女は再びどこかでノクターンに戻ることはあっても、もうそれに溺れることはないだろう。夢も現実も、彼女にとっては共に生きるための世界であり、どちらか一方に偏る必要はない。香織は、現実の冷たさの中にも確かな「生」の手応えを感じながら、新たな一歩を踏み出す準備を整えていた。
その夜、香織はデバイスに頼ることなく、深い眠りに落ちた。夢の中にノクターンが現れることはなく、ただ静かで穏やかな夢が彼女を包み込んだ。彼女は微かに微笑み、心の中で決意を固めた。
「私は、ここで生きていくんだ。」
香織とKAORI、二つの世界を分つ朧げな境界線がいつもよりもはっきりとした瞬間であった。
朝の光がカーテン越しに優しく差し込み、香織は静かに目を開けた。東京のいつもの朝、灰色の空と無機質なビル群、街の雑踏が彼女の周りを渦巻いている。だが、今日の香織には、以前とは違う静かな強さが宿っていた。
彼女はベッドから起き上がり、自然な動作でコーヒーメーカーのスイッチを入れる。香ばしい香りが広がり、トーストが焼ける音が耳に心地よく響く。日常の一つ一つが、今の香織にとって新たな意味を持ち始めていた。それは、無意味で単調なものではなく、自分自身を支える確かな「現実」として受け入れられるようになったからだ。
通勤電車の中で、香織は周りの人々の表情をそっと見渡した。以前なら、無関心で無機質に感じていたその顔ぶれも、今ではどこか共感を覚える。彼女もまた、同じ日常を生きる一人であり、彼らと同じように五感を通じて世界を感じながら歩んでいる。自分らしく生きるためには、この現実に立脚した「自分」を大切にすることが不可欠だと、彼女は気付いていた。
この中で感じる小さな手応えや、五感を通じて得られる感覚こそが、香織にとっての「本物の自分」を形作る礎だ。それがどれほど不完全で、脆弱に思えるものであっても、それもまた香織の一部であり、何者でもないように感じる自分すら、彼女自身が選び取った存在だ。
夜、香織は久しぶりにノクターンへのデバイスに身を委ねた。仮想の世界で得た充実感も、確かに彼女の一部だ。いろんな自分の共にバランスを取りながら生きていく道を選ぶこと――それが香織にとっての新たな「生き方」だった。
ノクターンにログインすると、いつものように仲間たちが彼女を迎えてくれた。クロノの笑顔がそこにあったが、香織はその笑顔をただ夢の中の幻想としてではなく、現実と夢の両方に根ざした自分を受け入れたうえで見ることができるようになった。
「久しぶり。」
クロノの言葉に、香織は優しく微笑み返す。この世界も、現実も、すべてが彼女にとって大切な居場所だ。現実の中で感じる小さな温もりや痛み、そこに根ざした自分を大切にしながら、夢の世界で得た豊かさも取り入れていく。それが、彼女にとって「自分らしく生きる」という意味だった。
現実では無力に思える瞬間もある。それでも、香織は知っている。何者でもない自分であっても、それを受け入れ、そのままの自分を生きる力が彼女にはあるということを。それが、彼女が自ら選び取った「自分らしい生き方」だ。
現実と夢、どちらにも揺れながら、彼女はこれからも多面的な自分を生き続ける。その中で、五感に根ざした確かな「生」を感じ取りながら、香織は自分としての道を歩んでいく。
(何者でもない自分――そんな自分を生きれるのも、どう生きていくかを決められるのもまた、私だけ。)
最近通勤電車の窓に映る自分の顔は前よりも少しカッコよくて好きになった気がしている。
ノクターン K @myalgo0920room
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