スカイグレーの晴れない日

天然王水

スカイグレーの晴れない日

「ぼくが、あのひとを、ころしたとき……どう、おもった……?」

 快晴の空がカーテンによって遮られた、少し薄暗く、女性らしい内装の部屋の中。

 開口一番、微笑んだ先輩は俺に尋ねた。

 向かい合って俺を見る眼には物質としての義務的な光しか見られず、人としての気配は一切感じられない。

 まるで、人形の瞳を見ている様だった。

「しつぼう、した……?」

 口調も、以前とは違っていた。

 以前は年齢相応の、少女然とした物だったのに。

 ぼく、なんて一人称は使わなかったのに。

 彼女の着ている薄桃色の柔らかそうなパジャマや、丸々とした可愛らしい曲線を描くボブカットも手伝い、今では幼子も斯くやと云う様相を呈していた。

 泣き出す寸前の様な強弱入り混じる震えを帯びながら、しかし鉄の棒の様な一本調子で。

 機械的でありながら、その機械では絶対に真似のできない思いが籠められている様な。

 七年越しに再会した彼女は、随分と変わってしまった。

「驚きは、しました」

 眼前の机に置かれたティーカップの紅茶を一口啜ってから、俺は口を開いた。

「そんな事をする様な人には、思えなかったので」

「そっか……」

 先輩が俺の言葉に、何故だか安堵した様に、にこりと笑みを深めた。

 そうして、自分の前に置かれたティーカップを見詰める。

 その中には、無色透明の液体が並々と注がれていた。

「何ですか、それ」

「すぽーつ、どりんく」

 スポーツドリンク。

 成程、確かにそう云われて見てみれば、ほんの僅かに白濁している様にも見える。

「カップで飲むんですか」

「うん……けんこうな、きぶんになれる、から……」

「…………」

 聞く所によると、スポーツドリンクは点滴と成分が殆ど同じなのだそうだ。

 そして点滴は、それを受けた後、理由も無く健康になった様に錯覚する事があるのだとも。

『きぶんになれる』と云う事は、そんな事をしても自分には何の効果も無いと、解っているだろうに。

 口に出しても先輩には響かないだろうから、俺は口を閉じ、黙殺した。

「そんな、ことより……」

 ティーカップから視線を移し、先輩が俺を見る。

「ぼくのはなしが、ききたい、んでしょ……?」

「……はい」

 七年前、先輩は、自分と恋仲だった女性を殺した。

 何故、そんな事が起きてしまったのか。

 何故、そんな事をしてしまったのか。

 先輩自身の口から、その答えを聞きたかった。

 そうして先輩は、少しの間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。



 ◇



『わたし』が、いじめられてたの、しってるよね。

 ようぐ、かくされたり……しゃどうにつきとばされ、たり……。

 かいだんから、つきおとされ、たり……かばんを、そっこうにおとされたりも、したっけ。

 せんせいに、はなしても……しらんぷり、だったし……おとうさんや、おかあさんに、いっても……おまえのこころが、よわいせいだ、って、とりあって、くれなかった……。

 しんじゃいたいなって、おもったりもした、けど。

 とらゆりさんが、いたから。

『わたし』は、いきてた。

 しなずに、すんだんだ。

 よししば、とらゆり、さん、だよ……せいと、かいの……おぼえてる、でしょ……?

 それで、ね……とらゆりさんは、まるで……じぶんの、ことみたいに……かなしんで、くれたの。

 いつも、『わたし』のそばに、いて……まもって、くれたんだ。

 あのひとの、おかげで……『わたし』は、いきられたし……だんだん、いじめもなくなって、いったんだ……。

『わたし』は……そんなやさしい、あのひとが……いつのまにか、すきに……なってた……。

 おたがいの、いえに、いったり……。

 おまつりとか、ゆうえんちとか、に……いったり、して。

 おねえちゃんと、いもうと……みたいに……いつもいっしょに、いる、うちに……いつのまにか、ごねんも、たってた。

 その、ごねんめの……さんがつ、ここのかに……。

 あのひとの、たんじょうび、に……『わたし』は、あの、ひとに………こくはく……した。

 えへへ……きんちょう、した、けど……がんばったんだ、よ……?

 そしたら……そしたら、ね……あのひとは、にっこり、わらって……わたしも、だいすきって……いって、くれたの……。

 うれしくて……ふわ、ふわで……えへへ……しあわせ、だったよ……。

 それに、あの、ひとは……だれにもいえない、ひみつを……おしえて、くれたんだ……。



 ◇



「…………秘密って、何なんですか」

 微笑み、安穏とした顔付きで話していた彼女が急に俯き、黙り込んだ為、俺は続きを促した。

「…………」

 しかし、彼女は一向に口を開く気配が無かった。

 何か、云いたくない事なのだろうか。

『辛いのなら、云わなくても構わないですよ』

 そう云おうと口を開きかけた時───

「わたしだよ……って」

「え……?」

「あなたのいじめ……わたしが、やったんだよって……おしえて、くれた……!」

 ゆっくりと持ち上げられた顔は、熱に浮かされた様に、恍惚としていた。

「ひとめぼれ、だったって……! いじめられて、ひとりになった、ところで、とりいれば……わたしだけのひとに、なってくれると、おもったって……!」

 彼女が、震える手を両頬に添える。

 ……否。身体全体が強く震えていた。

 その姿は、恋にときめく乙女の様で。

 けれど絶対に、その様な生易しい物では有り得なかった。

「こんなわたしを、すきでいられる……? って、あのひとは、『わたし』にきいたの」

 声の震えも、徐々に収まってきていた。

「びっくり、したよ。あたまのなかがぐらぐらして……そのときすわってたゆかが、くずれちゃったみたいだった。でも、ね……?」

 両頬に添えられていた手が、それに爪を立てる様にしながら、力無く彼女の太腿に落ちた。

「ぐらぐらしたあたまのなかで、おとうさんと、おかあさんにいわれたことを、おもいだしたの」

『虐められるのは、お前の心が弱いせいだ』

 そう、辿々たどたどしく反芻はんすうした彼女の眼尻に、っすらと涙が浮かび始めた。

「それをおもいだしたときに、ね。むねのなかでなにかが、ぷつんって、きれたの」

 恍惚の表情に交じるそれは、歓喜の表れの様でもあり。

 底知れぬ、深い悲しみの表れにも思えた。

「そしたらね、むねのおくから、しあわせと、うれしいがあふれてきたの」

 徐々に大きくなった涙の粒が眼尻から零れ、彼女の輪郭に沿って滑っていく。

「いられるって……すきでいられるよって、いって……」

 顎の先まで到達した涙が、もう一度ゆっくりと粒となって、重力に耐え切れずに落ちた。

 それは彼女の右手の甲で弾け、不規則な痕跡を作る。

「でも、まだこわかったの……」

 彼女の瞼が、見開かれていく。

「じかんがたって……わたしのすきと、あのひとのすきが……かわっちゃうのが、こわかった」

 彼女は、怖かったのだろう。

 永遠である筈の互いの愛が、永遠でなくなってしまう事が。

 だから……

「だから、ころしたの」

 それは確かに、当然の恐怖だろう。

 誰しも、愛する相手には永遠に愛されていたいし、愛していたいだろう。

「そうすれば、ずうっといっしょで、ずうっとしあわせでしょ?」

 そして、その恐怖によって、吉柴虎百合よししば とらゆりと云う少女は息を引き取った……。

 彼女の瞼が、細められる。

 恐怖が、幸福に塗り潰されていく。

「『わたし』があのひとをころしたとき、あのひとはわらってた……なら、あのひとも『わたし』といっしょで、しあわせだったよね?」

 小首を傾げ、俺に尋ねる先輩は……底無しに純粋だった。

「それで、『わたし』は『ぼく』になったんだっ」

 先輩が、ゆっくりと両手を広げる。

 伸び伸びとした印象を受ける姿勢だが、それはとても普通とは云い難かった。

「……吉柴先輩の死体は、どこにあるんですか」

「ん〜? んふふ〜……」

 にんまりとした、自慢げな笑顔。

 後に続いた言葉は、やはり普通ではなかった。

「たべちゃったっ」

「…………」

 跳ねる様な口調で飛び出した言葉に、絶句した。

 喰ったのか。

 自分の、恋人を。

「何故、ですか」

「ん……? もったいなかった、から?」

 勿体無いから、人を喰うのか?

「みんな、うしさんもぶたさんも、おさかなさんも、たべるでしょ? それとおなじだよ?」

「…………そう、ですか」

 解る様で、解らなかった。

 人は、七年前の一瞬の出来事で、ここまで歪む事ができるのかと、感心すら覚えた。

「がんばったんだよ? おにくも、ないぞうも、いろいろりょうりして……ほねは、おかしにしたの」

 一つ一つ指を折って数える彼女の姿は、吉柴先輩の事等どうでも良くなっている様だ。

 彼女にとって重要な事である筈なのに、さも道端みちばたの石ころの様な扱いで。

 とても、気持ちが悪かった。

「ね。ね。そんなことより、さ」

 彼女が、ずいと身を乗り出す。

 机に置かれたティーカップの紅茶とスポーツドリンクが、ぐらりと揺れた。

「て、だして。て」

 勢い良く、俺の眼前に右手が突き出された。

 どうしたものかと考えあぐね彼女の顔を見れば、輝く様な笑顔が浮かんでいる。

 云われるがままに右手を出すと、喰らい付く様な速度で彼女の両手が包み込んだ。

 一頻ひとしきり手の大きさや柔らかさ等を確かめる様な事をされた後、彼女は俺の手を自分の右頬に当てた。

「……やっぱり」

 あはは、と笑いながら、彼女は俺の手に頬擦りをする。

「むかし、『わたし』をいじめてたおとこのこ、だよね?」

 胸を冷たい何かで刺し貫かれた気分だった。

 憶えて、いたのか。

 昔、幼かった俺が、彼女を叩いてしまった事を……。

「ね、ね。きみ」

「何、ですか」

「ぼくの、おにいちゃんになって?」

 ……訳が解らなかった。

 俺が、彼女の……兄になる?

「何故、ですか」

「やさしくて、かっこいいから」

「俺は、貴女を……虐めた奴ですよ?」

「いまはやさしいでしょ? なら、それでいいよ?」

 …………。

「…………」

「ね。いい? ぼくのおにいちゃんに、なって? あ、なって……ください?」

 …………。

「…………」

「……だめ?」

 …………。

「……良いよ」

「え……?」

 彼女に向けて、微笑んで見せる。

 緊張している幼子を、安心させる様に。

「君のお兄ちゃんに、なるよ」

「……本当?」

「うん、本当だよ」

「やったぁ! おにいちゃん!」

「こら、暴れちゃいけないよ」

 飛び跳ねて喜ぶ彼女を優しくなだめ、もう一度座らせる。

 俺は懐から、スカイグレーの粉末が入っている小袋を取り出した。

「なにそれ?」

「君に、必要な物だよ」

「ひつようなもの?」

 小袋の封を切り、それを彼女のティーカップの中へと傾けると、サラサラと音を立てて粉末が落ちていく。

 僅かに白濁した様なスポーツドリンクは、粉末と同じスカイグレーに染まった。

「これを飲んで」

「これを、のめばいいの?」

「うん。ゆっくりね」

「わかった」

 両手でカップを包み、彼女が喉を鳴らして内容物を飲み干した。

 その直後、彼女の瞳が少しずつ蕩けた物に変わった。

「なんか……なんだか、ねむたい……」

「眠たい? なら、ベッドで眠ろうね」

「うん……」

 遅々とした動作でベッドに寝転ぶ彼女の腹部を、とん、とんと、リズムを付けて優しく叩く。

 段々と瞼が閉じていく彼女に向けて、もう一度微笑む。

「おにいちゃん……」

「何?」

「えへへ……だいすき……」

「…………」

 そう云って、彼女は眠りに就いた。

 立ち上がり、カーテンを開けて外を見遣る。

 来た当初は快晴だったというのに、今ではあの粉末と同じスカイグレーの曇天に変わっていた。

「ケーキの準備を、しないとな……」

 そう呟いて、俺は彼女の眠る部屋を後にした。

 九月七日。白露はくろの日。

 今日は、彼女の誕生日だ。

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