あの空が枯れたら

スギモトトオル

本文

「行ってきまーす」

「傘持った? 今日は花粉が多いらしいわよ」

 玄関を開けると、確かに空からふてふて・・・・と柔らかな花粉が降ってきていた。

「ほら、これ。帰りに忘れてこないでよ」

と母さんが差し出した傘を受け取る。

「今朝は雲が薄いから、”空”がよく見えるかしらね」

「分かったから。ほら、行ってきます」

 まだ何か喋ろうとしていた母さんを振り切って、僕は通学路を歩き出した。いつも話が長いんだ。

 今日は、この町に引っ越してきて初めての登校日だ。昨日母さんと転入手続きに行ったときにピンを打っておいたから、マップを見ながら歩いていけばまず迷うことは無い。

 歩きながら、顔を上げて雲を見上げた。母さんが言っていた通り、ベールの様に薄く頭上を覆う雲の向こうに”空”の黄色くて丸い花の影が見えた。

 菊の花だ。この時期は昔から菊を飾って長寿や健康を祝うのだと、母さんがなぜか嬉しそうに言っていたのを思い出す。

 黄色くて細長いたくさんの花弁ががくの上に円形に並んでいる。下から見上げているから丸くなっているのは見えないし、向こう側の花弁は何十キロも遥か遠くだ。

 空は一週間前に引っ越してきたときよりも大きくはっきりと開いていて、夏が終わって秋が来るのだと、僕はそれを見て思った。


 雲の向こうには青くて広い空間がどこまでも続いているらしい。古い大人たちはその場所のことを”空”って呼んでいる。僕らはそれを知らない。

 雲はずっと晴れない。

 ずっと、っていうのは僕が生まれるよりも全然前からで、母さんや父さんも本当の空なんて見たこと無いって言っていた。だから、”空”っていえば雲の向こうに見えるあの巨大な花の影のことを指すのが普通だ。


 歩道橋の上でふと足が止まった。片側二車線の道路を跨ぐその鉄橋の上からは、町の景色がよく見えた。

 あちこちで、屋根の上から花粉を落としたり、道に溜まった花粉を脇に掃き寄せている。道路脇に積み上げられた花粉を回収していくのは、清掃業者のバキュームカーだ。どこにでもある、”空”の下の町の光景だ。

 スマホを見れば、時間にはかなり余裕がある。初登校のときは絶対に間に合う時間に家を出るようにしているけれど、ちょっとそれにしても早すぎたかもしれない。学校に早く着きすぎても時間を持て余すのは目に見えている。どうしようか。

 ふと、町の外れに見える小さな丘に目が向いた。歩道橋の下をまっすぐのびる道路の向こうには天まで伸びる空の茎が植わっているのだけど、そのずっと手前に、町の中に緑色の茶碗をひっくり返して置いたみたいな、こんもりとした丘があるのだ。

 マップを見る。小学校とだいたい同じ方角だ。僕は寄り道の目的地を決めた。

 しばらく歩いてその丘のふもとまで来ると、細い登り道があるのを見つけた。道といっても土がむき出しのごつごつとした土の道で、最初ちょっとためらったけど、意を決して僕はそこを登っていった。

 道は進んでいくともっと細く、荒くなり、気が付けば草むらをかき分けるようにしてけもの道を進んでいる。もうそろそろ、いい加減に引き返そうかと思っていると、前方に開けた場所が見えてきた。

 驚いたことに、その空き地には先客がいた。

 その女の子は高学年だか中学生だか、とにかく見るからに年上としうえで、肩位の髪は綺麗に色が抜けて、今朝の雲に少し似た灰色をしていた。

 女の子は僕に気が付くと、ふわっと微笑んだ。こんな場所に知らない人間がやって来たというのにその子が少しも驚いたりしていないことに、僕はびっくりしていた。

 女の子は髪の色によく似たスカイグレーのワンピースを着ていた。僕はゆっくり近づきながら声を掛けた。

「何を……やってるの?」

「星を見ているの」

 そう言って、クスっと笑う。

「見えないよ星なんて。まして、こんな昼間になんか」

「あら、星が夜見えるものだなんて、よく知ってるわね」

 僕はその女の子の目をじっと見てしまっていた。不思議な藍色に輝く瞳だった。

「君、この辺の子? 私、アイナ」

「いや……僕は、その、引っ越してきたばっかりで……」

 しどろもどろに言葉を口にしていると、彼女が催促するように下唇を突き出した。僕はそこでようやく気づき、

「僕はタクミ。須賀すがたくみっていうんだ」

 そう名乗った。

 それを聞いたアイナはにっこり笑うと、「よろしく、タクミ」と小さく顔の横で手を振った。

 僕はようやく安心したように落ち着きを得て、顔の筋肉がやわらぐのを感じた。笑顔を浮かべてアイナの方へ歩いて近づいていった。

「アイナ……ちゃんは、えと、近くに住んでるの?」

 精一杯の僕の話題に、アイナはいたずらっぽく笑みを浮かべて、

「たいへん、どうしよう。年下とししたの男の子にいきなり住所を訊かれちゃった」

「ち、ちがうって、変な意味じゃないよ」

 慌てて否定する。

「ただ、その、もしかしたら一緒の学校だったり、って思って……」

 なんだか言い訳じみた言葉になる。

「ふふっ、冗談だよ。そっか、君、学校に行く途中だったんだね」

 クスクス笑いながらも、いまさら僕のランドセルに気が付いたようにアイナはそう言った。そして、視線を町の方に向けて、すっと目を細めると、

「だとしたら、そろそろ行った方がいいよ。まだ今からなら始業のチャイムに間に合う」

 僕はアイナの視線を追って、驚いた。てっきりすぐ近くに時計があるのかと思ったら、彼女の視線の先にある一番近い時計は、ずっと離れた、親指の爪くらいの大きさに見える公園の時計だったんだ。

「君、あれが見えるの?」

「いいから、ホラ、急いで」

 びっくりしたままの僕に何も言わせないまま、アイナは僕のランドセルを押して空き地の入り口まで押し返し、自分はまた奥へと戻って行った。僕は質問にひとつも答えてもらえてないことに気が付いて、未練がましく振り向いた。

「アイナ、ちゃん……あの……!」

「ねえ、友達になりましょう」

 僕の声を遮って、アイナは澄んだ声でそう言った。

「同じ時間に私はいるから。君がまた早起き出来たら、ここでお話ししましょう」

 僕は、”いつもこの時間に起きるから、早起きなんかしなくても会えるよ”という言葉を一度飲み込んで、

「うん」

とだけ言って大きく頷いた。アイナはシュクッと笑って顔の横で小さく手を振った。僕も手を振り返して、もと来た道を、草をかき分けながら戻って行った。彼女のスカイグレーのワンピースはすぐに樹々に隠れて見えなくなった。


* * * *


「じゃあ、タクミはあっちこっち転校してるんだ?」

 アイナはワンピースが汚れるのも気にせず、苔むした倒木の丸太に腰かけて足をぶらぶら揺らしている。

 今日も僕は学校に行く前の時間で丘の上に遊びに来ている。こうして、登校前にアイナに会いに来るのが日課になっていた。

「じゃあ、私とは真逆だね」

「え?」

 アイナはただ黙って寂しそうに笑った。どうして、と問おうとした僕は、どうしてだろう、それで止まってしまう。なんだか、アイナと喋っていると、聞いていい質問とそうじゃないのがあるみたいで、ドキドキしてしまう。

「ねえ、あの空がもしも枯れたら、どんなことが起こると思う?」

「え、どういうこと?」

 唐突なその問いに、僕は面食らって聞き返した。

「空が枯れたら、次の花を接ぎ木するだけでしょう」

 花が枯れたら、”空”全体が萎れる前に出来るだけ早く次の接ぎ木をしなくてはならない。そうやって空がずっと元気であるように管理し続けることで、人類は雲に覆われて地上まで降り注ぐことの無くなった太陽エネルギーを、空を介して使い続けることが出来ているのだから。

 僕がそう説明すると、アイナは静かに首を横に振り、

「ちがうの。たとえば接ぎ木をしないままにして、空が根元までみんな枯れ切っちゃったら、どうなると思う?」

 知らないことを尋ねるんじゃなくて、僕がちゃんとそのことを知っているかどうか試すみたいな聞き方だった。僕は慌てて勉強したことを思い浮かべながら言葉を探す。

「えっと、まず、電力が減るよね。この町は、っていうか空の下にある町はどこも、空が根っこから吸い上げる水の勢いを使って葉脈ようみゃく発電はつでんをしているから。そんで、えっと、葉脈発電の電気は大体、植物工場に行ってるから、そう、工場の植物が育たなくて食料が足りなくなっちゃうんじゃないかな」

 理科や社会の授業で教わったことを思い出しながら、そう答える。アイナはにっこり頷いて、

「うん、その通り。あと、降ってくる花粉や花弁も燃料とかに使ってるから、まあ、少しだけその影響も出るかな。それから、そういうことに関わっている人の仕事が全部なくなっちゃうね。タクミくんのお父さんも仕事出来なくなっちゃう」

 ああ、そうか、たしかにそんな影響も出るのか。言われるまで気が付かなかった。アイナは雲を見上げながら、ぽそりと呟いた。

「そうなったら、タクミくんとももうちょっと長くこうして遊んでいられるのかな」

「えっ?」

 思わず見返したアイナの表情は、すごく悲しくて、だけど同時にきっぱりとした強さがあって、僕はただじっと見つめてしまった。朝の淡い光に包まれた町を背景に、そうやって寂しくも美しく笑う彼女がいやに鮮やかで、急に涙が出てきたのに気が付いた。どうしてだか、生涯この光景を忘れない、そんな気がした。

 だけど、どうしてアイナは僕の父さんの仕事なんて知っていたんだろう。


* * * *


 その疑問は思ったよりもずっとあっさりと解けることになる。

「いやしかし、この町の空は立派だな」

 晩ご飯のテーブルで、父さんがそう言いだした。

「父さんは接ぎ師としていろんな空を見てきたけど、なかなかあれはすごかったよ。接木つぎきもしやすそうだ」

 父さんは、空の花が枯れたあとに次の若い枝を接木する職人をやっている。

 口にビールの泡を付けながら、楽しそうに父さんは続ける。

「ああいうのを見ると、こう、仕事にもやりがいが出るよなあ。なんでも、ここの町じゃあ、花をつけるたびに空に名前をつけるんだと」

「へえ、そうなの。他じゃ聞いたことない風習ね」

 相槌を打つ母さんに頷いて、父さんはこう言った。

「今の菊の空は、ええと、たしか愛菜あいなっていうんだそうだ」

「えっ」

 僕の手を滑り落ちて、箸が床に転がった。


* * * *


「そうだよ、私はあの空の妖精、みたいなもの」

 アイナは相変わらず曇り空と同じ色のワンピースを着て、いつも通り微笑んだ。

「だから、こうしてタクミとお喋りするのも、君のお父さんが次の花を接ぐためにあの菊を切り落とすまで」

「だめだよ! そんなことしたら、アイナがいなくなっちゃう!!」

「いいの」

「よくない!!」

 僕は怒鳴った。力いっぱい声を振り絞ったつもりだったけど、アイナはちっとも怯みやしない。いつもと同じ、夏のブルーハワイのかき氷みたいな、涼しげな顔でこっちを見返すんだ。

「タクミくん」

「いやだ!」

 僕はぶんぶんと首を横に振って、両手でTシャツの胸を握りしめて、体の内側にある強烈な衝動をなんとか声に出して伝えようとしていた。

「僕がいやなんだ! だって、アイナと、もっと、たくさん……! 僕たち、友達だっていったじゃないか!!」

 体も心もワナワナと震わせながら叫ぶ。アイナはそんな僕を悲しそうに見て、ゆっくり、だけどきっぱりと首を横に振った。

「ごめんなさい、でも、それでいいのよ。ありがとう、タクミくん。私は楽しかったわ」

 アイナは手を伸ばすと、僕の頭をそっと抱いてくれた。僕は涙があふれるのを止められなくて、だけど、みっともなさよりも、何も出来ない自分が悔しくて悔しくて、もっと大粒の涙を流した。


 それから数週間後、菊の花は枯れ、切り落とされた茎に新たな枝が接木された。

 僕はあの日から丘の空き地に行くのをやめていて、アイナにはそれきり会うことは無かった。

 父さんの次の仕事が決まった。今度はもっと西の県に引っ越しをした。

 僕は学校をサボるようになっていた。塾には通って勉強をしていたから、母さんはあまりうるさく言うことも無かった。どうしてだか、同い年くらいの子にはあまり会いたく無かったんだ。それも、しばらくしたら収まるんじゃないかと思う。

 今日も花粉は僕の頭上に降ってくる。ふてふて・・・・と静かに。アイナがいなくたって、学校に行かなくったって、町を黄色く染めようとでもいうように降り積もっていく。


 ふてふて、ふてふてと――――

 天使の羽のように柔らかに――――


〈了〉

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