第4話 ダム・ブロンナ
蒼天が果てなく広がり続ける昼下がり。王妃の私室で、母と息子の舌戦が繰り広げられたあった翌日であった。
「国王陛下。お話したいことがあります」
王の執務室の扉からノックと共に、玉を転がすような声が響いた。
一人書類の山と格闘していたアレキサンドライトは、顔も上げずに「入れ」と短く告げる。
「失礼いたしますわ、貴方」
扉からカリナンは顔をのぞかせると、静かに身体を滑り込ませ、音もなく扉を閉じた。
「ご多忙なのは重々承知の上ですが、どうかお話をいたしたく参りました」
「……今日は忙しい。悪いが手短に頼む」
王は妻を一瞥すると、再度書類に目を落とした。しかし書類を読み込んでいるのではなく、妻から目をそらすためにそうしているのは明らかだった。
「ねえ貴方。貴方のことや、今後のことについて、どうしても話し合う必要があるの」
「………お前と何を話し合うんだ」
「まずは貴方の体調についてよ」
王の手が止まる。再度カリナンを一瞥しようとして躊躇ったようだった。
「何度も言っている通りだ。私に何かあればすぐダイモンドを即位させる。あの子はすでに色んな判断ができるようになっている。親の手を借りずとも、家臣や民らとうまくやっていけるだろう」
「確かに、あの子は貴方に似てとても聡明です。けれど、まだ大人ではないのです。もし王亡き後、年端もいかぬ子どもが、民へ安寧をもたらすことは十分にはできないでしょう」
「……だが、あの子は男だ。エスピリカもすでに多大な献身を永きに渡り続けている。それで十分だ」
「男だ、って………それは十分とは言えませんわ」
書類というより、空間を見つめたままの夫に対し、カリナンの瞳に哀しみの光が滲んだ。
「そして、ねえ貴方。……さっきからどうして私を見てくださらないのですか?」
「……………」
「アレキサンドライト様。貴方様は今、わたくしとお話しているのです。どうか、お顔を上げてくださいまし」
王妃の懇願にも、王は応えようとしなかった。手の動きも、目の動きもとうに止まり、断固としてカリナンと視線をぶつさらせまいとする意志さえ感じられた。
「そんなに、わたくしを嫌悪なさっているのですか……? もうわたくしは、貴方様には欠片も必要のない存在なのですか?」
「………必要とされてないのは、私の方だろう」
「なにをおっしゃいますの、貴方」
「最初から、お前が望んで王妃になった訳ではないことは分かっていた。いずれ私はもうじきいなくなる。だからお前の好きにして構わない」
「好きにしろとは、どういう意味です」
「そのままの意味だ」
「……まさか、あの根も葉もない噂、いえ家臣たちの冗談を信じているのですか?」
「…………」
「本気で、おっしゃっているのですか」
「…………」
「ねえ、貴方」
「お前の人生を、王妃という望まぬ形にしたのは私だ。移り気くらい黙認する」
「………っ!」
カリナンは突然、王の腰元から剣を奪い取った。
「なっ、おいカリナン!」
「本気でそうお考えなら、今すぐここでわたくしをお斬りください!」
彼女は剣を自らの喉に当てていた。きめ細かな肌に、刃の鈍色が牙を剥いていた。
「王の役にも立てず、不貞を働く王妃などトルマーレには必要ありません。貴方がわたくしの不貞を本気で疑っておられるなら、わたくしを殺してください」
「どうしてお前はそう極端なんだ! 私にそんなことできる訳がないだろう! 早くその剣を返せ!」
カリナンから力ずくで剣を奪還しようと、王は彼女の両手を掴んだ。カリナンも絶対に返すまいと、柄を握る手に力を込めた。
「わたくしがっ、女だから、ただのお飾り
「なにを言い出すのだ、カリナン!!」
「ここ何年も、貴方へ幾度、話し合いの申し立てをしては躱されたことか……これ以上貴方のお役に立てない上に、わたくしを問いただすまでもなく不貞をする女だと思われているのならっ、わたくしは存在する意味がありません……! 貴方が殺さないのなら、今ここでわたくしが自害します!」
「カリナン、だからと言ってお前の行動は極端だ! まずはその剣を返しなさい!」
「返しません!」
返せ、返さぬを繰り返し拮抗状態になった時。
「陛下! 王妃様! 何事ですか!」
騒ぎを聞きつけた側近のモルガンが執務室へ駆け込んできた。
「モルガン…! カリナンから、剣を取り上げてくれ! 彼女が自害するなどと言い出し―――ッ!」
カリナンの手を掴んでいた、アレキサンドライトの手がで滑った。
まずい、と思った時には遅かった。
勢い余った剣が当たり、王妃の首元は真紅に染まっていた。
「か、カリナンッ!! だめだ、それ以上動くな!!」
「王妃様ッ!! すぐに医者を呼んで参ります!!」
側近は王宮内の医者を大声で呼びながら部屋を飛び出した。
「あと、確か、治癒能力を持ったエスピリカがいたはずだ! かの者を呼んで来る、絶対に動かな―――」
カリナンは王の顔へ手を伸ばすと、彼を引き止めた。彼女はすべてを悟ったような瞳をしていた。
「いか、ないで……傍、に……」
切れた喉、声も絶え絶えにカリナンは夫へ懇願する。王は、止血できるわけがないと解りつつ、必死に妻の傷を手で押さえていた。
「むかし……わたし、が……ダム……ブロンナと、言われた、とき……あなた、が……怒って、くれて……うれし、かった…普段、なにも、いわない、あなた、が……」
「……カリナン……!」
「あの、とき……あなた、に……えらんで、もらえて…よかった、って……あなた、と……出会えて、よかった、って……」
黄金がかった翠色の瞳から、大粒の雫がこぼれた。それはカリナンの、血に染まった頬に落ち、透明に滲んだ。
「こんな…ダム、ブロンナでも……あなたにっ、信じて、頼って、もらえるよう、な……良い、妃に……妻に、なりたかったのに……だめ、だった……ごめん、なさい……」
そう告げると、カリナンの瞳から光が消え、物言わぬ人形の
ようになった。
「……! カリナン! おい、カリナン……! 今からでも大丈夫だ、すぐに手当てをする! 待っていろ、待っていろよ!」
どんどん冷たくなってゆく妻へ、男は懸命に語りかけていた。彼女がすでにこと切れていることは、誰が見ても明らかだった。
「クォーツ! 頼む、早く来てくれ! カリナンが怪我をした! 早く来てくれッ!!」
主治医の名と、妻の名を虚しく呼ぶ男の声が、空虚に響いた。
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