14章『突然にトリッキーな騎士様の頼み事』-02

***


 ……疲れた。ひたすら疲れたぞ、おい。

「アシュ氏、仕事中にそんな寝そべってるのはダメなんだなー」

 そういうお前は、新聞を広げてくつろいでるじゃないか。そっちは良いのかよ。

 いつもの図書館業務。例によって来訪者は誰もおらず、俺とバルのみが『司書』という名の待機番をし続けている。

 窓から見える時計塔は10:50を示していた。

 チラッとバルの持つ新聞に目を向けると1面にレイチェルの就任式の特記事。

 ……何とも、超有名人になってしまったもんだな、本当に。

「昨日はパーティーを楽しんできたのに、その態度はないのだなー」

「誰も楽しんどらんわ……人生史上、最大の苦痛だったぞ」

「またまたー。朝の通勤でレイチェル氏に会ったんだけど『アッシュ、すっごくパーティーを楽しんでて、いいご身分ね〜』と言ってたぞなー」

 苦痛の原因の片割れに言われましても……。

「僕も有給の残りがあれば就任式には行きたかったのだがなー」

 俺たち二人が共に休んだらこの図書館は急遽、休館になるのだろーが……まぁ、誰も困らんか。

 に、しても

「そういや、最近は午後の用事は無くなったのか?」

 以前はよく用事で午後には帰っていたバルなのだが、

「ああー、それなー。セレスさん、カンが鋭そーだから、『バルスタア団』のことがバレないように接触を減らしてたんだけど、アシュ氏にとっくにバレてたのなら意味がなかったのだなー」

 ………………おい。

 んじゃ、お前、本当に用事があって休んでたのではなく、セレスさんを避ける為に嘘ついて休んでたのかよ……き、気を遣って損したぞ、マジで。

「お陰で有給がほとんどないのだなー」

 それは自業自得だろーが。




「相変わらず、ここはキミ達しか居ないのね」

 と、そこに現れた来訪者はセレスさんだった。

 ……昨日の苦痛の原因、その片割れですやん。

「セレスさん、ここにはどうして?」

「そうね〜。今日は本探しじゃないの。キミ、アッシュ君に用事があって、と言ったら?」

 例によってニヤリ、と笑みを浮かべるセレスさん。……出たよ、これ。

 思わず後ずさる。

「フフフ、昨日は楽しいパーティーだったわね。アッシュ君も楽しめたかしら?」

「…………」

 あの状況で楽しんでらっしゃるのはセレスさんぐらいでしょーよ。周りもドン引きでしたやん……。

 ツカツカと俺の目の前まで迫るセレスさん。え、一体、何を……。

「キミが欲しい」

「はぁ?」

 いきなり何を!? 意味が分からない。

「単刀直入に言うわ。前にも話したけど、アッシュ君、私と本国“聖教ソリスト教国”に来ないかしら」

「…………」

 何故、俺にそんな固執するんだ、セレスさんは。

 俺には何も無い。

 レイチェルの様に天才なわけでも無いし、バルの様に多数の人に慕われるわけでも無い。

 そうなのだ。俺は周りの凄い奴らに比べて何も無い。自分にそんな価値があるとは……思えない。

 あるのは……『刻戻り』の力だけ。

「そうね。キミが『刻の改変者』、いや『刻の修正者』であることは大きいわ。それは否定しない」

 そうだろうな。それ以外に、俺には何も……

「でも、それだけじゃ無いわ。キミ自身にも興味があるのよ。この私が……」

 そう言って、セレスさんはカウンターから身を乗り出してこちらに顔を近づける。その黄金の瞳が、俺の顔を射抜く様に見つめ続ける。

 ……なんだ、なんなんだ、これは……


 ドクンッ、ドクンッ!


 ダメだ、身体が……動かない……蛇に睨まれた蛙とはこのことかよ。……心臓の音だけが早鐘の様にこだまする。


 近い近い!

 セレスさんの蠱惑的な顔がドンドンと迫ってきて、俺の額から冷や汗が滲む。


 チラッと、視界の端にバルの微妙な顔が写る。


 た、頼む!

 俺の視線を受けてバルが、ハァ、とため息をつくも、俺の意を汲んでくれたようだ。


「あー、ここは公共の図書館なのだなー。そーゆーのはちょっと……それにセレスさん、あまり強引なのは良く無いと思うのだなー」

 た、助かった! バル、ナイスだ!!

 が、

「バル君こそ、他人の恋路の邪魔するのは良く無いわよ」

「それ、恋路なのー?」

「恋路」

「…………」

「コ・イ・ジ! …………馬に蹴られたい?」

「………………サーセン」

 なぁッ!? ま、負けるな、バルよ!?

 妖艶な表情で、近づいてくるセレスさん。互いの鼻息が感じられる程の距離に迫り、俺の顎に白魚の様な指が触れ、クイッと持ち上げる。艶かしい桜色の唇が、近づき……


 ゴクリ


 喉が鳴る。


「アッシュ! な、何をやってるのよ!!」

 その声で、セレスさんの動きが止まる。

 声の主の方を見る。

 図書館の入り口で仁王立ちしていたのはレイチェルだった。

「た、助かった……」

 と、レイチェルは鬼の形相でツカツカと歩いてきて、


 バシィーンッ!!


 俺の頬を一発、平手打ち。

 めっちゃ痛い…………いや、なんで俺!?






 なんかわからんが、我が職場の図書館は今まさに戦場と化していた。


 炎のオーラを背に持つ、虎の如き殺気のレイチェル。

 氷のオーラを背に持つ、龍の如く険しいセレスさん。


「まさしく、『龍虎相打つ』の図なのだなー」

 バルよ、他人事だと思って気楽なセリフを……。

 窓から見える時計塔は11:40。もう昼前じゃん。……昼飯にさせてくれよ、マジで。


 互いに睨み合って微動だにしない2人に恐る恐る声を掛けてみる。

「あー、ところでレイチェルはどうしてここ(図書館)に?」

「あ、そうだった! 肝心なことを忘れるとこだったわ」

 そう言って、取り出したのは緑の背表紙に星々の絵が描かれた一冊の本。

 それは?

「アルサルトは自分の留置場へ、よく自分の船から本やら何やらを取り寄せてはまた交換してるんだけど、その内の一冊がおかしいのよ。先ほど、留置場の衛兵から渡してもらったの」

「あのアルサルトの本、てことかしら……そう」

 流石のセレスさんも、アルサルト絡みとなると、一旦は戦闘モードを解除した模様。

 平和でいこーよ、頼むから。

「で、その本のどこがおかしいんだ?」

「ええ。ここを見て?」

 と、レイチェルはその緑の本を開いて、中のページを見せる。

 ん?

 そこにはあるはずのページが破り去られている。

 それも1頁だけじゃない。幾つかのページが明らかに人の手で破られている。

 これは一体……

「で、この破られたページが何なのか、同じ本で探せないのかと図書館に来たわけだけど……なんで、ここにセレスさんまで居て、変なことしようとしてるのよ!? ちゃんと説明しなさいよ、アッシュ!!」

 あー話してるうちにまたお怒りモードだ。

「……バル、同じ本がどこにあるか分かるか?」

「んー、多分、3階手前の西の本棚あたりじゃないかなー」

 取り敢えず、本探しで誤魔化すぞ!

「ほら、探しに行くぞ!」

「ちょっ、……誤魔化して、もう」

「私も興味があるので、一緒させてもらうわね」

 ブツブツ言いながらもレイチェルとセレスさんも一緒に本を探しに階段へ。


 ……なんだけど、なんでセレスさん、俺の左手から離れてくんないんですかねー?

「セレスさん、アッシュから離れてくれません?」

 とゆーレイチェルも俺の右腕を何故か掴んで離そうとしない。

「あら? それはどうして? レイチェルさんも隣なのに? 貴女が良くて私がダメな理由ってあるのかしら?」

「それは……」

 ……もういいから探すぞ、でないと昼休憩になってしまう。


「フン、リア充なんか爆発すれば良いんだなー!」

 司書室に残るバルはよく分からんことを呟くのだった。





 件の本と同じ本はすぐに見つかった。


『天の川の光はすべて星』


 何やら詩集のようだが。あの脂ぎったオヤジが詩集を読んでる姿なんて思いつかんぞ。


「破られたページには何が書かれているのかしら」

 とは、セレスさん。

 手にとって見比べてみる。


“天の川に流れる多くの星よ。あなたの中に私の声は聞こえますか?”


 ……やっぱ詩だよ、ポエムだよ、これ。

 

「……普通に詩集、なのかしら」

 レイチェルも見比べてみるが、やはり頭に疑問符が浮かんでいる様子。


「他も見てみるか」

「ええ。そうね。アッシュ、確認してみて」


 次の破られてるページは、と……


“死にたくなるほどの想いを、愛を抱えて、あなたに会いたい。愛くるしいあなたに”


「…………」

「…………」


 次だ次!


“二番目だっていい。私はそんな立場の女。それでも貴方のことを想い続けるの”


“野原に秋桜が、貴方と過ごした思い出に——”


“これまでの貴方とこれからの私、共に生きられなくても貴方を想い続けてる”


 な、なんだこのポエマーは……


「恋愛の詩、のようね……アッシュ君」

 いや、それはまぁ、分かるんですが、セレスさん。

 問題は何でアイツがこんな恋愛の詩集なんかを読んでたか、と言うことと破られたページには何が関係あるか、なんですが。


“貧しさや地位が私たちを分とうと、それでも私は貴方を変わらず愛してる”


“眠りの中でしか貴方に会えなくても、それでも想いは途切れない、この愛は”


 愛愛アイアイ、なんじゃこりゃ。いかん、読めば読むほど、むず痒さが走るんだが、これ。

 ……まだ読むの?


“靴裏には貴方からのメッセージ。決して表には出せない。私だけのメモ”


“似ているわ、彼に。だから、必ず帰ってきて、私の元へ”


 ……結局、これが何かは分からんが恋愛の詩集を読書するアルサルト、というよく分からん構図だけが記憶に残ることに。……いらんモノを残しやがって。


「うーん……ちょっと良く分かんないんだけど、取り敢えず、この同じ本を借りてってもいいかしら? アッシュ」

「ああ、貸し出しの手続きだけしてもらえれば構わんぞ」

「ん、ありがと!」


 さ、これで手続きも終わってようやく昼休憩に……



「じゃあ、アッシュ君、今から一緒にランチに行かないかしら? フフフ」

「な! なんでセレスさんがアッシュと一緒にランチに行くんですか!?」

「あら? 私がアッシュ君をランチに誘ってさちゃいけない理由なんてあるのかしら?」

「そ、それは……そうなんですけど……」


 はぁ……仕方ない。


「じゃあ、今から皆でランチに行きますか……」

 そう言うしかなかった。……バルはとっくに逃げ出してるしな。

「もう! ……アッシュは流されやすいんだから」


 そんなこんなで、レイチェルとセレスさんの間に挟まれて緊張感の漂うランチを過ごすことになるのだった。

 何とかしてくれよ、マジで。





 翌日。

 昨日とは違い、レイチェルもセレスさんも特に乱入してくることはなく、いつもの何もなーい、平和な日常。

 バルと共に怠惰な時間を過ごす。


 これだよ、これ。俺が求めてるのはこういう平和な時間であって波乱万丈はいらんのだ。

 窓から見える時計塔の文字盤は16:10。

「アシュ氏、んじゃ、もう締めますかなー」

「そうだな。どーせ、今日は誰も来ないだろうしな」

 と、言って俺たち司書二人組が締め作業を始めた時だった。





「……アシュレイ、折り入って、君に頼みたいことがある」

 夕暮れの赤い陽の光が図書館内に立ち込める中、やってきたのはユリウス少尉だった。


 ………………。

 …………。

 ……。

 さ、気にせず、作業するか。


「コラ! 貴様! なぜオレを無視するのか!?」

 いや、コイツからいきなり『君』呼ばわりで始まったら、むしろ、むず痒いというか調子狂うというか……バルのヤツめ、あっという間に逃げおってからに。


「……何なんですか、少尉。こっちはちょうど締めの作業で忙しいタイミングなんですけどねぇー」

 だから帰れ帰れー。


「……アシュレイ、君にしか頼めない。真剣な話なのだ」


 …………。


 仕方ない。

 一つ、ため息をつくが、ユリウスに椅子を勧め、座って話す様に促す。


「ああ、ありがとう、アシュレイ」

 コイツに礼を言われるとなんだかリズムがくるうんだが。

「で、何があった?」

 話を聞くしかなかった。



「どこから話したものか……今から話すことは内密に頼む。君を信用して、だ」

「…………」

 あれだけ機密情報の共有に抵抗を示したユリウスだ。これは、一体……?

 恐らくはよほどな内容、ということか。

「今朝のことだ。ジーグムント市長自ら憲兵隊大隊長に命令が下った。『サファナ判事が違法捜査にて証拠の捏造を行った嫌疑がある』と」

「な!? なんだ、それは!?」

 レイチェルが!? 馬鹿な!? どういうことだ!?

 ついこの間、町全体が礼賛していたのがレイチェルだぞ! 市長自身が表彰してたじゃないか!? レイチェルは無事なのか!?

「待て! ……落ち着け。サファナ判事は無事だ。……オレが安全な所に匿っている」

 ……そうなのか。ユリウス、お前が。

 ありがとう。

「だが、サファナ判事を庇ったクリフトン判事長は、市長の命により逮捕・勾留されてしまっている」

「クリフトン教授までもが、か!?」

「ああ。『共謀の可能性あり』ということでな」

 そんな……クリフトン教授が言っても止まらないのか!?

 これは……予想以上にマズイ、のか。

「職場に居た為、知らないのだと思うが、サファナ判事の実家、君達の家族にも既にサファナ判事に対する容疑と捜査で憲兵隊が一度、訪れている」

 俺の両親やミリーの家族にも、既に憲兵隊達の捜査の手が及んでいる、という事か。

 俺の想像以上に事態は急速に悪化方向のようだった。

 ここまでの状況になるということは、やはりジーグムント市長はアルサルトと共に『敵』、いやその中心と見るべきだな。

 そんな市長に俺が出来る抵抗とは……取り敢えず、来月の投票では絶対に入れんぞ、お前には。

「それで、アシュレイ、君に頼みたい事がある」

「あ、ああ。それは何だ?」

「君には、過去を変える力がある、という事だったな」

 …………。

 前回の、ヘルベの森でのリアン救出作戦の時。流石に、その時に『刻戻り』のことを伝えておかねば話が通らなかったので、伝えはしたのだが。

 ……コイツなら、そんな話は信じないし、適当に忘れるだろう、と思ってな。

 が、どーもそれを信じていたらしい。

「何をしろ、と?」

 今、この場でその話を持ち出すからには、レイチェルへの冤罪の嫌疑に関わる話、の筈。

「ああ。アシュレイ、サファナ判事の冤罪を晴らす為に例の『刻戻り』とやらで、過去を変えて欲しい。……あの本が冤罪の元なのだ。留置場の衛兵からサファナ判事が証拠として受け取る本を阻止して欲しい!」

 本?

 もしかして、それは昨日の例の本か? あの詩集……

「衛兵がサファナ判事に例の本を手渡したのは昨日の10:55と聞いている。頼む! その過去を変えてサファナ判事の冤罪を取り除いてくれ!」

 うーん……

 考えろ、アッシュ。

 ここまで、アルサルト、そしてジーグムント市長が強硬姿勢を示す、という事は確かに例の詩集本は有力な証拠になるかもしれん。……それを逆に『刻戻り』で無くしてしまうことが良いのか。

 だが、それと同時に事態は急速に悪化してきる。レイチェルを匿っている、と言っても俺にこうして『過去改変』を頼みに来る、という事はいつまでも匿えるわけではなく、限界が近い、という事なのだろう。

 例の証拠となりうる『詩集本』がレイチェルに手渡された、という事実。それが無くなれば……今の冤罪騒動も改変される、のか?

「………………わかった。『刻戻り』で過去改変をするしか無いな」

 しかし、本当に過去改変をしても良かったのか。……また、前みたいに改悪になったりはしないのか!?

 決断する瞬間、心の中に微かな不安がよぎる。もし、この決断が失敗に終わったら……いや、そんなことを考えてる場合じゃない。

 レイチェルのためだ!

「本当か!? アシュレイ、君には本当にいくら礼を言っても言い切れない」

 と言って、ユリウスは俺の前に片膝をつき、拝礼の仕草をする。

「お、おい。何もそんな……」

「オレがしたいのだ。騎士として最上級の感謝を」

 ……別に、お前の為にやってるわけじゃ無い。レイチェルの、俺の大事な妹分の為だ!

「ああ。それで良い。……必ず、この礼はさせてもらう」

 ……なんか調子、狂うなぁ。




 16:52


 既に時刻はギリギリだった。

 あと数分しか無い。

「……本当に、あの時計塔が過去に戻れるというのか?」

 いや、お前、俺に頼み事をしといて、何故に疑問なんだよ……。

 若干、肩の力が抜けてしまいそうになるのを抑えながら、自分に言い聞かす。

“絶対に、前の様な間違いを起こしてはならない”

 過去を修正しようとして、リアンが攫われる、といった最悪の事態のようには。


 させない!


 と、時計塔の文字盤が、映し出す。


 16:55


 が、その瞬間、文字盤は今と異なる時間、


 10:55


 目的の時刻を指し示す。

 その文字盤と針先には再びあの青い燐光が灯される。

「こ、これが、『刻戻り』と言うのか!?」

 今回は、コイツにも認識出来るようになっているみたい、だな。

 これまでの『刻戻り』への皆の認識の違い、それらを『観察』し、『分析』した結果、『推定』としては、恐らく『刻戻り』という事実を認知した者のみその認識が可能となる。恐らくはその筈だ。


 世界が、図書館の中が再び淡いモノクロームの灰色に染まっていく。

 俺も、ユリウスも、全てのものが静止し、全ての音が失われる無音の世界。

 そこに彼らは再び現れる。


《ウフフ……》

《アハハ……》


 頭の中に響く笑い声。

 灰色の静止した世界。灰色一色に染まる図書館の中で、青い燐光を纏った彼等=天使達がゆっくりと天井から舞い降りてくる。



《君は契約に基づき、僕たちを呼び出した……》

《君が守りたいモノのために……》

《世界を、その事実を、過去すらも自らの意志で変える為に……》

《ならば、見せるんだ、僕たちに……》

 ——君の想いが、本当に守りたい者を守れるのか


 瞬間、世界が反転した。




 ……ここは?

 何やら忙しなく、兵士達が行き交うこの広場は……。

 彼方に見える時計塔の文字盤は10:40

 見覚えもある、ここは一体。

「アッシュ? こんなところでどうしたの?」

 俺の前に居たのはいつもの黒の法服に左眼のモノクルをまとったレイチェルだった。

 なるほど。

 あたりを見渡す。

 ここは憲兵隊本部の玄関前だ。門番が出入りする者を見張っている。

 そしてレイチェルはちょうど今から中に入ろうとしている所だったのだろう。その手に自身の身分を明かす“名入りの黒鷲の紋章”があった。

 ——憲兵隊本部内の留置場で、アルサルトの『証拠の本』を受け取る為に。


 そして、俺は冤罪騒動の元となる、その受け取りを阻止する為に、ここに、過去に帰ってきたのだ。


「レイチェル、聞いて欲しいことがある」

「う、うん。どうしたの? アッシュ。わざわざこんな所まで私を追い掛けてきてなんて」


 俺の言葉をレイチェルは真剣に受け止める。

 そうなのだ。

 この大事な妹分は俺のことを、何時でも何処でも疑いなく信じてくれる。


 何も、物理的な影響を及ぼすことの出来ない『刻戻り』の中で、このレイチェルの俺への信頼だけが、本当に過去を変える力となる。

 レイチェルが居てくれるから。


「ああ。実は、今からレイチェルが手に入れようとする本は、手に入れてしまうと……」


“違法捜査の容疑が掛けられ追われる事になる”


 続く言葉は、実際の言葉にはならず、俺の口の中でとどまるのだった。

 ……そうだった。

 未来に生じる確定事項をそのまま伝えることは出来ないんだった。くそッ。


「本? アッシュ、アルサルトの趣味のこと、知ってたの?? それがどうしたのかしら?」

「ああ……うーん、それなんだが……」

 うーむ、どうレイチェルに説明すれば良いのやら。

 俺の大事な妹分は、そのつぶらな紅玉色の瞳で俺を見つめ続ける。そこにあるのは相変わらずの、俺への無二の信頼。


 ……やはり、レイチェルには正直に言うべきだ。

 俺を、心の底から信じてくれるレイチェルには。

 俺は、何も取り繕わない。


「レイチェル、俺の言うことを聞いて欲しい」

「……うん。こういう真剣な時のアッシュは必ずやり遂げてくれる時だから。……信じるわ。私の『英雄』だもの」


 レイチェル……。

 本当にありがとう。


「今から、アルサルトの本を手に入れようとしてるのだと思うが、それを“今、手に入れる”のは諦めて欲しい。……詳しくは言えないが、危険な事が起こる可能性が高いんだ」

「危険!? それは一体……」

「すまん。それは……今は言えない」

 俺の言葉に、レイチェルは一瞬、考え込むが、

「うん、わかった。アッシュが言うなら。信じるわ、アッシュを」

 そう。こんな無茶な発言でもレイチェルは俺を信じきってくれるのだった。

「ありがとう、レイチェル」

「ふふふ、アッシュの言う事だもの。私は信じてる」

 そう言って微笑むレイチェル。




 リーンゴーンリーンゴーン……


 鐘の音が鳴り響く。本来の鐘の時間ではないこの時間に。


 指し示すのは10:55


 レイチェルの微笑みが、世界が灰色のモノクロームに染まり、全てが静止する。




 世界が反転していく。


 世界が反転。


 …………








 ……で、ここは一体どこだ??

 『刻戻り』を終えて現在に帰ってきた筈だが、そこは妙な場所だった。初めて見る場所…………部屋?

 床は一面石畳で、家具も何もない殺風景な部屋。窓は灯り取り程度に僅かにしか開いておらず、鉄格子まで入ったそこから覗く時計塔の針は17:10。

 壁も三面がレンガで覆われ、床や壁からの冷え込みが半端なく有り得ない。

 そして、唯一、壁じゃ無い一面には天井から床まで届く無数の鉄格子。

「………………」

 そこにある扉っぽい所を押してみるも当然、開かず。……鍵が掛かってる?

 えーと、これは……


 もしかしてなんですが、俺、牢屋に入れられてる!?


「何じゃこりゃぁッ!!」


 何で、こんなことになっとるんだーッ!?


⭐︎⭐︎⭐︎

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