刻の輪廻で君を守る

ぜのん

01章『始まりはフラジャイルな金糸雀』-19

***


 コチ、コチ、コチ……


 ——『観察』

 文字盤は針の動きを推し進め続けている。その動きは一定であり続ける。


 ——『分析』

 針の動きのように、時の流れは過去から現在、未来へと、たゆまず流れていく。

 それは何人足りとも犯す事の出来ない不可侵の世界法則。



 そう、世界の理解は観察と分析、そして推定を繰り返すことで成り立つ。



 ——そして『推定』

 故に……俺の仕事はもう終わる!

 窓から見える時計塔の針は16:10。つまり17時になるにはあと50分。


 町の中心部、どの建物よりも高くそびえ立つその時計塔はこの町ができた当初からそこにあり、町のどこからでも四面に配置された文字盤を確認することができる。

 もうすぐ秋に差し掛かろうとするこの季節では以前よりも陽の落ちるのが早くなり、あたりを夕陽の赤で染め上げている。

 十字路に整備されたレンガ仕立ての道路には早目の帰路に着く人々の姿が見える。

 当然、もうすぐ俺自身もその中の1人になる予定である。

 よって、ここ、我が職場である図書館も規定通りの終了となる予定である。


 今日も来訪者は3人だけだったしなー。


 16:15


 再度、癖になってる懐中時計で時刻を確認し、テーブルの前に回って掲げられてた札をひっくり返して『本日は終了しました』に変えようとする。

「あ、アッシュ! ちょっと待ちなさいよ!」

 が、俺の業務を邪魔する声が掛けられた。




「いや、図書館はもうすぐ閉館時間なんだが」

「いやいや、早過ぎでしょ。まだ16:15よ。…………相変わらずアッシュは勤労意欲が無さ過ぎ」

 俺ことアシュレイ・ノートンを『アッシュ(灰色)』なる奇妙なあだ名で呼ぶのは、見知った不満顔の少女。


「図書館の閉館時間は17:00。あと45分もあるじゃない」

 背中まである栗色のサラサラ髪をなびかせながら我が幼馴染みは文句を言ってくれる。


 彼女の名前はレイチェル・サファナ。俺より2歳下の妹分。

 黒色の判事特有の法服をまとい、度の無いモノクルを左眼にかけたその姿はその元々の容姿の淡麗さも相まって正直、威圧的にも感じる。

 わずか18歳にして飛び級を重ねてこのクロノクル市、最年少の女性判事に今年選ばれた時には流石にスクープとして各新聞で取り上げられてしまっていた。

 まぁ、すごいすごいとは思ってたけどまさかそんな天才級とは……

 それは兎も角。


「しかし、今更こんな時間に来る人もいないし、どうせすぐに閉める時間になるんだぞ」

 何せ今日は同僚が急な休みで俺1人が閉めの作業をしなければならない。なんで早目に終わりたいんだが?

「だから、私が来たでしょーが…………まだ閉館じゃないんでしょ? ね?」

 両手を合わせて上目遣いにお願いされてしまう。

 ……また彼女のお願いには勝てないなぁ。

 俺は溜め息を付きつつ頷くしか無かった。

「よし、言質は取ったわよ。心配しなくても直ぐに終わるから!」

 調子の良いことを言いつつレイチェルは本棚へ。

 折角、今日は何もせずに終わると思ったんだけどなー。

 ボヤきながら俺は自分の仕事、司書として図書館の閉め作業を始めていった。



 ここ、クロノクル市は小さいながら世界相手の貿易で潤っている港町だ。

 お陰でこういった図書館にも大量の蔵書があり、それを管理する為に町の税金が使われ、俺みたいなやる気のない人間でも雇ってもらっている。

 何せ、街の中心街の一角をこれだけ広く占める建物でありながら、その仕事はただ受付に日がなぼーっと待機だけしとれば良いのだ。それなんて天職?

 給料泥棒だって?

 結構結構、怠惰でいられる俺にとっては選ばれし称号ですとも。



 が、レイチェルの探し物は見てても一向に終わりそうにない。

 おい、帰りの辻馬車に乗れなくなったらシャレにならんぞ。

「どうした? 何を探してるんだ?」

「うーん……」

 早く終わらせて帰りたいがために声を掛けてみたんだが何やら煮え切らない返事が返ってくる。

「ここは俺の方が詳しいんだ。何を探しているか言ってくれれば探す時間もかからずに済むと思うが」

「まぁ……それもそうね。うん。……この町の歴史書とか貿易内容の収支・決算書とか創立時からの経時的な記録や事件簿を探してるんだけど」

 ?? この町が出来た頃からの決算書や歴史書? まぁ、それなら……

「そういった資料的なものはこっちの方だろうな」

 しょうがなく司書室裏の書庫室にレイチェルを招き入れる。




 書庫室。

 そこは薄暗い上にホコリだらけで何やら据えた匂いまで漂う。

 本棚だけでなくそこらに散らばった木箱にも無造作に突っ込まれた古い文献や本、バラバラの書類。


「これはまた……探すのに骨が折れそうね……」

「そりゃ、このクロノクル市創立からならざっと150年分の資料が集まってるからなぁ」

「資料を残してるのはいいんだけど、全く整理してないのは、どーしてなのかしらねー」

 ……そんなことは歴代のウチの司書達に言ってくれ。因みに俺も、今日はいない同僚も改善する気は全くない。

「しかし、そんな古い資料を集めてどうするんだ? 急に歴史の魅力に目覚めたとか言うんじゃなかろーな」

 なにせこの天才美少女にかかればあらゆるジャンルをマスターする、と言っても過言ではないからな。

「違うわよ。今、担当してる事件で気になったことがあって。念の為、て感じかな。……ちょっと今回はややこしそうなのよ」

 この天才少女にしては珍しく言い淀んだ。

 仕方ない。

「……じゃあ、俺も探すのを手伝うから、何がいるか言ってくれ」

「ん、ありがと…………ふふ、アッシュって、私が困った時、いつも助けてくれるよね」

「……そうか?」

「そーよ。……頼りにしてるんだから」

「それは中々に重い期待だな」

「また、アッシュったらそんなこと言って……ふふっ」

 夕闇の薄暗い書庫の中、レイチェルは微笑む。

 いつもはキリッとした切れ長の眼で相手を威圧するはずの、この妹分の笑顔に俺は弱い。

 ……しょうがない。

 苦笑して資料探しを続ける。

 何となく、創立当時らしい時期に作られたっぽい書類をレイチェルに渡していく。

「……この記録、やっぱりおかしいわ。こんなに多くの名前が消されたままの資料なんて……町の創立時からって、これは……」

 何やらブツブツ呟きながらも次々と多量の資料を恐るべき速さで流し読みしていく。

 流石は天才。

 と、木箱の中の書類を漁っていると何やら一枚の絵が出てきた。

 これは、流石にレイチェルの求めている資料ではなさそうだが。

「何それ?」

「この町ができた頃のものなんだが……これは資料というよりも絵だな」

「へー。綺麗な絵ね?」

 摘み上げたソレを眺める。

 ボロボロの画用紙に描かれているのは銀髪の2人の少女、と言うよりは幼女? 恐らくはどちらも5、6歳ぐらいか。

 ただ、笑顔は笑顔なんだが……

「綺麗な娘達ね。それに『黄金眼』で『銀髪』なんて伝説の天使みたい」

「そう言えばそんな容姿だったっけか」

「アッシュは物、知らなさ過ぎ……『黄金眼の銀髪』の容姿って天使の生まれ変わりって言われるぐらい珍しいのよ。だから、こうやって描かれて残されてるってことなのよね、多分」

 そうなのだろうか。

 ただ……

「150年前の物なんだよな」

「それはそうじゃないかしら」

 ふーん。

「睨んでないか? これ」

「そんなことないんじゃない? 可愛い娘達でしょ」

 そうかな? そうなのかもしれんが……



 何となく……この絵の少女達が俺に睨みかけているような気がして。

《…………見つけた……》

 何だろう。何かが囁いた気がした。

《……………………………》

 うーん…………

「そんなにジッと見つめて……アッシュって実はロリコン?」

「んな訳あるか!」

 全力で否定させてもらうわ!




 取り敢えず、レイチェルが求める資料集めらしきものを掻き集めるにはそれなりに時間が掛かったが何とか終わった。

 乗り合い最終の辻馬車が来るまでレイチェルと2人待ち続ける。

 傾いた夕日が2人の影を長く引き伸ばしていた。

 クロノクル市の中心街は議会や庁舎などの行政機関、そして富裕層達の御屋敷などでしめられていて俺達のような平民達の住む郊外には乗り合いの辻馬車で移動するしかないのだ。

 専属馬車よりは安いものの俺達庶民にとってはこれまたお手軽とは言い難い値段だが、この交通費も支給ってのが司書になった役得の一つでもある。


「にしても、アッシュが図書館司書になるなんて。春に聞いた時には驚いたわよ」

「レイチェルが史上最年少の女性判事になったことに比べれば些細なことだと思うがな」

「いやー、まぁ、それはそうだけど……これはたまたま、ていうか今まで私を評価してくれてた大学の教授、いやもう上司か。その方が是非にって言ってくれたから……」

「別に嫌味とかではなく、レイチェルなら俺もやり遂げれると思うぞ。史上最年少の女性判事」

「…………そーなんだ…………ありがと……」

 急にレイチェルは頬を赤らめ、指先で自身の髪をくるくるといじり始めた。

 …………。

「……前みたいに『アシュ兄(にぃ)』とは呼ばないのか? ミリーはまだそうやって呼んでくれてるが」

 思わず場を和まそうと別の話題を振る。

「…………その呼び方は……卒業したから」

 呼び方に卒業もなにもあるのか?

 だがレイチェルはもう何も応えなかった。


 そうこうしてる内に辻馬車が到着したので先に乗り込みレイチェルに手を差し伸べ中へと引き上げてあげる。

「ん、ありがと」

 中の空いてる席に座った俺たちはそこに共通の知り合いを見つけた。

「あ、ミリー? もしかして今日は学校帰りだったの?」

 俺より先に気づいたレイチェルが彼女に声をかける。


 俺達の更に隣に住むもう1人の幼馴染み。わずか10歳ながらこれまた優秀でわざわざ中心街の方の特別学校に奨学生として通えるようになった、とは去年に聞いていた。

「あ……レイチェルお姉ちゃん、とアシュレイお兄ちゃん」

 が、いつもは天真爛漫で明るいミリーが珍しく落ち込んだ表情で沈んでいる。

「どうしたの? ミリー。何かあった? 私で良ければ聞くけど」

「レイチェルお姉ちゃん……うん、ありがとう」

 ミリーは目を潤ませながら俺たちに少しずつ理由を話してくれた。




 その話はこうだ。

 ミリーは最近カナリアを飼い始めたらしい。俺自身も時折、鳴き声が聞こえていたからミリーが鳥を飼ったんだろうな、とは思っていたが。

 そのフィッチと名付けたカナリアだが、昨日の昼頃、野良猫に襲われたそうなのだ。




「……昨日は、学校に行く日じゃなかったからお家の1階のリビングで勉強してたの。時計塔のお昼の鐘が鳴って休憩しようと思ったら上でバタバタって音とフィッチの鳴き声と……猫の叫び声がして……」

 と、話しながら流石に耐えられなかったのかシクシクと泣き出すミリーをレイチェルがヨシヨシと抱きしめてあげる。

 重ねて、ポケットからハンカチを取り出し涙を拭いてあげている。

 実の姉妹以上に姉妹らしい。

「大丈夫? ミリー。……辛かったわね、それは」

「うぅ……レイチェルお姉ちゃん、ありがとう。ウワーン……」

「…………」

 レイチェルは、自身に縋り付くように身を寄せるミリーの頭を優しく撫でてあげる。何度も、何度も。

 鼻を啜りながら少し落ち着いたのかミリーは続きの話を再開する。

 つまり、猫とカナリアの鳴き声で気付いたミリーが2階の自室に入った時には既に両者の姿は消えてしまっていた、ということだ。

「しかし、カナリアは鳥篭の中に居たんじゃなかったのか?」

「……ミリーが鳥篭の鍵を閉め忘れてたんだと思う」

 なるほど、それなら猫が獲物に手を出せたのも道理、か。

 気付くとレイチェルがこちらを睨んでいる。ミリーが傷付くようなことを言うな、ということらしい。

 ……事実を確認しただけだったんだが、これはレイチェルの言う通りだな。

「すまん、ミリー」

「ううん、アシュレイお兄ちゃんは何も悪くないよ。悪いのは鍵を掛け忘れてたミリーだから……うぅぅ……」

 と言って、またレイチェルの胸に顔を埋め、肩を震わせてシクシクと泣き始めてしまった。

 頭を再度、撫で撫でしているレイチェルのジト目を何とかやり過ごせないかと外を眺めていると例の時計塔が目に入った。



 んん?

 ふと気付く違和感。

 時計塔の文字盤が……12:00?

 それを認識した瞬間、俺はハッと懐中時計を取り出す。

 そこにある文字盤は18:00。

 え? 時計塔がくるった?

 いや、図書館を出る時、俺自身が17:35だったのを確認している。

 こんな短時間で大きく時間がくるうことがあるのか?


 もう一度、時計塔を見直す。やはり、そこにあるのは、


 12:00


 ただ、いつもの文字盤と違い、その数字と針先に青白い炎が灯っている。

 なんだ、これは?


「アッシュ?」

 俺の様子がおかしいことに気づいたらしいレイチェルが声をあげた瞬間。




 それは、あまりに唐突だった。


 世界が突然、淡いモノクロームに染まった。色が失われ灰色のフィルターが掛かったように。

 全ての動きと音が静止して、レイチェルも、その胸に顔をうずめるミリーも馬車さえも、まるでその時間を切り取ったかのように全てが止まっている。

 無音・無動の世界。


 なんだ……なんなんだコレは!?


《ウフフ……》

《アハハ……》

 突然、頭の中に響く笑い声。

 灰色に染まる静止した世界の中、青い燐光を纏った少年少女達がゆっくりと、宙に浮いていた。

 銀髪と黄金色の瞳が輝く彼らの顔には、なんだろう……まるでかつてないはどの痛みと悲しみが刻まれているようにも見える。

 痩せ細った手足、衣服の切れ端が風に揺れ、その姿はまるで見捨てられた亡霊のようにも見える。


 なんなんだ、こいつらは!?


 彼等は全ての動きがなくなり静止した世界の中、ピクリとも動けない俺を取り囲む。


 ……これは……『天使』?


《……見つけた……》

《この町の嘘をあばける者……》

《君には……》

《やり直しの機会を上げる……》

《もし、守りたいモノがそこにあるのなら……》

《その意志があるのなら……》


 …………何の意志!?


《……君が望む、守りたいモノ……》


 ……守りたいもの?

 ——自由に動かせない視界の端に、レイチェルにしがみついて啜り泣くミリーの泣き顔。

 ——俺は……


《君の……守りたい意志……》


 天使達はまるで感情の失われた能面のような表情で囁く。


《……これは、契約だ……》

《……君と……僕たちとの……》

 だから——

《……守りたいモノを……取り戻すんだ……君自身の手で……》

《そして……》

 ——見つけて……私たちが奪われた命を取り戻して。


 瞬間、世界が反転した。





 気がつくと俺は部屋の中にいた。

 それも知っている部屋だ。

 そう、俺の実家の隣、何度もお邪魔したことのあるミリーの家のリビング。何故か俺はそこにいた。

「あれ? アシュレイお兄ちゃん? お家に来てくれたんだ。どうしたの?」

 俺の前にはいつものミリーがいた。先程までの泣きべそ顔ではない。いつもの明るさ満点のミリーだ。

 ミリー・クリエッタ。亜麻色のふたつくくりのお下げにつぶらな瞳が特徴の俺たちの大事な、もう1人の妹分。

 その手に鉛筆を手にしている所を見ると勉強中だったらしい。


 これは……どういうことだ……

 落ち着け、俺。


 一度、大きく呼吸を吸って、それをゆっくり吐いて頭の中をクリアにする。

 いつも通りだ。

 いつも通り、『観察』し、『分析』と『推定』を繰り返すんだ。


 辺りを見回す。先程まで俺を取り囲んでいたあの天使達はもう居ない。

 あれは……夢? それとも死後の世界?

 俺は何をしていたんだ? 思い出せ。

 俺は、普段通りに図書館で仕事をしていた。

 来訪者はほとんど居なくて早目に閉めようとしたらレイチェルが来て、資料探しに手間取って……

 そうだ。あの時、手にしたのが『天使』の絵。

 そして、帰りの辻馬車の中でミリーに会って……

 でも、今はミリーの家?

 そもそも、先ほどまでの夕暮れとは違いまるで真っ昼間のように陽の光が窓からさしている。

 取り敢えず思いつくキーワードは……


 ミリーの家、リビング、勉強……


 分析……先程ミリーから聞いていた状況に酷似している?

 ハッとして、窓の外を見る。

 そう。

 町のどこからも見えるほどの高さでそびえ立つ時計塔の針は……


 11:45を指していた。




「どうしたの? 変なアシュレイお兄ちゃん(笑) お母さん、お買い物に行って留守だからミリーがお茶を出してくるね」

「あ、おい。ミリー、実は……」


『お前の飼っているカナリアが野良猫に襲われそうなんだ!』と言おうとしたのだが、何故かその後半の言葉は言葉にならなかった。

 舌が何故か動かない。

 ミリーに伝えなければならないのに。なぜ……?

「どうしたの? 変なアシュレイお兄ちゃん。『実は』って何なのかな? 取り敢えずお茶しながらまた聞かせてくれるかな?」

 そう言ってミリーは台所にお茶を取りに行ってしまった。

 傍目からすると勝手知ったるとは言えアポ無しで突然訪れた来客に対して本当にできた娘だよ。

 それは兎も角。


 これはどういうことだ?


 推定される事実としては……本当に昨日の『ミリーのカナリアが猫に襲われる前の時間』なのか? それとも単なる夢? あの天使達に連れ去られてしまった死後の世界線ってのだけは勘弁願う。


 わからない。

 本当はただ馬車の中で俺自身が寝こけているのかもしれない。

 ……だとしても、だ。


 考える。

 僅かでも、これが、可能性がある話、であるのなら。

 それが夢みたいな話であったとしても。

 あの……ミリーの悲しい顔を防げるのなら。また、レイチェルのジト目を浴びずに済むんであれば。


 ——やれることは取り敢えずやってみるべき、か。


 そう自分の中で結論づけて台所にいるミリーの所へ行こうとドアに手を掛け……

 手がすり抜けてしまった。


「あれ?」


 思わず声が出てしまった。

 ドアノブに手を掛けて押し開こうとした瞬間、俺の右手がドアを突き抜けてしまったのだ。いや、比喩じゃないって。

 ドア板に俺の手首までが飲み込まれてる状態。

 落ち着け。特に痛みはない。

 恐る恐る右手を引っぱり抜くと俺の右手は無事、戻ってきた。大丈夫、怪我はないし、グーパー出来る。

 なんだこれは? 怪奇現象か?

 もう一度、ドアノブに手を掛ける。ノブに触れている感触はある。

 で、そのまま回してドアを開こうとした瞬間、再び右手はズレてドア板に喰われてしまう。

 これは……まずいかもしれん。

 と、焦ってる俺の前でドアの方がバタンと開いてしまった。

「あれ? どうしたのアシュレイお兄ちゃん? こんなドアの前で立ってて。ほら、ちゃんとミリーがお茶入れたからそこで一緒にお茶しようよ」

「あ、ああ。すまんな、ミリーがどんなお茶を入れるのか気になってしまって」

「やだなぁ、アシュレイお兄ちゃん。もうミリーだってお茶ぐらい入れられるよ。お母さんに習ったんだもん」

 渋々、元のテーブル席に戻る。大丈夫。椅子に座ることは出来る。突き抜けることはない。

 恐らく、『触れる』ことは出来るのだろう。

 だが、『押したり引いたり』、物の位置を変えることは……多分、出来ない。

「はーい、これがミリー特製紅茶でーす。良ければ感想を教えてね、アシュレイお兄ちゃん」

 ……現時点で自分がどんな『存在』になってしまっているのかの疑問は甚だあるが、先の現象から推察するにこの目の前の紅茶も俺は『飲む』ことが出来ない可能性が高い。

 そもそもティーカップを持ち上げることすら出来ないんではなかろうか。


 でだ。

 このまま出してくれた紅茶の前で固まってしまっているとミリーが不審に思ってしまうのは明らかだ。

 どうしたら、と困ってしまって外を見ると既に時計塔の文字盤は11:55を指していた。

 ミリーは『お昼の鐘の音が鳴った時』に猫とカナリアが争う音を聞いた、と言っていた。

 時計塔のお昼の鐘の音は12:00だ。


 まずい。


 このままでは、またミリーの話していたことが繰り返してしまう。

 ……ような気がする。

 しかし、俺はミリーにその事を伝えることができない。

 伝えようとしても何故か舌がこわばってしまって言葉にならないのだ。

 どうすれば……

「変なアシュレイお兄ちゃん? ところで今日はどうしてミリーのお家に?」

 そうだ、それだ!

「そうそう! 最近、鳥の声が聞こえてきてな。もしかしてミリー、最近、鳥を飼ったのか?」

「うん、そうなんだ! お父さんがこの間の試験、頑張ったご褒美だよってフィッチを買ってくれたの。すっごく可愛いんだよー」

 ……よし、この話題なら喋れる。

「そうか、それは良かったな。良ければ俺にもそのカナリアを見せてくれないか?」

「あれ? アシュレイお兄ちゃんにフィッチがカナリアだって言ったっけ?」

 おっとまずい。

 口が滑った。

 緊張で喉が少し乾くのを自覚しながら場を誤魔化す言葉を慎重に選ぶ。

「いや、鳴き声でカナリアだろうとな。そうだったのか?」

「うん、そうだよ。さっきも言ったけど、すっごく可愛いんだ。じゃあ、アシュレイお兄ちゃんにも見てもらうね。鳴き声もすっごく可愛いんだからねー」

 ……危なかった。


 ミリーは直ぐにリビングを出て2階に上がって行った。

 それからしばらくして、

『な、なにコイツ! ダメ!』

『ニャーギャニャニャー!』

『あ、鍵が開いてた! 危なかったよー!』

 そんな声が上の方でドタバタと聞こえてきて……

 まぁ……これは……間に合ったのかな。

 と、ふと時計塔を見ると12:00を示しており、


 リーンゴーンリーンゴーン


 昼の鐘の音が町中に鳴り響く中。




 またしても世界が灰色のモノクロームに染まって……再び、反転していく。


 世界が反転していく。


 世界が反転。


 …………




 ふと、気がつくとそこは再び馬車の中だった。

 夕日ももう落ち掛けており辺りは薄暗い中、ランタンを灯した馬車はクロノクル市の郊外へと進んでいく。

 隣ではレイチェルとミリーが楽しげに会話していた。

「そうなんだ、ミリー。カナリアを飼い始めたの?」

「うん、そうなの。すっごく可愛く鳴くんだよー。またレイチェルお姉ちゃんも見に来てよ。あ、アシュレイお兄ちゃんも一緒に」

「て、お誘いされてるわよアッシュ。そんなにボーッとしてどうしたの? 司書の仕事は何もなくて楽ー、てさっき言ってたのに。……それとも私の探し物に付き合わせちゃったのが疲れちゃった?」

 ちょっと申し訳なさそうにこちらをうかがうレイチェルに、苦笑を返して応える。

「いや、一緒に見に行きたいよな。その時はまた美味しい紅茶をお願いするぞ、ミリー」

「うん! この間、お母さんに習ったんだ。2人とも楽しみにしててよー!」 

「うん、私も楽しみにしてるね」

「ありがとう! レイチェルお姉ちゃん。そう言えば明後日の日曜からのオフィエル祭なんだけど……」

「ミリーもお祭りに行くのよね。今度、一緒に行こっか?」

「うん!」

 ……ミリーが笑っている。いつもの明るい笑顔で。

 もはや、あの泣き顔は、俺の記憶の中だけのものになっていて、その面影はどこにもない。

 何が起こったのか、俺にはまだ理解は出来ない。

 俺は本当に……時間を巻き戻したのか?

 それとも、ただの夢だったのか?

 でも、ミリーのこの笑顔を守れた。

 それだけは確かなのだから。



⭐︎⭐︎⭐︎

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る