桔梗の原

朔巳 了

桔梗の原

炎陽のほてりも薄らぎはじめたある朝。新緑の原に点々と、ちいさな紙風船のような蕾と星の姿をした青紫色の花弁が光り輝く。一面の桔梗。その鮮やかな対比を溶かすように、乳石英の柔らかな光の朝露が辺りを覆う。輪郭のどこか曖昧な、夢の中にも似た風景がそこにあった。


夏の恋人たちの涙は白露となり土に零れ落ち、秋を彩る花々がそれを飲む。そして在りし日の蜜月の色で咲く──。

 

 以前ここを訪れたとき、彼女はそんな話をぼくに聞かせてくれた。スカイグレーのワンピースをなびかせ踊るように振り返り、はにかみながら見せた笑みは、真夏の陽射しに照らされまばゆく輝いていた。

 

 そよぐ風に夏秋それぞれの匂いが混ざりあい、いま再び同じ場所で佇むぼく達を包んでいる。あの時と違うのは、次の約束はもう無いということ。重ねてきた思い出は、幾度となく見たこの風景の中で終わろうとしていた。

 

 彼女はあの夏と同じワンピース姿。けれど色は違っていて、どこか冷たく、よそよそしいほどに深い黒色。まるでなにかの絵画のように桔梗の原の真ん中に立ち、しゃくりあげながらほろほろと涙を零し続けていた。

 

 ……してる。

 

 涙声は鼓膜をたたく強風にかき消されほとんど聞こえない。ぼくは何度も聞き返す。けれど彼女はただ俯き肩を震わせるだけだった。

 

 ……りがとう。

 

 近寄ろうと歩みを進めてみても、一向に彼女のもとへは届かない。まるで何かのパラドクスのようだ。

 

 ……よなら。

 

 彼女の生まれつき白い肌は、いよいよその儚げな光を増し、もうほとんど透き通っていた。それどころか、ワンピースの黒色さえも透過して、向こう側に咲く花々が覗えるほどだ。

 

 巻雲流れる空の青、地平線を隔て野の緑、散りばめられた桔梗の花、蕾。泣きじゃくる彼女の姿がそれら全てに音もなく溶け混ざる。手を伸ばすこともままならない速さで輪郭が失われていき、やがて完全に消えてしまった。

 

 ほくはひとり原の真ん中で、空を仰いだ。ここはふたりでいちばん多く訪れた場所。ぼく達の原風景といってもいい。桔梗咲く原。これが走馬灯の見せる最後の風景だとしたら、いくばくかの気休めにはなるだろうか。

 

 彼女を置いていくのは心が痛む。けれどもう二度と戻れはしないだろう。頬を伝った涙のひとつぶが、足下のひときわ大きな蕾の上に落ちて弾けた。

 

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桔梗の原 朔巳 了 @wabisukechan

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