第32話 来訪者 3


 手を引かれて101号室に戻った皓子は、アリヤによってダイニングのソファに案内された。隣にアリヤも腰かけると、労るように声をかけてきた。


「大丈夫?」

「驚いただけで、平気だよ。アリヤくんこそ大丈夫? その、お父さんがごめんね」

「皓子ちゃんが悪いわけじゃないでしょ。ちょっと待ってて、お茶出すから」


 おかまいなく、と言うより早く、さっさと立ち上がったアリヤは台所に消えてすぐに出てきた。

 お茶の入った硝子製のボトルとコップをトレーに乗せて持ってきて、テーブルへ置く。よく冷えているのだろう。お茶が注がれたとたんにコップの側面は汗をかいた。

 皓子の前に一つ置いて、アリヤがまた隣に腰かける。


(心配かけたのかな。わざわざ横に座ってくれて……いや、魅了の効果なのかも)


 大門の魅了の効果が大して効かないと吉祥は言っていたが、どの程度まで平気なのかも皓子にはわからない。


「本当に平気? 魅了使われて、具合が悪くなったとかない?」

「具合はむしろ良いくらいだよ」

「気分の高揚とかは?」

「それは、まあ」

「あるの?」


 やはり効果が出ていたのかと隣のアリヤを見る。アリヤはコップのお茶で口元をしめらせて、間を置いてから逆に質問を投げかけてきた。


「俺の部屋に連れて行っていいって管理人さんが言ったってことは、お許しが出たと解釈していいと思う?」

「ばばちゃんの許し?」


 どういうことだろうと首を傾げると、アリヤはすこし逡巡したが幼子に言って聞かせるみたいに優しい口調で答えた。


「俺、けっこう……ああいや、かなり……んー、違うな。滅茶苦茶気になってるんだ」


 話の意図が見えない。いや、もしかしてと予想はしたが、戸惑いに皓子はアリヤを見返すしかできなかった。

 そんな皓子の様子に、アリヤは楽しそうに口元を緩めた。からかい混じりのような、軽いほんのジョークだよ、とでも言ってくれるのかと思えば違った。


「皓子ちゃん、俺、前に注意したよね」


(注意……?)


 アリヤが皓子に言ったことを思い返してみるが、浮かぶのは水茂と出かけたときに、好き勝手に動くなということだった。考えなしは嫌いとまで言われたインパクトは忘れがたい。

 だが、この場に当てはまることだろうか。

 もしかして、皓子が知らない間にアリヤの気にくわないことをしたのだろうか。疑問が出ては沈みきりがない。

 結局よくわからず、皓子は「なんだったっけ」と正直に答えた。アリヤはそれもわかっていたのか、軽く息を吐き出すように笑って、上体を皓子のほうへ寄せた。

 とん、と肩が当たる。


「迫る目的だったら、どうするのって」


(あ、ああー! あのときの!)


 水茂とアリヤと出かけて帰ってからのとき。アリヤの部屋の前で、心配から言われた言葉。

 納得して両手を打てば、アリヤはやや拍子抜けしたように表情を困らせた。


「あのさ、皓子ちゃん」

「なあに?」

「全然意識されないってのは、結構こたえるものなんだよね」

「うん」


 相槌をすれば、アリヤは姿勢を正して皓子を見据えた。


「というわけで。これから、俺は全力で、皓子ちゃんを誘惑するので。そのつもりでいてね」

「えっ? え、なんで」

「でも今日は、やめとく。付け入って、依存されたいわけじゃないから」

「あの、アリヤくん?」

「言ったでしょ、皓子ちゃん。俺、滅茶苦茶気になってるんだって」


 それは、どういう。

 思わずたじろいた皓子に、口角を上げてアリヤは囁いた。濡れた唇から出る、低く甘い声が皓子の耳朶をくすぐる。


「ねえ。好きって、言ってほしい?」

「……っう、ひ、あ」

「あはは、可愛い。よかった、反応してくれて」


(し、心臓に悪い!)


 皓子は胸元を押さえた。距離をなるべく置こうと、ソファの肘起きに寄りかかる。

 遅れてバクバクとなり始めた鼓動に、血が回りすぎたみたいに首から熱くなった。体を起こしたアリヤが笑う。


「そういう姿、いっぱい見せてね」


 機嫌良く言われて、皓子は顔を伏せた。

 からかわれたのか、違うのか。

 わからないままで、迫ったアリヤの様子が頭から離れない。


「あの、その、お手柔らかにお願いします……」


 わからない思考のまま、手加減を願って皓子が返事をすれば、また機嫌良くアリヤに笑われた。


 告白というには、また違うようにもとれる宣言をされたが、その後は普通に和やかな時間だった。

 今日は何もしないよ、との言葉通り、アリヤはその後吉祥の連絡が来るまで皓子をもてなしてくれた。

 適当な話題を振っては返し、今やっている授業の復習まで実によく面倒をみてくれたのだ。ただ、先ほどのこともあって皓子がアリヤをうかがうように見れば、嬉しそうにしてくれたのは気恥ずかしかった。


「じゃあ、また明日」

「今日は本当にありがとう。また、明日」


 手を軽く振って別れる。

 アリヤのおかげもあって、大門と会ったときの緊張や不安は、かなり軽減されたように感じる。

 改めて帰宅した皓子は、今度は変に緊張せずに大門へ向き合えた。




「皓子」

「こんにちは。お久しぶりです」


 親子というには、他人行儀な挨拶となってしまったがいいだろう。


(だって、よく知らないし……)


 独りごちて皓子は、居間に正座する大門を見る。

 大門の様子は、お世辞にも明るくはなく、ただじっと皓子の名前を呼んで見つめるだけだ。なんだか皓子を通して別の誰かを、母を見ている気がした。


「皓子……皓子。ああ、久しぶりだ」


 けれど、父だという大門が皓子の名前を何度も呼ぶのは不思議な心地がする。


「大門、今日の用事について、皓子に言ってみたらどうだい」

「言われなくてもそのつもりだ」


 吉祥をじろりと睨んで大門が言う。


「今日、僕は提案があってきた。悪くない話だ。皓子、ここを出て僕と暮らすつもりはないか。家だって部屋だってある。不便はさせない」

「今更だね」

「伝手でお前の様子は、これまでも見ていたんだ。来年は受験もあるだろう。静かな場所で落ち着いて過ごすことは大事だと思ったんだ。本当はもっと早く迎えに来るつもりだった。だというのに……」

「慣れた暮らしより、アンタと暮らすことがいいって思うのかい?」

「黙っててくれ」


 辛辣な調子で口を挟む吉祥に皓子は苦笑いをする。

 内心でまったく同じ意見だと思ったが、口には出さないでおいた。代わりに言葉を変えて返す。


「気持ちはありがたいですが、私はここに居たいんです。受験も、勉強も、心配はいりません。自分で、がんばります」


 それだけ伝えて、皓子は頭を下げる。それを大門は難しい顔をして見下ろした。


「ほらね。このアタシが手塩にかけて育てたんだ。アンタのように軽率に判断はしないのさ」

「皓子、それでも。機会があるなら、いつでも声をかけてくれ」

「……ええ、はい。機会があれば」


 遠回しに無理の意味を込めて返すが、伝わっただろうか。むっつりと黙った大門は、立ち上がった。


「また来る」

「来るなら土産を持ってきな。いつもの趣味の悪いものじゃないことを願うね。アンタは昔っから旦那に似てセンスが悪い」

「皓子、体には気をつけなさい」

「はい、ありがとうございます」

「さっさと帰るなら帰って、世流に詫びの一つや二つをするんだよ。そら、お行き」


 気安く話せず、距離を置いた言葉で皓子が礼を言えば、大門に悲しそうな顔をされた。

 だが吉祥はお構いなしに言い放つと、大門を追い払う仕草をした。

 酷くなじったり興奮したりはせずに雑に玄関へと追いやる姿は、なんとなく吉祥からの情が読み取れた。本当は大門とも暮らしたいのだろうかと思えたのだ。

 後ろで控えていれば、お見通しだったのだろう。吉祥は呆れた風を隠さずに、皓子の額を指で弾いた。パチン、と軽い音が鳴って額を抑える。


「い、痛い」

「痛くしたんだから当たり前さ。皓子、アンタのことはこのアタシが責任をもって育てたんだ。堂々としな」

「ばばちゃん」

「……腹が減っちまったね。アンタ、また菓子を作ったんだろ。まだ冷蔵庫にあるから、それを取って茶でも淹れとくれ」

「うん、任せて」


 そしていつもの調子の憎まれ口に、皓子はやっと人心地ついて吉祥に抱きついたのだった。暑苦しいと文句を言われたが、離れろとは言われなかった。







 濃い休日を過ごしたその翌朝。

 メッセージの着信音で皓子は目が覚めた。眠たいまぶたを擦ってベッドに置きっぱなしの携帯端末を手で探る。時刻を見れば、ほどなく八時になる。


(寝過ごした!)


 一気に目が覚めて勢いよく体を起こす。

 掛け布団を畳み、慌てて制服を探しながらメッセージを確認する。忍原か諏訪からの連絡だろうかと準備の片手間に見れば、違った。アリヤからだ。


『おはよ、皓子ちゃん。朝のゴミ出しで見なかったから、どうしたのかと思って連絡してみた。寝坊?』


(あああ! ゴミ出しも出来てない!)


 制服の袖を通して、昨夜準備しておいた鞄をひっつかみ居間へ駆け込む。朝のテレビを見ていた吉祥が眉をしかめている。


「ばばちゃん! 起こしてくれたってよかったのに」

「昨日、自分でできるからと言ってただろうに。アンタの管理不足をアタシのせいにするんじゃないよ」

「ううう、その通りだけど……」

「おにぎりが台所にある。ゴミ出しはしておいた」

「わ、ありがとうばばちゃん! 次は気をつけます、いってきます!」

「慌てて、ヘマするんじゃないよ」

「はあい」


 台所にはラップでくるんだ丸いおにぎりが一つある。手のひら大のおにぎりをかじってお茶で飲み流す。アリヤには簡単に礼と寝坊したとだけメッセージを返して、玄関へと慌ただしく向かう。

 入り口近くでは万屋荘の前を自主的に掃除している飛鳥がいた。その隣にはノルハーンと田ノ嶋がいて会話をしている。ノルハーンの様子は昨日と比べるとしゃっきりとしていて元気そうだ。

 そのことにホッとしたが、話す余裕はない。


「おはようございます! いってきまーす!」


 駆けながら声をかけて、裏出の駐車場へと向かう。

 後ろからの「いってらっしゃい」を聞きながら自転車の鍵を外して乗り、ペダルに足を乗せて力を入れた。



 どうにかこうにか始業のチャイムが鳴る前に学校へ到着した皓子は、へろへろと自席に鞄を置いて座り、うつぶせた。

 隣の席の諏訪になぜか写真を撮られたが、緩くピースを返すしかできない。肩で息をしながら顔をあげると、また端末を向けて撮られた。


「こだくん、なんで写真なんか撮るの。福ちゃん用?」

「いや、上納用」


 そう言って、諏訪はタッチ操作をしている。


「まあ、ゆくゆくは、多分、きっと、こっこのためにもなるかなあと」

「私のため?」


 皓子のためと言うわりには、曖昧に濁している。どこかへ送ったのだろうか。皓子と話ながらも忙しなく指先を動かして、やがて吹き出した。


「こっこ、ま、がんばれ。相手は強キャラも強キャラだぜ」

「まって、話が見えないよ。誰に送ったの」


 指を止め、端末をしまった諏訪はにんまりと笑って言った。


「アリヤ」


 言われて、皓子は自分の端末を操作してメッセージ画面を開く。

 そこには『学校ついた? お疲れさま。また万屋荘でね』と簡単な言葉だけがきている。


(こだくんから変な写真送られてない? とか聞いていいのかな……いや、送ったってこだくんは言ってるし。消してってお願いしなきゃ)


 悩みながら文字を打とうとしたところで、教室の戸を開けて担任が入ってきた。


「おはよう。ホームルーム始めるぞー」


 気楽に生徒と話すことが人気のベテラン担任の声に、慌てて画面を閉じて鞄に入れる。


(アリヤくんが、わからない……!)


 意識をすれば、昨日のことまでずるずると思い出しそうになって突っ伏す。途端、担任から「織本」と名を呼ばれ、咄嗟に「元気です!」と返してしまうのだった。

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