第21話 201号室、見合いの小旅行 8


 田衛門が嬉々として、アリヤをしごいている。

 蛙の化生だが、侍みたいな格好をしているだけあって、まるで武家の鍛錬に見えてくる。

 内容は現代に即しているらしく、アリヤの走り込みを後ろから田衛門が蛙跳びで追いかけてくる神様式ブートキャンプみたいなことをさせられていた。逃げるに逃げられないということもあり、アリヤはやけくそ気味に付き合っているようだ。

 そしてそれは当然ながら注目の的のようで、女性従業員なのか他の宿泊客なのか、ちらちらと色めいた視線と黄色い声が二人に向けて飛んでいた。

 松葉の君。

 そう呼ばれてアリヤが顔を向ければ、きゃあ、と歓声が上がった。ちょっとしたアイドルみたいだ。

 だが、当のアリヤは気にしないのかまたさっさと走り出すし、田衛門は「現を抜かす出ないぞ」と言いながらさらに追いかけ回している。

 しばらく走り込んだら、疲れて逃げ込んでくるかもしれない。

 皓子は立て鏡から吉祥に、飲み物と昼食を頼んで、代わりに運ばれてきた昼飯をこっそりと送り込んだ。


(長くなりそうなら、中断してあげよう……)


 さすがにアリヤが可哀想である。

 アリヤを熱心に蛙跳びで追いかける田衛門という奇妙な絵面を眺めて、もう一度ピンチになったら吹いてあげるか、と手元の葉をつまんだ。


 しかしながら、皓子の予想は甘かった。

 昼休憩にしましょうと声をかけてみて、田衛門は腹ごなしも必要かといったん返っていった……までは良かった。

 その後、和室でうつ伏せたアリヤに佐藤原謹製の清潔保持用スプレー缶を使って身ぎれいにしてやり、下敷きであおぐ。

 徐々に元気が出たアリヤを起こして弁当と飲み物を渡す。もそもそ食べ始めるのを見守ってしばらく。

 田衛門は再びやってきてアリヤを連れ去った。

 思わず吉祥にヘルプコールをしてみたが、一笑されて終わった。吉祥がそうするということは、おそらく大丈夫ということなのだろう。

 とはいえ、なんと水茂が戻ってきてもアリヤはまだ戻ってこない。

 水茂に聞いてみたが「あやつはどうにも直情的すぎるでな。その点が駄目じゃの~」と乙女のチェックみたいな言葉が返ってきただけであった。


 結局、アリヤが戻ってきたのは、夕飯時を過ぎたころ。

 佐藤原のゲーム機が知らせる時刻が、十九時を過ぎたくらいに、縁側に倒れ込むようにして田衛門に運ばれてきた。

 田衛門のみ朗らかに水茂へ挨拶をして意気揚々と帰っていった。まるでいいことをしたとでも言うかのような姿であった。

 そろりと縁側にうつ伏せたアリヤに近寄る。


「アリヤくん、生きてる?」

「まじでついてきたこと、後悔してる……いま……」

「がんばったねえ、えらいえらい。アリヤくんすごい」

「止めて。優しく言われると胸にくるから……」


 ぐう、と唸ってアリヤが頭をうつ伏せた。

 大分疲れているようだ。ぱっと見たかぎりでは怪我はない。一息ついて、水茂と協力して部屋の中へとつれこんだ。

 それからまた同じように介助をして、今度は小部屋へと回復しはじめたアリヤを水茂が寝転がした。童女に見えてもその見かけ通りの力ではないのだ。

 布団に入ったアリヤはほどなくして「ねる……」とぼやいて目を閉じた。さもありなん。おやすみと皓子は小さく声をかけて、ふすまを閉めた。


「意外と頑丈じゃな、アリヤは。あの田衛門と駆け回っても怪我の一つも……いや、福運に恵まれておったな。ま、それも本人の力のうちゆえ、褒めてやらねばなるまいて」


 ふすまごしに水茂が手を打って、ひとつうなずく。


「まじないをしてやった。ちょいと寝れば、回復するじゃろ。こっこ、安心するのじゃ」

「ありがとう、水茂」

「よいのじゃ」


 褒めて、と寄ってきた水茂を一つ抱きしめて離す。


「アリヤがこのざまじゃからの。こっこ、今宵は一人で夜更かしなぞするでないぞ!」

「心に留めて、気をつけまあす」

「うむ。きっとじゃぞ」


 笑い合ってからその日のことを話し合い、やがて水茂に付き合ってずいぶんな早寝となった。

 今日も健やかに寝息を立てる水茂にあわせるように皓子も眠りに落ちたのだった。


 それがいけなかったのだろうか。

 早寝をした皓子は、またしても夜中に目をさましてしまった。

 咄嗟に横にいる水茂を見る。今夜も驚くほどぐっすりである。つついてみるが、煩わしそうに背を向けられた。駄目そうだ。

 なんとなく起き上がってぼうっとしていれば、小部屋のふすまが開いた。のそ、とうかがうようにアリヤが出てくる。

 アリヤは皓子が起き上がっているのを見つけると、疑わしそうに声をかけてきた。


「皓子ちゃん?」

「あ、えと、目が覚めちゃってね。でも、ちゃんとここにいるから。アリヤくんは?」

「トイレ」

「おお……ごめん」

「いや、べつに」


 そのまま眠そうな様子で障子戸を開け、出ていくのを見送ってから、また少し。

 戻ってきたアリヤが障子戸を開けたまま、後ろ手で皓子を招いた。なんだろうと立ち上がりそうになって、留まる。


「いや、偽物じゃないから。えーっと……質問あれば答えるよ」

「じゃあマロスさんの最近発表した絵のタイトル」

「……俺への嫌がらせじゃないよね? ……『野の若人』、公園のベンチに座ってる俺の絵」

「それのアリヤくんのカーディガンの色」

「緑」


 ぶっきらぼうに答えて、アリヤが振り向く。敷居をまたいできたことから、やはり本物かと安堵する。


「あの絵、万屋荘でマロスさんが描いてるのを見てたんだ。暖かくて、優しくて、幸せな絵で」

「そう。外、気になるんでしょ。見てみたら?」


 本物ならいいか、と皓子が立ち上がれば縁側へとアリヤは移動した。続いて縁側に出てみて、皓子は感嘆の声を飲み込んだ。

 雪だ。

 庭先は白く染まり、木々に雪の花を咲かせている。

 空が薄ら白く見えるのは、降り続ける牡丹雪のせいだろう。吐き出す息が凍ってしまいそうな光景なのに、寒さはちっとも感じない。だというのに、指先で触れた雪の欠片はじわりと溶けて水に変わった。


「あの絵、描くからって連れ出されたのは、冬でさ。ほんっとふざけんなよって思った」


 言葉は悪態まがいではあるが、声音は柔らかい。思い出したように小さく笑う声も聞こえた。


「父さんの絵、俺も好きだよ。まあ、本人の性格は作品に反映されないからね」

「マロスさん、いい人だけどなあ」

「皓子ちゃんから見えるのと、俺から見えるのは違うよ」


(いいなあ)


 つい、そう思ってしまった。

 羨む気持ちが出てしまわないように、「そっかあ」とだけ返す。不自然に思われないために、適当に話題をつなぐ。


「アリヤくんは絵を描くの?」

「描かない。忍耐強く描き続けるのって、性に合わないし……絵が得意だったら、この光景でも描いたかもね。皓子ちゃんは?」

「私も、あんまり」


 首を横に振る。前にマロスが「一緒に描いてみるかい?」と言って指導してくれたが、見事に描き上げられたのはそのときばかりくらいで、皓子の腕前は人並み程度だ。

 幼馴染の忍原のほうがよっぽど上手く描く。美術部員でもある忍原は、将来役立つだろうしと、速筆で描き上げる練習をしているという。


「……今日は、来ないね」

「もしかして、そのために今日は起きてきたの?」


 昨日のことがあって、警戒してくれたのか。皓子が驚いて言えば、アリヤは軽く手を振った。


「普通にトイレ行きたかったのもあるけど。ついで。皓子ちゃん起きてたし、またがあったら俺が怒られるし」

「う……その節はすみません。以後は気をつけて過ごしております……何かあってもアリヤくんが怒られないようにします」

「そうしてくれるとこちらも助かります」


 腕を組んだアリヤが皓子を見て言った。

 ちゃんと反省している、つもりだ。なんなら、今もその謝意をあらわすべく、皓子は頭を下げてみた。


「皓子ちゃんは、もうちょっと気をつけて。俺が言うのもどうかと思うけど、今だって、そうだからね」

「今?」

「……俺、本当に、異性って思われてないな……?」


 顔を上げれば、なおもアリヤはじいっと皓子を見ていた。

 半ば感動した風に言われたが、そんなことはない。

 日中の田衛門に追いかけ回されていたとき、黄色い悲鳴を上げられていた姿を見ても、モテる男性だと皓子は思ったのだ。

 ずいと近寄ったアリヤが皓子の顔をのぞき込む。紙の面ごしではあるが、さすがに気まずい。のけぞれば、腰元に手が回る。

 そのまま黙って至近距離で見られた後に、解放された。


「……紙が邪魔だなあ」


 ぼやいてアリヤは、興が冷めたとばかりに皓子の肩に手を置くと、くるりと皓子の体を部屋のほうへと向けた。


「あ、アリヤくん?」

「うん、おやすみ」


 皓子の言葉を遮って、肩を押される。

 そのまま一歩二歩と進んで中へと入れば、障子戸を閉めて、アリヤはさっさと自分の部屋としている小部屋へと戻っていった。


「おやすみ……?」


 皓子が返した挨拶は、代わりに水茂の寝息が応えたのだった。




 翌朝は珍しく寝過ごした。

 揺り起こされて慌てて起きれば、水茂が小部屋に向かって注意している最中であった。


「こっこが起きるまではこちらに来るでないぞ! 乙女の寝顔を見るのはだめなのじゃ。いくら承知してるといっても話は別じゃぞ。それにデリカシーがないアリヤゆえ、わしは信用ならん! まだじゃからな!」


 見えていないだろうに、人差し指を向けて言う水茂に、明らかに適当に返したアリヤの声がふすまごしにする。


「はいはい」

「はいは一回でよいわ。だいたいお前、昨夜はなんじゃ」


 鼻息荒く言う水茂の袖を引いて、抑える。


「おはよう、水茂」

「む? おはようなのじゃ、こっこ。着替えをしてやるゆえ、しゃんとするのじゃぞ」


 布団の上で姿勢を正せば、ぽんと水茂が手を合わせた途端に着替えが終わる。ついで、布団を畳んで、部屋の隅に重ねる。

 待たせては申し訳ないと、アリヤに声をかければ「おはよう」と緩い調子の挨拶とともに小部屋から出てきた。


 三晩もたてば、すっかり慣れた様子で朝食と仕度が終わる。


「今日で終わりじゃからの。手早く終わらせてくるのじゃ!」


 言うなり、気合い十分に片手を上げて宣誓をした水茂は、美しい着物をひるがえして駆けていった。見合いというには、いささか勇ましすぎる出陣姿に苦笑いを浮かべて見送る。

 外は昨夜に引き続き冬模様だ。

 一日ごとに季節が移り変わる場所なのかもしれない。

 皓子たちが来たときは、春。田衛門と水茂が出かけたときは、夏。穂灯の番が秋。又三郎が冬。

 体感三泊四日で一年の季節を巡ってしまった。いろいろな景色が見られて、結果的に得をした気分である。

 障子戸を開けて縁側の外の庭を見ながら、皓子は伸びをした。


「もし」


 遠くで声がした。

 見れば、庭先の整えられた低木の向こうに人影が見える。皓子が立ち上がってのぞき込もうとしたところで、アリヤが待ったをかけた。


「どこに行くの?」

「庭から声が」

「ふーん。どのへん?」


 アリヤが縁側に出て降りた途端。


「松葉! 本日もやるぞ!」

「は?」


 思いっきり素の声を出したアリヤを、田衛門が横から抱えて跳ねて飛んでいった。一瞬の間のことである。


「え、ええ……」


 唖然としている皓子に、また声がかかる。


「もし。こうこちゃん」


 皓子の名前を知っている。そしてこのイントネーションで呼ぶのは、田衛門と穂灯くらい。

 田衛門は先ほどアリヤを連れてどこかへ行った。消去法で残ったほうの名前を皓子は口に出して投げかけた。


「穂灯さんですか」


 低木の葉が揺れて、積もった雪が落ちる。そうして、細面の男がひょっこりと顔をのぞかせた。だが、皓子の前には来ず、その場に留まっている。

 雪がちらついているため、表情がよく見えない。ただ、警戒していると、なんとなくわかった。


「……この場より、失礼いたします」


 ぺこり、と軽く礼をする様子が見えた。皓子もまた礼を返してみれば、また少し沈黙してから、穂灯は話し出した。

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