第8話 103号室、霊障拡散


 田ノ嶋の煙騒ぎが終わってからしばらく。

 新年度始まっての授業もなんとか乗り越え、早くも到来する大型連休を前に浮き立つような日のこと。

 半泣きの田ノ嶋が、大家の部屋のドアを叩いて現われた。

 パンツスーツの仕事着のまま、化粧は崩れ、ぼさついた髪で訪れた田ノ嶋は、眉をひそめた吉祥に縋って言った。


「管理人さあん! 今回の心霊現象やばいからどうにかしてえ!」


 しかしそこはケチな吉祥。追いすがる田ノ嶋を躊躇なく剥がしながら「見返りは?」なんて返す。慌てて皓子が吉祥を諫めても、聞く耳を持たず、ツンと顎をそらしている。


「第一、アンタは自分でどうにかできるだろ。アタシが手を出すなんて面倒はイヤだね」

「そこをなんとかぁ! いつもより見た目がグロくて精神的に無理ですうう」


 おいおいと泣き出した田ノ嶋に、吉祥は皓子を見た。嫌な予感というものは当たるものだ。

 そろりと後退りする皓子に、吉祥は無慈悲に告げた。


「皓子、アンタが他の部屋も見回ってきな」

「うっ、やっぱり?」

「アタシは万屋荘のまじないの具合を見るんだから、当然だね」

「私がそっちをするとかは、駄目?」

「アンタにゃまだ十年早いよ。出来もしないことを言うんじゃない」

「言ってみただけだもん」


(私も幽霊、あんまり得意じゃないんだけどなあ)


 はあ、と皓子が息をつけば、ひしっと田ノ嶋が抱きついてきた。


「うう、織本ちゃんありがとお……私、この部屋からもう出たくない」

「邪魔だから部屋に帰してきな」

「管理人さんがつめたい!」


 縋る田ノ嶋の背を撫でて、仕方ないと皓子は腹を決めた。

 抱きつかれたまま部屋を出るために歩けば、ずるずると田ノ嶋もついてくる。すっかりまいってしまっているらしい。いつものきりっとした様子とは程遠い。

 ドアノブを回して外へと出れば、案の定と言えば良いのか、異様な光景が広がっていた。


(うわあ……お化けのワンダーランド)


 早すぎるハロウィーンのようだと感想を抱いてしまう。

 首なしの半透明の人体が壁を這っていたり、見るからに異形の何かが視界の端を蠢いている。

 だが、攻撃されたり何か行動をしてくる様子はない。皓子の害意や敵意からは守られる特殊能力のおかげだった。元悪魔である祖母由来の力に感謝である。

 ただ、田ノ嶋にはちょっかいがかけられている。

 田ノ嶋のズボンの裾を引いた目玉のない子どものような生き物に、田ノ嶋の喉がぎゅうと鳴るのが聞こえた。

 しかし、皓子はとくに心配はしない。直後、その生き物に田ノ嶋の拳が振り抜かれ霧散したからだ。

 吉祥の言う、田ノ嶋一人でどうにかできる、というのはこういうことであった。


 この元魔法少女は、物理特化なのだ。


 幽霊だろうと化け物だろうと、拳一つでどうにかできるのだが。いかんせん、田ノ嶋はこういった心霊関係が苦手なのだ。こういった事態に巻き込まれると、皓子たちの元へ一目散に駆け込んでくる。

 田ノ嶋はべそをかきながらも絡んでくる異形を殴り飛ばし、自分の部屋の前で皓子の健闘を祈ると涙目で戻っていった。

 付き合うのは無理と何度も言っていたし、その様子も悲壮極まりない。一緒に見回るよう頼むこともできず、皓子はそのまま見送るしかできなかった。


(ええと、気を取り直して。まずは水茂のところからかな)


 万屋荘の守護と考えれば、まず最初に神様見習いとして加護を住民に与えている水茂の安否確認が一番だろうか。

 もっとも、大丈夫だという確信はある。

 もし仮に何かあれば、部屋にまでこのおどろおどろしい霊やら化け物が現われているはずだ。田ノ嶋は仕事帰りに運悪く遭遇してしまったのだろう。

 通りすがる透明な人々を努めて無視をして、皓子は口元を引き結んで階段を上がった。いくら害されないとはいえ、気味悪いものは気味悪いのだ。

 なるべく早歩きで201号室へ進んだところで、宙へ浮いているカワウソの姿を見つけて立ち止まる。

 水茂だ。

 どうやら幽霊相手に修行としゃれ込んでいるらしい。

 短い腕をボクシングのように打ち込みながら異形相手に飛びかかっている。興が乗っているのだろう、「取るに足らぬのじゃ!」と弾んだ声を上げた様子は、遊んでいるようにも見える。


(……大丈夫かな、これは)


 あえて声をかけなくてもいいだろう。ひとまず、なるべく静かに柏手を打って、拝んでおいた。お祈りパワーか何かで水茂が強化されるかは不明だが、気休めだ。

 気を取り直して隣室の、202号室へと足を進める。チャイムを押して飛鳥を呼び出す。


「こんばんは」

「こっこちゃん、どうかした?」

「ちょっとしたことがあって、安否確認に回ってるの。何か困ったことがあるかな」

「いや、とくには……?」


 飛鳥は、いわゆるゼロ感だ。

 そういったものが一切見えない代わりに、干渉を一切受けない。今もなお皓子には見えているカオスな現状は、飛鳥には一つも見えていない。首を傾げた飛鳥に、それならよかったと微笑んで皓子は手を振って別れる。

 田ノ嶋を慰める提案もできたが、きっと部屋を開ける開けないの攻防が起きそうだと予想できたのでやめておくことにした。


(次は、佐藤原さん)


 続けて203号室のチャイムを鳴らせば、インターホンごしに「今、生きの良いサンプル確保の最中ですので、すみません」と丁寧に言われた。大丈夫そうだと息をついて、念のため「お気を付けて」と言って離れた。


(……さて)


 問題は次の部屋だ。

 気合いをいれて階下へと向かう。

 おそらく、原因はここ。

 皓子はあえて見ないふりをしていたが、うようよと幽霊が集まっている場所がある。まるで海底で波打つ海藻みたいにゆらゆら揺らめいて103号室の周りを漂っていた。

 そして、そのどれもこれもが、現代日本とは思えない格好の人らしき何かであったり、あからさまな異形である。

 実はこういった騒動は、これで二度目だ。

 あれは皓子がまだ中学に上がったばかりの頃で、ちょうど世流一家が住み始めたくらいのときだった。初めて見る異形の幽霊たちに、思わず涙目になって吉祥にしがみついたのは苦い思い出となっている。


(確か、あのときはちょっとした夫婦喧嘩が原因だったっけ)


 妻であるノルハーンが「もっと私を頼ってちょうだい、ダーリン!」という抗議の喧嘩であった。その末、世流が管理していた道具が壊れて、惨状が出来上がった。

 喧嘩の理由は可愛いものだったが周囲の被害は可愛くおさまらなかった。


(今回もそうなのかなあ)


 あれほど仲良しの万年新婚夫婦が喧嘩なんて珍しい。皓子は一つ呼吸を置いて、103号室のチャイムを押した。

 重苦しい周囲の存在がざわめく。

 うぞうぞと動くのがまたイヤな感じがして皓子はたまらずもう一度チャイムを重ねて押した。

 そのことで急かされたのだろう。やや慌てた様子でドアが開いた。

 丸眼鏡の世流が顔を覗かせる。

 顔色の悪い顔面はクマがあり、その額には冷却用のシートが貼られ、首元には湿布薬をしていることから、修羅場最中だったかと外見から判断できる有様だった。

 貼薬特有の臭いが漂う中で、世流は皓子を見ると「ああ」といつもよりも低いハスキーボイスで申し訳なさそうに言った。


「被害、外に出ちゃいましたかね」

「そんな感じです。安否確認に来ましたけど……大丈夫ですか?」

「大丈夫……ああ、まあ、なんとか。どう言えばいいのかだけど、ウチのスーリがやらかしちゃって」


 歯切れ悪く説明をする世流は、部屋の中を振り返った。つられて皓子も見てみるが、部屋は静かなものだ。

 スライドドアの向こう、ダイニングキッチンのあたりでノルハーンが娘のスーリをあやしているのかもしれない。


「最初は、洗面所から異界の幽体を呼び込んでしまって。それはもう還したんだけど、機嫌損ねちゃってねえ。さっき中の浄化がやっと終わったところで」

「えっと、今回はスーリちゃんが呼んだんですか?」

「ノルが言うには、おねしょみたいなもので無意識の暴走らしいけども……いやあ、申し訳ない」


 頭を下げた世流は、下駄を履いて外に出てくると、一つ、手を大きく打った。

 瞬間、周囲にいた霊たちが千切れて消えた。

 続けて、一風変わったステップのように足を交互に動かして床を踏みならした。人差し指と中指を立てて握った右手で空を切り早口で唱えてまた足を鳴らす。

 空気の破裂音が開いたかと思うと、万屋荘にうようよいたものがほとんど消え失せた。


「いやあ、本当に、ご迷惑を」


 あたりを見て、へにゃりと眉を下げた世流がぺこぺこ頭を下げて言う。先ほどまでの動作と打って変わって、気弱そうに見える。


「あとのやつらは放置しててもそのうち消えるので。もし何かあれば呼んでね。吉祥さんには、くれぐれも、よろしくと……」

「あっ、はい。大丈夫です。祓っていただいて、ありがとうございます」

「いえいえ。ウチの子のせいだから。また皆には日を改めてお詫びにうかがうよ」


 またぺこりと頭を下げて、世流は背中を丸めて部屋へと戻っていった。ずいぶんとお疲れのようだ。

 こちらも礼をして、息を吐く。これにて解決だが、まだ未確認の部屋がある。

 101号室を見て、すこし迷ったが、皓子は一応だからとチャイムを鳴らした。

 待っている間、ふよふよと無害そうなものが飛んでいるのを眺めてみる。

 先ほどまでのおどろおどろしい姿たちは消え去り、ぼんやりとした人や生き物の形がよぎるばかりだ。とても薄く見えるのは、世流が言ったようにそのうち消えるくらいのものだからだろうか。

 ふわっと輪郭しかない人影が皓子の近くまで来たところで、ドアが開いた。


 途端、その人影は蒸発した。


 光の粒となってサラサラと天へと昇っていったのである。

 見れば、他のおぼろげなものも開いたドアの付近に来るやいなや、光となって消えていった。

 きょろ、と辺りを見回し、そしてドアノブを開いたままのアリヤに顔を戻し、皓子はそっと両手を合わせた。


「どうしたの織本さん……え? なに? なんで俺拝まれてるの」

「いや、御束くんの御利益に感謝しているところ」


(マロスさん譲りなら、そりゃ、無事だよねえ)


 害がないが近くに寄ってきたり視界に入ろうとする皓子と違って、そういった類いのものを寄せ付けない体質なのだろう。アリヤの父であるマロスもそうだった。羨ましい限りだ。


「よく分からないけど、何かあった?」


 怪訝そうながらも言うアリヤに、合わせた両手はそのままに皓子は一礼をした。


「ちょっとしたことがね……御束くんのところは、何か困ったことはなかった、よね?」

「困ったことは、別にないけど」

「だよね。それならいいんだ。夜にごめんね」


 これで終わりだとほっとして言う。手を下ろして、軽く頭を下げてから大家部屋に戻ろうとしたところで、後ろから声がかけられた。


「織本さん」


 振り返ると、アリヤが身を乗り出して手招きしていた。首を傾げてまた向かえば、アリヤはにこりと微笑んだ。


「ちょっと時間ある?」

「あるけど」

「この間の、アイスのお礼。お茶の一杯くらいご馳走するよ」

「ええっ、いいよお」


 手と顔を横に振って断るが、にこにことしたアリヤは引かない。


「いいから、いいから」

「……御束くん、もしかしてアイス押しつけたの怒ってる?」

「いや、なんで。怒ってないし、お礼って言ってるからね」


 なんとも言えない表情をしてアリヤがドアを開く。「ほら」と開けたまま体を避けて、入れと促された。

 数秒ほど粘ってみたが、じっと見られたため、皓子はまあどうせ一杯だしと誘いを受けることにした。

 入って直ぐに、ダイニングに案内したアリヤがソファを指さした。


「そこ、適当にくつろいでて」

「ありがとう」

「物をもらったら返せって言われて育ったから、もらいっぱなしは落ち着かなくて」


 そう言いながら、アリヤは台所の方に向かう。


「あー……じゃあ、あげないほうがよかったのかな?」

「なんでそうなるの。いいよ。アイス、美味しかったから。織本さんの折角の好意だったし」


 手慣れた仕草でお茶を入れている姿を後ろに見ながら、やっぱり、と皓子は呟いた。


「御束くんは、マメだねえ」

「褒め言葉をありがとう」

「わあ、慣れてるって感じ」

「まあね。否定はしないよ。そうしてると、やりやすいから」


 途切れない会話も、雰囲気の親しみやすさも、アリヤの努力なのだろう。

 自分の特殊能力とは違うものに感心を覚える。

 他愛もない会話を続けて、皓子はアリヤの部屋を見回した。シンプルながらもセンスの良い部屋の見本だと思えた。ちょっとした小物も壁に掛けた絵も、なんだかお洒落に感じる。


「何か面白いものでもあった?」


 見ていたら、アリヤが盆を片手に立って皓子を眺めていた。

 ローテーブルにソファが向かい合わせに二脚。最初に入居契約をしたときに置いていた机や椅子は片付けてしまったのだろう。確かに、あの硬い木製椅子よりもこのソファのほうが随分と居心地が良い。

 ふかふかとした背もたれに体を預けて、うん、と皓子は答えた。


「そうだねえ。そこの棚の上にあるものとか」

「ああ、あれ? 懸賞の知らせだよ」


 テーブルに盆を置いて、向かいのソファへ腰掛けたアリヤは、それぞれにソーサーとティーカップを配ってティーポットからお茶を注いだ。

 アリヤの後ろにある棚の上、壁にコルクボードが掛けられており、そこには封筒がピン留めされている。皓子の指摘にアリヤはちら、と後ろを見てなんてことないように答えた。


「だいたい当たるから、置いてるんだ」

「だいたい当たる?」


 カップを受け取って両手で持つ。思ったよりも体は冷えていたようで、じんわりとした暖かさを確認するように握ってしまった。

 皓子が聞き返すと、アリヤは「そう」と軽くうなずいた。


「俺、生まれつき運が良いほうで。大抵の懸賞とか抽選とか、応募する度当たるからさ」

「何その羨ましい能力」

「あはは、よく言われる」

「じゃあ、狙えばなんでもほしいもの当てるのだって、出来ちゃうの?」

「まあ……父さんみたいに祈ればところ構わずできそうな気はするけど、目立つのは面倒だし」

「ああ、ただでさえ目立つもんねえ」


 うんうんとうなずいて同意すれば、アリヤは気の抜けた顔をした。長い足に肘をついて、アリヤは皓子を見た。


「いや、今、なんでこんなこと話したんだろ……」

「話すつもりはなかった?」

「え、どうだろ。わかんないや」


 困ったように言ったアリヤに、皓子はカップに入ったお茶を飲み干してテーブルに置いた。


「御束くん、ごちそうさま。私、ばばちゃんに報告しなきゃいけないから、帰るね」

「あ、ああ、うん」

「気を遣ってくれて、ありがとう。それと、ごめんね」

「いや、どういたしまして」


 きょと、とした顔で立ち上がった皓子を見上げたアリヤを見返して、今度は皓子がにこりと微笑んだ。敵意はない、なんとも思っていないというように見えることを祈って「じゃあね」と口にした。


 まったく、本当に、アリヤの能力は羨ましい。

 皓子と違って、人へ無意識に影響を与えないのだから。


(嫌な気持ちにさせてないなら、よかった、のかなあ)


 はあ、と息を吐く。

 暖かな吐息は、先ほど相伴にあずかったお茶のおかげだろう。

 頭を軽く振って、皓子は報告のために自分の家へと足を進めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る