第28話 正体不明の
しかし、まだ泳いでもいないのに、やたらと疲れる気がする。綾乃部長が絶好調だからか。まあ楽しそうな部長を見ていられるのは幸せなので、僕としても別にいいのだが。
そんな思考に耽りながら僕が唸っていると。部長がさり気なく僕の手を取ってきた。
「一樹君、何して遊ぶの?」
僕は部長に掴まれた手を、そのままプールの対岸側に伸ばし、ピンと指を立てる。
「そうですね……。せっかくのメインプールですし、一緒に泳ぎますか?」
人が多いため競争なんかはできなさそうだが、一緒にゆっくり泳ぐくらいはできるだろう。そうした僕の提案に、綾乃部長は苦々しげに眉を寄せ、長めに息を吐いた。
「……そう言えば、一つ言い忘れていたことがあったのだけれど」
「なんですか?」
「私、ポリエチレンかエチレン酢酸ビニルコポリマーがないと泳げないの」
僕の手から手を離し、部長は両手で何か板状のものを手にするジェスチャーをする。
「ポリ……ああ、ビート板のことですか」
かなり婉曲気味、というか素材気味な表現だった。エチレン酢酸とか初めて聞いたし。
「ええ。何人にも等しく浮力を与えてくれるあれがないと──」
「今なんのために、ちょっとかっこ良さそうに言ったんですかね。……って言うか綾乃部長、バスの中で泳ぐの得意って言ってませんでしたっけ?」
「……好きって言っただけよ。それに、ビート板さえあれば泳げるもの」
ちょっとむきになった様子で部長は唇を尖らせる。
「なるほど」
──そう言えば、僕は泳ぎが得意かどうかを聞いたが、部長は好きだと答えていた。
まあ、日本人成人の五、六人に一人は泳げないと聞いたこともあるし。
「……ごめんなさい。だから一緒には泳げないわ」
表情を一転させ、申し訳なさそうな口調で綾乃部長が告げてくる。
「いえ? 別にいいですよ。でも、ビート板の貸し出しはなさそうですし……あ。良かったら、僕の手に掴まって泳ぎますか? それだけでもきっと楽しいですし」
僕は提案しながら部長に向かって両手を差し出す。これなら、部長は僕に掴まって泳げる。僕は部長の両手の感触を楽しむことができる。まさにウィンウィンの関係だ。
などと僕は考えていたのだが、部長は僕の顔と手とを交互に見ながら躊躇していた。
「…………」
「……どうかしましたか?」
僕が綾乃部長の手の感触を楽しもうとしていたのがばれたとでも言うのか。
察しのいい綾乃部長のことだ、それで呆れている線もあり得る。
「すみません部長、さっきのはナシで──」
そう言って僕が腕を引っ込めようとした丁度その時、僕の両手に部長の両手が重ねられた。
「……ダメ」
「はい?」
小声で短く呟いた綾乃部長に僕は聞き返す。
綾乃部長はぎゅっと僕の手を握る力を強めると、
「──それが良いから、ナシにしないで」
そう言いながら全身の力を抜き、僕の両手を握りしめたまま水に浮き上がった。
その表情はなぜかとても嬉しそうに綻んでいて、僕は思わず綾乃部長から目を逸らす。
「どうしてそっぽを向くの?」
当然と言うべきか、部長から疑問の声がかけられる。
「…………。いや、その」
僕自身、なぜそうしたのかも分からない。
……でも、嬉しそうに微笑む部長を急に直視できなくなり、顏が熱を持ったのだ。
うまい言い訳も見つからず、僕は深呼吸だけでもしてから向き直る。
綾乃部長は特に何の疑問も抱いていないようだったが、その後、僕は部長が泳ぎ疲れてプールを上がる提案をするまで、ずっと正体不明の気恥ずかしさを覚えたままだった。
ついでに、手の感触を楽しむ算段も僕は忘れていた。
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