第3章 恋人っぽいこと(ただし健全なものに限る)
第14話 藤咲先生
聞き慣れた放課のチャイムが鳴り響き、そのおよそ三十分後。
七月十二日金曜日の
開け放たれている窓の外は、今にも雨が降り出しそうな曇り空。
今朝の天気予報と、快晴に近い晴空を信じて傘を持たずに来たのに、帰る頃にはどしゃぶりになっていてもおかしくない空模様。そのくせ暑さだけは最高気温更新というバグだ。
加えて授業変更があり、最終限が体育という暴力的な時間割になっていたこともあって、僕の頭は何も考えることができないくらいに茹だっていた。
次の月曜からは期末テストがあるというのに、全く勉強する気が起きない。
「一樹君。……とても暑いのだけれど」
「……。部長、体育休んで見学してたじゃないですか」
「見学してたかどうかと今の暑さは関係ないでしょう……?」
「そりゃあまあ……そうですけど」
とにかく暑い。全身から水蒸気が立ち昇っているんじゃないかと感じるくらいだ。
必然、勉強のやる気も失われる。
「……一樹君、部費申請でエアコンってつかないの?」
寒さと比べて暑さには強いはずの綾乃部長は、ぐでーっと机上に腕を放り出している。
僕は手動で回すタイプの手持ち扇風機を自分の首筋に当てながら返す。目の前の机には一応数学の教科書が開かれてはいるが、ノートのページは真っ白のままだ。
「つくはずないじゃないですか……。そもそも部誌出すために必要な経費ですし」
「でもこのままじゃ、人が蒸し焼きになって死んじゃうわよ……?」
「なんでこのご時世にまだエアコンがないんですかね……」
そうぼやいていると。唐突にガラリと部室の扉が開いて、誰かが入室してきた。
「そりゃあお前たち、文藝部が二人しかいない極小規模団体だからだろう」
「
「
僕らはそれぞれ違った呼び方で、部室に入ってきた先生の名前を呼ぶ。
「
「あら、でも可愛いじゃないですか。似合ってますよ」
部長は先生相手でも、敬語は使えど態度は変えずに話しかける。
「まったくお前は本当に……」
女性にしては高い身長に、毛先のはねたエアリーなミディアムヘア。よく目元からずれている
僕は先生の手前、手持ち扇風機を鞄にしまって姿勢を正す。
「珍しいですね、藤咲先生が部室に来るなんて」
「まあ職員室と違って暑いし、やることも特にないからなあ」
天井を見上げながら教室を横切って
「それじゃあまた、なんで今日は?」
「たまたま別の用事で前を通りかかってな。ついでにと誰かいないか見に来たんだが」
藤咲先生は机に突っ伏したままの綾乃部長を見て眉をひそめ、続ける。
「部長があれだと
「ちょっと新しい
「……綾瀬が言うならそうなんだろうな。ただ、そこで突っ伏しているやつは別だが」
「綾乃部長、言われてますよ」
「…………」
弁解の声を上げる元気も残っていないのか、綾乃部長は頭を上げる素振りもない。
見れば、雪のように真っ白な首には一筋の汗が伝っている。
「……部室にいても何もしないなら、エアコンのきいた部屋ででも勉強したらどうだ? それにお前たちの活動の方も、別に部室じゃなくてもできるんだろう?」
「良い提案ですね。部長。咲ちゃん先生もこういってますし、そうしませんか?」
「綾瀬……お前まで私をそう呼ぶのか」
しまった。さらりと言えば流れでスルーされるかと思ったのに。
「月曜からの期末考査──数学のテストは難しくなるな。覚えておけよ?」
「すみません藤咲先生、僕が全面的に悪かったです」
「……冗談だ。今更、今更私の一存で内容を変更できるわけがないだろう」
はあと溜め息が吐かれ、藤咲先生はくるりと踵を返す。
「あれ、もう行かれるんですか」
「そっちのやつがもう帰ろうと準備しているからな。……綾瀬も一人、こんな蒸し暑いだけの教室に残るつもりはないだろう?」
藤咲先生の視線を辿ると、綾乃部長はいつの間にか帰る準備を済ませていた。
通学鞄を手に持ち、凛と立つその制服姿は全校生徒の憧れを象徴するかのような可愛さだ。現に今年の春、制服ブランドから声がかかった話を愚痴のように聞かされた。
部長は写真に写るのがあまり好きではないため断ったらしい。僕の感想としては勿体ないだ。そうなれば部長の写った広告をラミネートでもして保存しようかと思ったのだが。
先に弁明しておくと、僕は部長の嫌がるであろうことはしない。
その場合も許可をとるつもりではあった。それに写真は以前に断られてから、一度も撮っていいですかと聞いたことはないし、盗撮なんてもっての外と考えている。
まあ、綾乃部長はたまに僕の写真を撮ろうとするんだけど。
「また馬鹿なこと考えてる顔になっているけれど。一樹君は帰らないの?」
「いえ、なら僕も帰ります。ただ鍵だけ返してこないと……」
言いながら教科書類を鞄にしまい、その横に置いてあった鍵を手に取る。
文藝部の部室は、現在使われていない空き教室を借りているだけだ。鍵は毎回職員室に取りに行かないといけないし、帰りには返しに行く必要がある。
「鍵なら返しておこう。もう職員室に戻るんでな」
と、藤咲先生が手を出す。ついでに返しておいてくれるらしい。
「いいんですか?」
社交辞令の如く僕が聞くと、藤咲先生は「ああ」と告げた。
「それより早く彼女のところへ行ってやれ。置いていかれるぞ?」
冗談めかした口調で藤咲先生は言い、しっしっと僕を手で払う仕草を取る。
やっていることはあれだけど、これで意外といい先生だ。
あだ名呼びを嫌がりつつも受け入れていたり、意外と生徒のことを見ていたり。高校の先生っぽくないと、藤咲先生は生徒から舐められていると同時に人気がある。
綾乃部長はゆっくりとした足取りで既に教室を出て行った。追いかければすぐに追いつくだろう。まあ、追い付いたところで帰り道は逆なんだけど。
「……まだ彼女じゃありませんけど。実際、脈はありそうと思いますか?」
部長の姿がないことを言いことに、僕は藤咲先生にそんなことを尋ねてみる。
藤咲先生は意外、でもなんでもないけど既婚女性だ。
外見年齢は若く見えるけれど、おそらく二十代後半か三十代前半。恋愛経験なら豊富だろう。以前、クラスの女生徒から恋愛相談を受けている姿も目撃したことがある。
なまじ真面目な所もある先生なため、そういう相談を
「…………」
遠慮がちに目を細めた藤咲先生は、数秒思案したのちに口を開いた。
「全ては君次第だろう。精々、彼女ができる人生最後のチャンスを逃さないことだ」
「待ってください先生。僕、この前そのチャンスタイム逃した気がします」
「…………そうか」
そうか、って。そんな諦めた顔をしないでほしい。
というかなんでそんなに、僕は彼女ができる機会がないと思われているのだろうか。
先週の金曜日にも、人生最後のチャンスだったって部長に言われたし。誰か別の女の子が僕のことを好きになって──なんて運命的な展開はないのか。
いやまあ、自分の顔面偏差値と一途な面から、自覚はあるといえばあるんだけど。大学デビューして彼女をとっかえひっかえ、なんてことにはきっと絶対ならなさそうだ。
少なくとも綾乃部長に面と向かって振られるまでは、僕は部長が好きなままだろうし。
「……とにかく。この先、葉月とどうなるかはお前次第だ」
そんな深いような深くないような言葉を残し、藤咲先生は教室を出た。
話を早いところ切り上げたいということだろう。
「分かりました。鍵、ありがとうございます。お疲れ様です」
「お疲れさん」
教室を出て先生に十五度ほどの
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