第8話 記憶屋で働きたい!
草むらに置いた木の椅子に腰掛け、泉を眺めながらダルシーは考えていました。
エディの魔法によってできた霧のベールの向こうでは、太陽が昇りはじめています。今は、朝の6時。
新しい髪型をえらく気に入ったエディは、散髪の日以降、ダルシーの話に少しだけ耳を傾けるようになりました。
最近になりやっと、キッチンに立つ許可も降りました。エディが見張りをするという条件付きで。ですので、エディが起きてくるまでダルシーは外で時間を潰すことにしました。
まだ鳥達も眠っているのか、とても静かです。泉の水面は少しも揺れることなく、空を写しだしていました。
ダルシーは椅子に座り背にもたれると、肘掛けに腕を置き、どっしりと体を預けました。まだ少し眠い目を擦ります。
『はぁ‥‥きもちいい』
生まれたての空気を吸い込めば、自分の体まで新しくなるようでした。新鮮な空気をたっぷりと吸い、胸を膨らませたダルシー。
ゆっくりと息を吐いたその時、森のどこかから風がやってきて、水面に小さな輪が広がりました。
冷たくて気持ちのいい風でした。ダルシーの呼吸はだんだん深くなりました。鼻息に合わせるように、また風が吹いて、木々の細波が聞こえてきました。
ダルシーはその心地よさに、意識が遠ざかっていくように瞼を閉じました。
やってくる風はどんどん大きく、速くなり、森を揺らしました。水面の輪も大きくなります。
そして高波のような風が、さぁ乗って。と誘うようにダルシーの足元に吹いたその時です。
「ダルシー」
届いた声に、ダルシーはハッと目を覚ましました。振り返るとエディが見えました。
玄関からひょっこり顔を出したボサボサ頭のエディは「朝ごはん作るよ」と言うと、一瞬で中へ戻ってしまいました。
椅子から立ち上がったダルシーは、不思議に思い辺りを見渡します。先ほどまで吹いていた風はピタリと止まり、水面は何事もなかったようにすまし顔をしているのです。
『あんなに吹いてたのに‥‥急に止まっちゃった』
ダルシーは、もしかして自分は夢の中にいたのかもしれないと思いました。誰かに誘われているような、連れ去られてしまいそうな、変わった風でした。
「はやくー」
家の中のエディに呼ばれ『今行くわ』と返事をすると、椅子を抱え家の中へ入ります。
「朝から居眠りだなんて、睡眠が足りてないんじゃない?お肌に良くないよ」
いつの間にか顔を洗い、髪まできれい整えたエディが、エプロンをつけながら言いました。
『余計なお世話よ!風が気持ちよかっただけ!』
黒皮鉄の重たいフライパンをコンロの上に乗せ、バターを厚めに切りながらダルシーは言い返しました。
エディはというと、監視係なので椅子に座って料理している様子を見ているだけです。退屈そうに「くわぁ」とあくびをしながら。
ダルシーはボウルに卵ふたつと牛乳を入れてかき混ぜると、フランスパンを染み込ませました。
「フレンチトースト?珍しいね。いつも昨日の残り物を温めるだけなのに」
頬杖をつきながらエディが訊ねます。
『そっ!一度作ってみたかったの!ほら、エディが住人さんから貰ってきたブラックベリーがあるでしょ。それものせて食べたら美味しいかなって!』
バターが茶色くなり、ジュクジュクと音を立て始めました。浸したパンをのせると、ジューと優しい音と、柔らかい香りがキッチンに広がりました。
匂いにつられたのか、奥の部屋の扉が開き、メルヴィンも起きてきました。
『ふたりともおはよう。んん〜、今朝はなんだかいい匂いじゃの』
のそのそとリビングへ向かったメルヴィンは、椅子に座り新聞を広げます。
メルヴィンの満足そうな表情に、ダルシーはしめしめと思いました。
朝から腕を振るって料理をしたこと。そしてここ最近、エディの言うことをよく聞き、掃除、洗濯に精を出していたのには訳があったのです。
『よぉ〜し!できあがり!エディ、お皿を3枚お願い!』
くわぁとあくびをしたエディは、重たい体を椅子から下ろすと、カメリアの花が描かれたアンティークのお皿を3枚、ダルシーの元へ届けました。
『うん!いいチョイスね!』
フライパンをよいしょと持ち上げ、フライ返しで掬い、並べられたお皿に盛り付けます。仕上げに、小さく切ったバターとブラックベリーをのせれば完成です!
『さ、召し上がれ!お好みでメープルシロップをかけても美味しいかも!』
3枚のお皿を手首を使って器用に運び、机に並べたダルシー。エプロンをひょいっと首から外すと『あ、紅茶も出さないと!』と、ご機嫌にキッチンへ戻って行きました。
『これ、本当にダルシーひとりで作ったのか。前みたいに変なスパイスは入ってないだろうな』
『うん。見てたけど、今日はまともに作ってたよ。なんだかやる気がでてきたみたい』
別人のように手際のいいダルシーに、目を細めながら、ふたりはコソコソと話します。
お店のようにきれいに盛り付けされたフレンチトースト。表面は程よく焦げがつき、重なった上の生地は、もったりとして今にもとろけそうです。メルヴィンは一口サイズに切ると、フォークで掬い口へ運びました。
ティーカップをふたつ持って、ダルシーが戻ってきました。中身はアールグレイのホットティーです。
『はいどうぞ!メルヴィンさん、お味はいかがかしら』
『あ、あぁ。とても美味しいよ。最近頑張ってくれているみたいだね』
『そうなんです!ここ1ヶ月、火事も起こしてないんですよ!』
いただきますと手を合わせたままダルシーが自慢げに言うと、「それは当たり前だよ」と、エディはナイフをスッと差し込みました。
『でもすごい成長だと思わない?洗濯も掃除も、前と比べるとかなり上達したわ』
前のめりになって訪ねるダルシーに、エディは「さぁ」と肩をすくめます。メルヴィンはメープルシロップを手に取ると、スーッと1周垂らしました。
『それでなんだけど‥‥メルヴィンさん!』
突然名前を呼ばれ、メルヴィンのスプーンからフレンチトーストがぽとぽとと溢れ落ちました。『あらあら』と立ち上がると、台拭きを取りにキッチンへ向かったメルヴィン。
『私に、記憶屋のお手伝いはできないかしら!』
黙々と食べていたエディは手を止めて、「また何を言い出すんだ」と言う目でダルシーを見つめます。メルヴィンはまだキッチンの奥で台拭きを探しているようです。
少しすると、小さな布を握りしめて戻ってきました。
『ん?ダルシーさん何か言ったかな?』
「メルヴィン、聞かないほうがいいよ」
ナプキンで口を拭きながらエディが言いました。
『私!記憶屋で働いてみたい!』
床を拭いていたメルヴィンが、ゆっくりと顔を上げます。
エディはやれやれと食べきったお皿をキッチンに運び、すぐに自分の部屋へ避難しました。ダルシーが一度言い出すと聞かないのは、散髪の時に経験済みです。こうなると、もう誰にも止められません。
『い、いやぁ、で、でも、手は足りてるからなぁ。ははは』
メルヴィンは急いで残りを放り込むと、逃げるようにしてお皿をキッチンへ運びます。ダルシーは諦めません。メルヴィンの後を付き纏います。
『記憶屋がどんなところかすごく興味があるんです!置いてあるものは絶対に勝手に触りません!お願いです!5分だけでもいいんです』
メルヴィンの服の裾を軽く掴み、逃しません。
君はおっちょこちょいで足手まといだから来ないで!とはっきり言えばいいのですが、心優しいメルヴィンがそうできないのをダルシーは知っていました。
『私、とっても退屈なんです。毎日毎日、皿洗いして、洗濯して、掃除して、残りの時間は本を読んで過ごすだけなんです。なんだか鳥籠の中に閉じ込められているようで、時々無性に悲しくなる。‥‥それで、考えてたんです!メルヴィンさんいつも忙しそうだから、何かお手伝いできないかなって!』
ダルシーはどこまでもついてきます。
『いやぁ』と頭を掻きながらメルヴィンはトイレに逃げ込みました。そして、5分ほどして外が静かになったのを確認すると、泥棒のようにそぉっと扉を開けます。
『うわっ!!!』
『ねぇメルヴィンさん!』
ダルシーはトイレの前に座り、出てくるのを待っていました。メルヴィンはエディの部屋の方を覗きます。扉はパタリと閉められていました。いつもであればエディが「ダメだよ」と言ってくれるところですが、部屋に閉じこもって出てくる気配はありません。
ダルシーが口をきゅっと紡いだり、眉毛を八の字に曲げたり、鼻を啜る度に、メルヴィンの中に罪悪感が積もって行きます。
『5分と言いません!1分だけでも!』
ありとあらゆる提案を持ちかけるダルシー。
最後にはぐっと近づき、メルヴィンの両手を握ると、必殺技である困り顔を披露しました。
もう、メルヴィンが折れる他ありません。
彼女に勝る交渉人は居ないのではと、その強引さと粘り強さに脱帽するメルヴィンなのでした。
『分かった分かったから、もう解放してくれぇ』
そう言ってダルシーの手からするりと抜け出します。
『本当ですか!?!』
雲に覆われていたダルシーの顔に太陽の日が差し込みます。
『やったー!!早速今日からお仕事開始ね!』
くるりっと向きを変えると小さくガッツポーズをするダルシー。メルヴィンは近くにあった椅子に『はぇ〜』と、もたれかかりました。
『さぁ、メルヴィンさん!まず何から始めたらいいかしら!』
鏡を見ながら髪をひとつに結って、ダルシーが張り切り声で訊ねました。
『今日は月曜日じゃろ。もうすぐペリカン便が届くから、荷物を受け取ってから仕事開始じゃ』
『ペリカン便?』
鏡を除いていた顔をメルヴィンに向けたその時でした。外で突然囂々と風が吹き、ガラス窓を叩きました。
『来たようじゃな。悪いがダルシーさん、受け取ってきてくれるか』
「もちろんです!』
ダルシーは玄関に飛んでいくと、錆びた金色の取っ手を回しました。
扉を開けると、そこにいたのは翼を広げた白い鳥でした。何かがいっぱい入った大きな袋を口からぶら下げています。ダルシーは目をまん丸にして固まってしまいました。
『やぁ、ラルフくん!いつもすまないね』
椅子に座りながら、メルヴィンが手を上げて声をかけました。ダルシーはメルヴィンの方を向きます。
『ラルフ?』
ダルシーが目の前の鳥に視線を戻した瞬間。
白い羽はパラパラと地面に落ち、スッと消えていくと、鳥の胴体はしゅーっと伸びて、たちまち人間へと姿を変えたのです。
現れたのは、真っ白な青年でした。髪色も、肌の色も、瞳の色も全て白色でした。
『はじめましてお嬢さん。君はエディの新しい恋人?』
肩にのった羽を払うと、細長い手足をきれいに曲げて挨拶をしました。そして元に戻ると、スッとダルシーの耳元に近づいてきて、囁きました。
『どうしてこんなところにいるんだい』
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