箱舟の鯨
良宵(よいよい)
第1話 紅葉月の憂鬱
蒸し釜の中のような夏が終わると、王都の西を流れるアキ川から涼風が吹き、実りの秋が訪れる。
王都に暮らすある程度生活に余裕のある家の子供は、男女を問わず7歳の秋から手習所に通う。手習所は王城の支援を受けた半官半民の初等教育機関である。
ここで子供たちは基本的な読み書きと教養を学び、3年ほど通った後にそれぞれ次の進路に進む。優秀な者は教師の推薦を受けて高等教育機関の学問所に進むが、庶民の多い下区(下町)の手習所では、そのほとんどが職に就く。
これまで自分の家族や近所の知人で構成された狭い世界から、手習所と言う同世代の見知らぬ少年少女の集団に放り込まれた子供は、少し広がった新しい世界に興奮するが、しばらくすると人間関係に悩んだり、優秀な学友と自分を比べて落ち込んだりと不安定になる。
「紅葉月の憂鬱」とは、秋の走りの頃の、そのような壁にぶつかった子供を表す言葉である。
*****
そして、ここにも不安定になった7歳の少年が一人。
「終わった…初等教育スタートダッシュ計画が、失敗に終わった…」
そう呟いて、王都の下区にある自宅の居間の床にうつ伏せに倒れこんだ少年の名は、アフミ・シナツ。下級騎士家アフミ家の長男である。
黒い髪に青い目の、「喋らなければ完璧な」と但し書きの付く美少年である。
「歴史とか現国はともかく、数学なら余裕でトップを狙えると思っていたんだけどな…誰だよ、四則演算ができれば異世界数学は楽勝だなんて言っていた奴は……俺か」
手習所から帰ってくるなり、居間の床にばたりと倒れた坊ちゃんに驚いて駆け寄った通いの
(いつものあれか…)
と呆れて台所に戻った。
この少年、普段から奇妙な言動を繰り返すことで有名なのである。
紅葉月に限らず、芽月だろうと雪待月だろうと、一年を通じて安定して不安定なことには定評がある。
「あにちゃ、おなかいたいいたい?」
シナツの後頭部が、もみじの手でぺちぺちと叩かれる。3歳になる妹のサホだ。
金色の髪に紫色の眼をした幼女が、倒れた兄を心配して、兄の頭を叩いている。まだ力加減ができないので、地味に痛い。お腹じゃなくて頭が痛い。
「あにちゃは人生に疲れたのだ。放っておいておくれ」
うつ伏せになったまま答えるシナツ。たそがれる7歳児の背中に、3歳児がのしかかった。
「ちょ、お前、放っておいてくれって言っているだろ!男には一人の時間が必要なんだよ!」
難しいことを言われても分からない。幼児だから。そこに背中があったので乗ってみたのだ。
子亀をのせた親亀のようになったシナツは、妹を振り落とそうと左右に揺れた。遊んでくれていると思ったサホは、兄にしがみついて、きゃっきゃっと笑った。
しばらく兄でロデオを楽しんだサホだが、やがて
「あにちゃ?」
馬を動かそうと、再びぺちぺちと叩くサホ。
「……薄々気が付いていたけど、この世界、生活水準は中世なのに、自然科学が妙に発達しているんだよ。
暦はかなり正確だし、地球は丸いし自転公転しているし、0の概念あるし、九九は2桁だし!!こちらも10進法なのがせめてもの救いだよ」
「くく」
おうむ返しにサホが呟く。
「2桁って言っても、手習所で習うのは19×19までだけどな。あ、[くく]じゃなくて[じゅうくじゅうく]になるのか?これ。
前世の知識で初等教育スタートダッシュして、神童の名をほしいままにして成り上がる予定が、教育レベルが高度で、ついていけるか今から不安だよ」
「ぜんせ」
「この世界、輪廻の概念あるんだろうか…というか、俺自身、これが本当に転生なのか、憑依なのか、妄想なのか、未だにわかっていないんだわ。
あー…あにちゃには、日本って国で暮らしていた男の人の大学生までの記憶があるんだ。これは秘密だぞ。サホにだけ教えたんだ。父さんや母さんにも言っちゃだめだからな」
「ひみつ」
秘密とは何のことであるか意味も分からないが、サホは頷いた。
5歳の頃に高熱を出して寝込んだのを契機に前世の記憶が一気によみがえってから、シナツは両親にも前世のことを話せずにいた。奇異の目で見られることを恐れたというよりも、生活を立て直すのに必死だったからだ。
5歳児というのは、ただでさえ夢と現実の境が曖昧である。「よく分からないが怖い夢」を見ておびえるようになるのもこの時期である。そんな不安定な精神に、別の世界の20歳近くまで生きた男性の記憶が流れ込んだのだ。ただで済むはずがない。
夢と現と前世と現世が大乱闘。5歳のシナツの頭の中は、控えめに言って地獄であった。
おばけに追いかけられる夢を見て、目を覚ます。おとなに泣いて訴えると、「それは夢よ」と言われて安心する。5歳児の成長過程ではよくあることだ。
では、この記憶は何であろうか。
天を衝く石造りの塔がいくつもそびえる街並み。その空を飛ぶ鉄の鳥や、人の声が聞こえてくる小さい四角い板。これも夢?
大きな四角い板の中を縦横に飛び回る、手首から蜘蛛の糸を出す怪人。
耳のない青い猫(彼はなぜかこれが猫であると思った)や、雷を出す黄色い鼠(彼はなぜかこれが鼠であると思った)の絵は、勝手に動いて喋る。これも夢なのであろうか。
夢ってなんだろうとつらつら考えていると、
「夢だけど…」「夢じゃなかったー!」
朝の庭でそう叫ぶ姉妹の記憶が浮かんでくる。なんだこれは。
夢と現実の境が分からなくなったシナツは、一時期会話することもできなくなった。言葉を覚えるのが早く、おしゃべりだった少年の変貌に、周囲は慌てた。
一番深刻だったのは、物の名前が混乱することであった。この世界にも玉ねぎに似た野菜があって、これは「セパ」と発音する。シナツの頭の中には「タマネギ」という呼び名の記憶もあって、どちらが正しいか迷ってしまう。
よみがえった新鮮な20年分の前世の記憶は、現世の5年分の記憶を圧倒してしまい、気を抜くと日本語で喋ってしまう状態が続いた。両親は医者に診せたが、この状態を治せる名医はどこにも存在しなかった。
最終的に、シナツ少年の編み出した対処法は、「ひとまず、すべて忘れる」であった。
シナツは赤ん坊に戻ったつもりで、リアル赤ん坊の妹と一緒に、大人に「これはなに」と一々質問しては、知識を更新していったのだ。
そんな地道な作業を続けて、ここ最近になってようやく普通に会話できる程度には落ち着いてきたのだ。
転生チートどころかデバフがかけられている。
この日、シナツはサホにだけ前世の記憶のことを打ち明けることにした。秘密を共有する相手を求めていたというのもあるが、誰かに話すことで、自分の置かれた状況を整理したいと思ったのだ。
まだ3歳のサホであれば、言っていることの半分も理解できないであろうし、理解できたとしても、成長するにつれて忘れてくれるであろうという計算もあった。
幼い妹は、秘密を打ち明ける相手として最適であった。
「はあ、とりあえず、宿題の九九を覚えなきゃ。9の段までは前世の小学校で叩き込まれたから、次は…10の段は…余裕だね。11の段から…ええと、11×1が11、11×2が22…」
サホを落とさないよう背中にのっけたまま四つん這いになり、シナツは鞄から教本を取り出して九九の表を読み上げた。サホは兄の背中にしがみつきながら、それをおとなしく聞いた。
シナツは知らない。
自分の妹が、3歳にしては自我がはっきりしていることを。口数が少ないため、言葉の習得が遅い子だと思われているが、実は周囲の会話をかなりの割合で理解していることを。非常に優れた記憶力を有し、兄の打ち明け話を大人になっても覚えていることを。
彼はまだ知らない。
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霞染月 1月(だいたい)
風氷月 2月
初花月 3月
(春分/春祭り)
芽月 4月
萌月 5月
雨月 6月
(夏至)
雷月 7月
熱月 8月
実月 9月
(秋分/秋祭り)
紅葉月 10月
初霜月 11月
雪待月 12月
(冬至/大晦日)
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