遥かな青の先に、彼女はいた

柳瀬 悠衣

プロローグ

「マル、待って!お願い、止まって!」

 彼女は息を切らしながら必死に走り、前方を走る飼い犬を追いかける。朝の散歩の途中、彼女がリードを握る力を緩めたタイミングと飼い犬が引っ張るタイミングが重なってしまったことで手首に通してたリードの輪っかがすり抜けてしまい、飼い犬は興奮状態で勢いよく走り始めてしまったのだ。少し先には交差点があり、朝方とはいえこのままでは轢かれてしまうかもしれない。彼女は右手に持ってた散歩バッグを地面に投げ捨て、腕を振ってさらにスピードを上げる。ようやく飼い犬の首から伸びるリードに手が届きそうになり、彼女は走りながら姿勢を低くした。

(追いついた…!)

 その時、右側から爆音のクラクションが鳴り響く。その拍子に彼女は尻もちをついて、飼い犬のリードも掴みそびれた。追いかけるのに夢中になってた彼女は自身が交差点に侵入していること、そして進行方向の信号が赤であることに気が付かなかった。

「いや」

 彼女が息に混ざる程度の声で呟いた次の瞬間、同時に色んな音が重なる。

 バンッという、車体と身体がぶつかる音。

 バキッという、骨の碎ける音。

 キーッという、急ブレーキを踏む音。

 ドサッという、吹き飛ばされた体が地面に叩き落ちる音。

 グチャっという、皮膚がアスファルトに擦れて爛れる音。

 彼女のもとへ運転手の男性が急いで駆け寄り、肩を強く叩く。ちょうど通りがかった別の車の男性も駆け寄り、110番通報をする。そして、しばらくして救急車が到着する。しかし、脳を強く叩きつけられた彼女は即死しており、彼女の凄惨な姿を見た救急隊員も心臓の拍動がないことを確認して、すぐにそれを理解した。

 五月十四日、午前七時二十四分の出来事であった。


   ***


 ピピピッ、ピピピッ──。

 静寂を切り裂くようにスマートフォンのアラームが鳴り響く。八木崎遥やぎさきはるは目を開かずに手探りでスマートフォンを手に取り、アラームを止める。表示されているのは『五月十四日 、午前七時三十分』。遥にとっては最初のアラームに思えたが、アラームは六時半から十分おきに設定しているため、どうやら六回目らしい。そして、高校の始業時間が八時半、高校までは電車と徒歩で約四十分。つまり、あと二十分で家を出ないと遅刻してしまう。その事実が一瞬で遥の脳を覚醒させ、すぐさま起き上がって着替えを始める。とりあえず、ワイシャツとズボンを履いた遥はネクタイとブレザーを通学用のリュックに押し込んでリビングへ向かう。

「おはよう、遥」

「おはよう母さん、起こしてよ」

 朝の情報番組『お目覚めセブン』を見ながら優雅にコーヒーを飲む母親に悪態をつくが、それが仕方ないことであるのは自分でもわかっている。洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨く。運良く純黒のマッシュヘアにアホ毛は生えておらず、靴下を履くためにもう一度リビングへ戻りソファーに座る。

「朝ごはんは?」

「間に合わない」

「だと思ったから、お弁当袋の中に五百円入れてるし、行きのコンビニで何か買いなね」

「ありがとう」

 弁当袋をリュックに入れて、ローファーに足を通す。そして、見送りに来た母親に「いってきます」と声をかけで足早に家を出た。


 遥の母は「行ってらっしゃい」と見送るとテレビを見るために先程の定位置に戻った。七時五十二分、『お目覚めセブン』も八時で終わるため番組は天気予報へ移る。天気予報が終わると、急に女性アナウンサーが『速報です』の一言に続けて真剣な表情で話し始めた。

『今日、午前七時二十分ごろ、○○県‪‪‪‬‪‪‪‪‪‪‪◇◇‪市の路上で十七歳の女子高校生が自動車に轢かれる事故が起こりました。女子高校生は意識不明の重体で、リードを離してしまった飼い犬を追いかけている際、赤信号に気付かずに交差点へ侵入し、自動車と接触した模様です──』

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