第21話 嗚咽

 連れられて行ったのは、いつだったか大樹が早退する際に逃走経路として利用した裏庭だった。


 丁度、体育館の裏側となり、一時間目に利用しているクラスもないのでシンとしている。背の高い木々などもあるため、全体的に日陰となって人がいても目立たない。


 遊ぶには薄気味悪い場所かもしれないが、内緒話をするにはもってこいだった。


「迷惑かけちゃったね」


 怒鳴られてからの平手打ちの三発や四発は覚悟していたので、シュンとした様子で謝られたのには驚いた。


 戸惑っている大樹を真っ直ぐに見て、愛美は寂しそうに微笑む。


「お母さんにも借金があったんでしょ?」


「……知ってたのか」


「聞いてはいないけど、そんな気はしてた。バイトが終わる時間になって、お母さんのとこに寄ってみたら休んでたこともあったし。残業だって電話してきたのに、会社にいなかったこともあるし。お父さんには黙ってたけど、変だなとは思ってたのよね。原因は何?」


 愛美が傷つくかもしれないと躊躇ったが、繰り返し強く促されて観念する。


 大樹はあくまでも自分の夢で知った話だと前置きをした上で、詳細な説明を行う。


「男。飲み屋の奴に貢いでるっぽい」


「はあ……でしょうね」


 告げられた理由を半ば想定していたらしく、愛美は苦々しい笑みで血色の良い唇を歪めた。


「でも、そんな人でも母親なのよね」


 諦めたように呟いたあと、愛美はねえ、と大樹の名前を呼んだ。


「あとはあたしが何とかする。大樹はもう頑張らなくていいよ」


「まあ、あんな騒ぎ起こしたんだ。鬱陶しく思われても仕方ないよな」


「違う!」愛美は声を張り上げた。「女性に暴力を振るうような人じゃないのはよく知ってるもの。大樹があたしのために傷ついていくのを見てられないだけ」


 くるりと回れ右をした少女の肩が小さく上下する。泣いているのだとわかり、大樹は拳を強く握った。


「俺が好きで傷ついてんだ。それに申し訳なく思ってるけど、諦めたわけじゃないぞ」


「……え?」


「前に言ったろ、どう思われようが愛美を助けるって。乗りかかった船じゃないけど、ここまできてすごすご引き下がれるかよ。意地でも死なせてやらないぞ」


 振り向いた愛美の顔がくしゃくしゃになる。手の甲で懸命に涙を拭うも、次から次に溢れてきて止められないでいる。


 たまたま持っていたハンカチを手渡すと、愛美はしゃくりあげながらも照れたように頬を朱に染めた。


「……ねえ、このハンカチ……あたしにくれないかな」


 ようやく泣き止んだ愛美の頼みに、大樹はどうしてと返す。


「お守りにしたいんだ。これからの人生の……」


「これからって、何を考えてる」


「あたしね、働いて両親の借金を返そうと思うんだ」


「なっ――!? お前、俺の夢の話を信じてないのかよ!」


 驚きすぎて声が裏返る。大樹は愛美の細腕を掴み、額が密着しそうなほどに顔を近づけた。


「信じてるよ。だからこっちから先に申し出て、変な仕事は断るつもり」


 もう決めたと言わんばかりの態度だった。


「都会風に言うとキャバクラ的な? そんなお店での接客だったら時給もいいだろうし、イケると思うんだ。学校にバレたら退学だろうけど、この際、仕方ないよね」


「アホか! キャバクラならいいとかいう問題じゃないだろ!」


「そういう問題なの! もう決めたの! あたしが全部解決する! そうすれば、もう誰も傷つかないで済むもの!」


「だからってお前が傷ついてどうすんだよ! そんなの、俺は認めない!」


 互いに譲らず、さらに顔を接近させて唸るような声を出す。


「……大樹には関係ないっ! もうあたしのことは放っておいてよ!

 ダンと足を地面に叩きつけ、拒絶の意思を示すように、愛美が大樹の肩を押した。


 よろめきながら見た少女は大粒の涙をこぼし、いつにない怒りを宿らせていた。


 俯き、歯を食いしばるような仕草のあと、一人で走り去る。


「……関係ない、か」


 ひらひらと揺れる紺色のスカートの裾が、まるで風にはためく別れの旗みたいだった。


     ※


 事実は異なるとしても、火がついた噂を消火するのは難しい。大樹が教室にいるだけで気まずい雰囲気になってしまうのがいたたまれなかった。一人であったなら、早退していた可能性もある。


 けれど、そんな大樹を気遣って、休憩時間のたびに清春と楓がそばにいてくれた。生憎と愛美には朝の件から避けられてしまっているが。


 二人には状況を説明しており、遠巻きにあれが噂のと指を差されることはあっても、近くに人が寄ってこないので不幸中の幸いというべきか、会話をするには適した環境になっていた。


「これからどうする?」


 昼休みに問いかけてきた清春だけでなく、大樹の机を一緒に囲んでいる楓も心配そうな顔をする。小さな長円形のお弁当にも、ほとんど手をつけていない。


「実はさ……取り調べされてる時にさ、俺は何をしてるんだろうって悩んだんだ」


 苦笑し、思い出すように視線を上に向ける。よくテレビドラマで見るような強い態度ではなかったが、担当した刑事の目は相当に怖かった。現行犯で確保という事情もあって、かなり疑われていたのは間違いない。


「自分の事でもないのに熱くなって、空回りして、警察の厄介になって両親にも迷惑をかけた。挙句には、助けようとした女に関係ないと言われる始末だよ」


 清春も楓も何も言わない。自分たちが当事者であるかのように落ち込み、心優しい楓に至っては涙すら滲ませる。


「ここで諦めても文句は言えない」


 親友の目は、お前はよくやったと言っているみたいだった。


「私も……そう思う。大樹君、頑張ったもの。これ以上、辛い目には遭いたくないと思っても、誰も責めたりできないわ」


「……二人とも、ありがとう。でもさ、諦めようとすればするほど、浮かんでくるんだ」顔を上げた二人を見つめ、大樹は告げる。「死ぬ間際のあいつの泣き顔が」


 妄想に近い単なる夢かもしれない。けれど見ている時は現実と遜色がないほど生々しい。朝起きてもはっきりと夢の記憶が残っていて、瞼を閉じればすぐにでも浮かんでくる。


「泣いてるんだよ。辛そうに、苦しそうに。口では強気なことばっかり言ってるけどさ、多分だけど、本当の愛美はもっと弱いんじゃないかな」


「大樹君……」


「ハハッ。偉そうなこと言っておいて、その俺だって取り調べを受けたくらいでビビってしまうくらい臆病で弱いんだけどな」


「……本当に強い人間なんていないんじゃないかしら。皆、必死に隠しているだけで。それを上手い人を強いというのなら、大樹君はとても強い人だと思う」


「やめてくれ!」


 反射的に大樹は言っていた。シンとしていた教室に声が響き、昼食中だったクラスメートが申し合わせたようにこちらを見る。


「……ごめん」


 一言だけ謝り、大樹は席を立つ。足早に教室を出て、人けの少ない裏庭へ行って体育館の壁を背もたれに地面へ直接腰を下ろす。制服が汚れるのすら気にならなかった。


 どれくらいの時間が経過したのか。ただただボーっとしていた大樹の隣に、いつの間にか清春が立っていた。心配して様子を見に来てくれたのだろう。


「小山内が気にしてた」


 視線を向けると、短くそう言った。心配してくれる楓の手を振り払うように出て来たのを思い出し、罪悪感が芽生える。


「悪いことをしてしまったな」


「あとで謝れば許してくれる」


「ああ……」


 それきり数分ほどだろうか、会話もなくただ黙り込む。


「……授業はいいのか?」


「サボリがフラグになるケースもある」


「お前はどこまでもゲーム脳だな」


 相変わらずさを発揮してくれるのがありがたかった。立て続けに不安になる出来事が起こり、弱気になっていた大樹の心には何よりの良薬に思えた。


 少し笑えたからか、重かった心が僅かに浮き上がる。後頭部も壁に預け、どんよりと曇った空を見上げて、ポツリポツリと体内に溜まっていた声を解放する。


「教室でも言ったけど、消えないんだ。愛美の最期が。焼きついて離れてくれないんだよ」


 頬に冷たい粒が流れる。それは涙なのか、曇天が降らせた雨なのか、大樹自身にも判別できなかった。それでも一度溢れだした言葉は止まらず、暴力的なまでに次々と大空へ投げつける。


「誰でもいいから消してくれよ! もう見たくないんだ。うんざりなんだ! 心がぶっ壊れてしまいそうだよ!」


 声を荒げ、壁を叩き、近くの雑草を力任せに引っこ抜く。すべてが衝動的な行動であり、怒りや悲しみ、嘆きをどこかにぶつけないと本当におかしくなりそうだった。


 半ば八つ当たりの大樹の叫びを、清春は黙って聞いてくれた。そのうちに涙が両目を濡らし、嗚咽が漏れ、しゃくり上げるようになる。


「音が、聞こえるんだ。飛び降りた、あとの……ひっく、潰れる……それが、ううっ、耳に残って……だから、俺は……でも、関係ないって……くそっ。ちくしょう……!」


 背後の壁にぶつけ続ける後頭部の痛みですらどうでもよかった。ただ無性に暴れたかった。叫びたかった。泣き喚きたかった。


 降り出した雨が髪の毛を濡らし、頬に溜まっていた涙を洗い流した。

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