狂おしい棘

栗原菱秀

第一話

 長々と綴ってきた文章の最後に、ハンスがペン先でピリオドをそっと記し終えた直後のことだった。夜の静寂を破るように、遠くで鴉がひと鳴きするのが聞こえてきた。

 不意を突かれたハンスは反射的に顔を上げる。その視線の先にある窓の外は、闇の世界から徐々に光を取り戻しつつある。机の上の時計に目をやると、針はそれぞれ天と地を指すところだった。

 ハンスは、ああ、もうこんな時間なのかと深い溜め息をついた。そして、書き上げた紙の束を見つめる。一晩でこんなに語ることがあったのかと、我ながら驚いた。しかし、これでようやく区切りをつけることができたという安堵感から、全身の力が抜けていくようでもあった。

 すべて終わった。

 もう語るべき言葉は残されていない。

 そう、これでもう、禍々しい自分の亡霊は、安らかな眠りにつくことができるだろう。

 自分の新しい人生が、今日から始まるのだ。

 ハンスは紙束をまとめて引き出しに仕舞うと、しばしの安息のために寝台へ向かった。



 今日、私はアキレイオン共和国の初代大統領という大任を拝命した。以前は、この自分にそのような重大な責務が務まるだろうかと恐れなど抱いていたものだが、今では自らの手で歴史を作っていくことへの希望に満ちている。

 就任式で私は司教を証人として、神に誓った。

「私が就く職務に対して信義に基づき、賢明に、忠実に、また誠実に果たすことを、民衆に、そして神に厳粛に誓う。神よ、我を助け給え」と。

 民衆を導く羊飼いとして、また民衆に仕える僕となった以上、これから私個人の人生は無きに等しいものになった。

 そのことに不平を言うつもりはない。むしろ、この宿命を喜んで受け入れている。これこそが神が私に与え給う定めであると。

 しかし、人間の人生は《Candidus》というわけにはいかないものだ。誰しもインクの滲みのような汚点が、記憶に染みついている。

 そして、それは年をとるごとに色濃くなっていく。

 そんな過去が、私にももちろんある。

 だが、普通の人間ならば、日曜の礼拝のついでに告解室で司祭に告白してしまえば贖宥してもらえるが、私にはもうそんな機会は巡ってはこない。

 人の上に立つ私の罪が、清められることは金輪際ないのだ。

 これら過去の記憶の底に沈む血の苦しみが、刃となってじりじりと私の喉元に迫ってくる。

 それはやがて、追い立てられるような思いに襲われることになった。

 悪夢のようでもあるし、甘い夢のようでもあったあの出来事を、誰かに聞いて欲しい。すべてを吐き出したい。吐き出して、彼女への思いと罪から解き放たれたい、と。

 そのために、私はこの手記を書くことにした。

 唯一の聞き手は神である。

 神だけを戴く私には、それしか手段がないからだ。

 しかし、だからこそ、心置きなく自由に真実を語ることができるだろう。

 また、この手記には、私の記憶の他にもう一つ、いや一人の証人が存在する。

 彼女が残してくれた言葉は、私が犯した罪の唯一の証言者である。

 さあ、彼女の日記と共に、あの時何が起きていたかを振り返ることにしよう。

 もし、この手記を後世の誰かが読むことになったら、なんと罪深い人間であるかとおぞましい思いをするかもしれない。

 でも、これこそが私の真実である。


 若者というのは、えてして年寄りの話など退屈なものと思っているものである。

 なにしろ彼らの話すことと言えば、世の中の仕組みも暮らしぶりも、価値観までもすべてが現在と違っている世界で起きたことなのだ。今が世の中のすべてであると純真に信じている若者にとって、年寄りの話す過去の世界が自分とは一切つながりがあるようには思えない。怪物や妖精が出てくる神話やおとぎ話にも似た、絵空事の物語のようにしか聞こえないのも仕方ないことである。かく言う私自身だって、そのような若者だったのだから。

 しかし今、未来に限りが見えるような年齢になると、自分が生きてきた過去ばかり脳裏に浮かんできてしまうのが理解できる。何もそれは、現在に対しての倦怠とか嫌悪という負の感情からということではなくて、過ぎ去った時間はもう二度と戻ることがないという真実への、後悔や憧憬というものが生み出す寂しさなのだろう。

 かつて共に笑い、泣き、怒り、歓喜した家族や友、また憎んだ敵すらも、一人そしてまた一人とこの世界から消えていく。その非情な真実は、神が決め給うた自然の摂理なのだから、人間ごときが抗うことなど愚かなことだ。

 だが、存在が消えることで彼らが生きた記憶もまた消えてしまうのか、という考えがよぎった時、まだこの世界に残っている者が何とかしてその記憶を繋ぎ止めておかなければならない、という責務に突き動かされるらしいのだ。

 だからこれから書くことは、一人の老人が昔を懐かしんでいる手記であるが、同時に私と同時代に生きた人々の、正々堂々確かに生きたことの証言として受け取ってほしい。

 

 若かった頃の思い出を、美しく飾り立てて語ることができればどんなにか良いだろうと今でも思う。夢や大志を胸に立身出世を目指すとか世のため人々のために身を捧げるとかいう話があれば、私の人生にもそれなりの箔がついただろう。だが、あいにく20代の私は、世間に対して誇れるような立派な若者では全然なかった。

 絶対王政であるアキレイオンにおいて、家柄や血筋というのはすべてを決める。生まれながらの身分は神から給わった宿命であると、アキレイオンでは信じられていた。

 そのような背景もあり、自らの階級からはみ出そうとすることは反社会的行為だと定義されていた。そのせいで有能な資質を持った若者であっても、下位身分に生まれてしまった以上、社会の中で自ら身を立てることは世間が許さなかった。

 その意味でいうなら、私は大いに恵まれていたはずである。

 身分制度の勝者たる貴族階級の子、それも長子、長男として生を受けたことで、何不自由ない暮らしと暗雲一つない生涯が約束されていた。あとは、先祖代々の領地と財産を守り、領地から吸い上げた収入をどうにかこうにか殖やしていく事だけを考えていれば良かった。

 特に私の父という人は、自らの伯爵という立場に強い自尊心を持っていて、それはある種強迫観念と言っていいほどだった。そして、その執念は跡取り息子たる私に対しても向かった。

 幼い頃から貴族社会の一員である自覚を常に持つよう要求し、心身ともに貴族的人間になるための教育を施された。

 ラテン語に代表される、トリウィウムとクワドリウィウムのような、貴族の男子には必須の学問を、専門の家庭教師の下で徹底的に教え込まれたわけだが、父が特に力を入れたのは、銃の取り扱いと射撃の訓練、肉体の鍛錬のような、「男らしさ」を身につける教育だった。

 父は私に対して、過剰なまでに男らしくあることを望んでいた。つまり、女を支配し、他の男を圧倒する力を持つことが、あるべき男の姿だと信じていた。

 だが、期待していた自分の息子は、その理想を大きく裏切る人間だった。

 私は、自分のであれ他人のであれ体を痛めつけるようなことは嫌がり、学問や芸術の中に自己の世界を求めるような少年だったから、父はことあるごとに私を鞭打ち、罵倒し、己の望む人間になるよう檄を飛ばすのだった。

 父が鞭を打つたび、その本数を数える声を聞きながら、普通の人間にとって安心できるはずの家が監獄と同じなら、自分はどこに逃げればいいのだろう、と絶望的な気持ちになるのも当然だった。

 しかし、世間から見た場合、正義は父の方にあると見られていた。父の厳格さは「ノブレスオブリージュ」の理想と誇りを体現しているように思われ、軟弱でわがままな息子をまっとうな男に教育してやっていると賞賛されこそすれ、その暴力的な支配を非難する声など皆無に等しかった。

 私にとって不合理極まりない状況だったが、それでも18歳になったら自由になれると期待していた。成年となれば親の管理から解放され、自らの意志で道を決めることが出来るはずだったからだ。 

 私は親交のあった大学の教授に大学に進学したい旨を伝えており、そのための手続きも父に隠れて済ませてあった。

 このように、大人として独り立ちできる日を指折り数えて待っていた日々だったが、父はさっさと先手を打ち、私の夢を踏み潰してしまった。

 18になった日の朝、私は意を決して両親に家を出て大学へ入ることを伝えるため、口を開こうとした時だった。父は私を制し、こう告げてきた。

「ハンス、お前は来週から陸軍に入隊することになった。これは決定であり、拒むことは許されないぞ。だから、その後ろに隠してある紙くずはさっさと屑籠へ放り込め」

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