2 偉大なる俗物

エリザベス2世の在位が長くて皇太子時代の印象が強いせいか、現国王のチャールズ3世と言われても未だにピンと来なかったりする。

すみません。病気の完治と家庭円満を祈ってるんで許してください。

さて、調べてみると、チャールズという名の国王が誕生したのは364年ぶりになるらしい。

てことで、前のチャールズ2世の時代はどのような治世だったのかを調べていたら、Wikipediaの記事よりも一番信頼できる証人がいたことに気がついた。

その人の名は、サミュエル・ピープス。

17世紀イギリスの海軍省の官僚で、のちにイギリス海軍の父と呼ばれることになるので、イギリス史にも名を残す正真正銘の偉人である。

のだけど、ピープスの名前が歴史に名を残すことになったのは、この偉大な経歴以上に、彼が27歳から10年の間に詳細につけていた日記の存在が一番の理由と言ってもいい。

政治家であれ、文豪であれ、学者であれ、名もなき(というのも失礼なものだけど)市井の人であれ、書いた日記が残っていることは別段珍しいことではない。

しかし、ピープスの日記が他の日記と比べてユニークかつ異質なのは、「本当にあったことすべてを書きつけていた」から。

「いや、日記ってそういうものでしょ?」

と思うあなた、ほんっとうに自分について嘘や誇張もなく書くことが出来ますか?

いくら鍵付きやらパスワードなどで、絶対! 誰にも! 見られることはない! と安心していても、実は最強最悪の他人の目があることを忘れている。

それは、他でもない自分自身。

良いことがあれば調子に乗り、悪いことが起これば自己正当化や自己弁護、そして他者を罰する気持ちでいっぱいになる面倒くさい他人、それが自分だ。

自己を虚心坦懐に見つめて客観的に書き記すなんて芸当は、どんな聖人であっても至難の業。

だからこそ、19世紀アメリカのジャーナリストで作家だったアンブローズ・ビアスは、名著『悪魔の辞典』(西川正身編訳・岩波文庫)で日記について、


”自分の生活の中で、自分自身に対して顔を赤らめずに物語ることのできる部分についての日々の記録”


と看破して、自意識の囚人たる人間を冷ややかに見つめている。

実際、書いた日記を冷静に読み返すことが出来る人がどれほどいるか。

だいたい引き出しとか棚の奥に(忘れたフリして)仕舞い込んでいた日記を見つけて読み返してみたら、同じ自分が書いたとは思えないような内容で速攻にゴミ袋送り or シュレッダー、というパターンが多いと思っている(出典は私)。

大抵の黒歴史は日記の中に隠れているものだもの。

だが、ピープスはそんな我々凡人とは全然違う。

日記をつけていた10年間、本当に1日も欠かさずその日にあった出来事を事細かく記録している。

そして、ピープスの一番凄いというか偉いというかタダ者ではないのが、自分の恥部についてでさえも正直に包み隠さず書き残している点。

普通の感覚であれば、「こりゃあバレたらエラいことになるなぁ」ということ、即ち、不倫とか賄賂、同僚の悪口などなども、本当に、ほんとーーーーーーにバカ正直に書いている。

当時は鍵付きの日記帖なんてなかっただろうから、妻や女中に読まれる危険もあったはず。

でも、日記を隠していたわけでもない。

じゃあ、ピープスはどうやって他人の目から日記を守っていたかというと、自家製の言葉を作ってそれで書いていた。

どういうことかといえば、母語の英語だけでなく、フランス語やイタリア語、ラテン語、ドイツ語などなどをごちゃ混ぜにして、自分なりの言語を作って書いていたから、他人が読んでも到底理解出来ない文章になっていた。

臼田昭『ピープス氏の秘められた日記 ー17世紀イギリス紳士の生活ー』(岩波新書)の中で、臼田氏が、


”しかし秘めごとは秘めておくほど楽しいもので、こういう言葉を考案しながら書きしるすこと自体に、書きしるされる行為の再現にも近い楽しみがある、ということは想像できる。(中略)

 だから彼は、そこで自分の行動や心理を語って、まことに率直・勇敢で有り得たのだ。”


と書いているように、決して他者の目に触れることがないという安心感があったから、正直に、(意味は違えど)自分に対して誠実に書くことが出来た。

こんなことだから、当然ピープスの日記が発見されてもすぐには内容が分からず、「解読」されるまで数年かかった。

それでも最終的には全部バレるんだけど。

まあ、死んで100年以上も経ってしまえば個人の恥より学術的資料としての価値の方が高くなるので、もはやピープスの意志は無いと同じである。あの世で赤面してももう遅いぜ。

でも、おかげでその時代(チャールズ2世が統治していた王政復古の時代)がどのようなものだったかが、生き生きと伝わってくる。

ピープスが生まれた頃は清教徒革命の動乱真っ只中、子ども時代にはチャールズ1世の処刑を目撃している。そして、彼の官僚人生は、チャールズ2世の王政復古と歩調を合わせて始まった。

それからの10年、国益の為に猛烈に働きつつ、妻の目を盗んで浮気をくり返し、賄賂を貰って出世していくピープスの、山あり谷あり欲まみれの人生は、偉人というより俗物のそれに近い。

しかし、俗物は俗物でも偉大なる俗物であって、本当に吹けば飛ぶよな小市民とはまったく次元が違う。

ピープスは、世の中がどんなに安定したように見えても一寸先は闇であることを、嫌が応でも身を以て知っていた。そんな現実の残酷さを身に染みて理解している彼にとって、自分自身と金こそが頼りである、というテーゼは、凡人が思うよりも切実だったのだろう。

また、他の人間のように天国に対する希望も抱かなかった。

いや、「抱けなかった」というのが正しいかもしれない。

ピープスは、清教徒革命に勝利し護国卿として国を治めたオリバー・クロムウェルがが死後、王政復古後、レジサイド(王殺し)として墓を掘り起こされて死後処刑に処され、その晒された首を自らの目で見ている。

このように、死んでも安らかな眠りにつくことが絶対には保証されないという事実は、ピープスに、聖書ですら自分を導く力はないと無意識に思わせたのではないだろうか。

日記には事あるごとに「神は褒むべきかな」と書きつけ、教会に足繁く通い、牧師の説教に殊勝な顔で耳を傾けながら(一方で美人チェックも怠らない)、現実の世相と自分の野望欲望を見極め、バランスを図りながら生きていく。

そして結果、賄賂を貰いつつ、堅実にせっせと貯蓄に励み(でも、妻のレース代はケチるのに、自分服や観劇の支出には甘いの笑う)、妻を「王妃よりも綺麗だ」と終生愛し(でも浮気はしまくる)、偉大なる俗物の力もあって、チャールズ2世の治世は安定したのだろう。多分。知らんけど。

しかし、だな。

ロンドンでペストが流行した際、自分は仕事があるからせめて妻だけでもと気遣って田舎に疎開させた……。

と、ここまでは大変な愛妻家に見えたのに、妻の不在を良いことに速攻ヨソの女とイチャイチャ出歩くのはどうかと思うんだよなぁ。

(そして、この話を女子にすると皆が皆、「あ”あ”ー!(激怒)」「最っ低!!(憤怒)」って怒るのが面白くてよくしてる。まあ、そりゃそうだ)


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