人は不可解、世は奇っ怪

栗原菱秀

1 ロマンスの神さまはどこにいる?

数多くの男たちと恋愛関係を持ちながら、生涯を独身で通したココ・シャネルは生前、結婚についてこんな辛辣なことを言っている。


”「彼ら」は一人ずつだと悪くない。だけど二人いっしょになると、ほんとうに嫌な相手になる。(中略)夫婦は一つの連合、「結合は力なり」というわけで、そんな功利的連合なんてうんざりする。(中略)ひたすら計算と思惑とエゴイズムのかたまり。”(『シャネル 人生を語る』ポール・モラン/山田登世子訳・中公文庫)


と、まるで独り者の自分とは人種が違うとでもいうような具合で容赦ない。

モードの革命家であり、時代に先駆けて自立した女だったシャネルの目に、結婚というものは、自由な自分を縛り付ける上っ面だけの運命共同体に映ったのかもしれない。また、母に早く先立たれ、父に捨てられた彼女には、家族や家庭というものが持つ親密さや優しさというものが、物語だけに存在する、実感に乏しい感覚だったのかもしれないし。

とはいえ、21世紀の今でも結婚は人類の関心事であり続けている。

かつてのような結婚しなければ人間としては半人前である!なんていう圧力は減じたとしても、家族を構成する礎は夫婦である、というのが原則としてある以上、結婚願望の有無を問わず誰でも結婚からは逃れられないのが現実。

それでも結婚に対する考え方は、家同士の「同盟」を結ぶためのものという意味合いから、当人同士の愛情の結びつきによる誓約関係という風に変化していったことも事実。結婚は当事者二人が良ければいい、という風に。

少なくとも建前の上では、ね。

実際は、「結婚はステータス上昇のいち手段」であることは今でも変わらない。

特に女子の場合は、良い男をいかに捕まえるかが最大の関心事になってる人も多かろう。

そういう上昇志向の強い女子にとってこの状況を最大限に利用するのも、多分今はそういうのは流行らないだろうなーってことは承知した上で、でも女子の生き方としては十分有りなんじゃないかと思う。私には到底無理な生き方だけど。

そして、冠婚葬祭はどんな平凡な人間でも主役になれるイベントであることに加え、結婚は当人だけでなく社会制度にもふかーーーーーく関わってくるだけに、大変ドラマチックな展開になる装置が揃っている。

つまり、誰もが羨むようなドラマの主人公になるチャンスが。

ということで、結婚にまつわる面白い話は古今東西たくさんある。

岩田託子『イギリス式結婚狂騒曲 ~駆け落ちは馬車に乗って~』(中公新書)の中で、


”イギリス一八世紀は基本的に、親が主導権を握る「便宜的な結婚」がまかりとおり、恋愛結婚が困難な時代であった。恋愛結婚は、感情と心理を持つ個人が、おのれの人生を設計できる自由があって初めて成立する。(中略)

 結婚における恋愛の役割は、一八世紀の初めから比べると、三〇〇年のあいだに大逆転を果たしたことになる。今では恋愛結婚が当然である、と法の目にも認められているのだ。

 だが、ここに問題が潜んでいる。結婚は社会的な制度であるが、恋愛は移ろいやすい人の気持ちである。したがって、恋愛結婚とは、社会的制度に人の気持を添わせること、もしくは、人の気持を基盤に制度を築くことーーどこかに無理が生じるように思われる。

 恋愛が結婚の基盤である、と当然視される。

 しかし、結婚の基盤にある恋愛をどのように証明しようか。となると、恋愛結婚が、ある種の強迫観念に転化してしまうのも間近だ。結婚するには恋愛がなければならない、この結婚は恋愛の結果だ。恋愛結婚という観念に、逆に縛られる……。”


なんて感じに、個人の意志と社会的制度の衝突が謎のねじれ現象が発生してしまうことだってある。

というか、あった。

そんな、手段と目的の逆転現象が起こってしまったのが18世紀イギリスの有名な「グレトナ・グリーン婚」、すなわち「駆け落ち婚」のことである。


そもそも「駆け落ち婚」って結婚なのかい? 


と思われるでしょうから、ちょっと説明をば。

もともとイギリスには「婚姻法」というものが存在していて、その時々で改革されていたのだけど、1604年に教会法で国教会式の挙式婚が確立された。国が直々に「結婚するならこういう形式で頼むよ」ってなお達しで、この形式で結婚したら婚姻はめでたく有効となる。

と公式には言われていたけれど、現実に婚姻法があっても二人以上の立会人のもとで結婚する当事者の合意が認められたらそれで結婚成立でござんす、という慣習も法的には有効とされていたのだとか。

それがいきなり国教会式でやってちょうだいよと言われても、手続きは面倒くさいし(何しろ教区教会に婚姻予告を三週続けて、「皆さんご異議ありませんね?」と世間に確認しなきゃならない)、何より結婚というすこぶる個人的なものにお上が口出ししてくることにムカついたらしい。

ってことで、国教会式に対抗して簡素に出来る「秘密婚」が広がったんだけど(ちなみに何故かフリート監獄の近くに「秘密婚」用の式場が多かったから、別名「フリート婚」と呼ばれた)、法律の抜け穴だけに色々悪いことを考えるヤツも多かったようで問題になっていた。

それを是正するために「ハードウィック婚姻法」(法案を作成したハードウィック卿が名前の由来)が1754年に成立したんだけど、これが結果として「駆け落ち婚」を誘発することになった。

そんなに厳しい法律なの?って思うけど、実はそんなに厳しい内容じゃない印象。

国教会方式に、21歳未満の未成年者は親もしくは保護者の同意がない場合は無効なのと法律違反は重罪ってなことが付け加えられたくらいで、そんな目くじら立てて怒るようなもんじゃないだろうよ? って個人的には思うんだけど(実際、歴史家からの評価は高い)、当時の人たちはこの法律を国家の干渉主義と感じたらしく「結婚は当人たちの問題であって、権力が口出ししてくんな!」って感じで国民はかなり反撥した。

さすが恋愛結婚の国でありますな。

でも、反撥したのはイングランド国民だけじゃなかったのが、この法律の面白いところ。

スコットランドはイングランドからの独立意識が強いのもあって、

「えー、ここスコットランドではハードウィック婚姻法は適用しません」

って言ったもんだから、イングランドの若いカップルは皆、目指せスコットランド!私たちの愛のために!という思いで、スコットランド、それもグレトナ・グリーンを目指した。

でも、駆け落ちするためには結構厳しい条件がある。

まず、家族に相手との結婚を反対されていること。

そして、どちらか一方が社会的地位が高い、もしくは凄い金持ちであることが強く望まれます。

最後に、何より(これが肝心)すべてをなぎ倒してでも相手と一緒になりたいと強く願っている(ように思い込む)こと。

カッコの中は、結構重要だったりする。

このロマンスは尊いもの、だからどんな手を使ってでも成就させてみせるんだから!という思い込みこそが、人生の大冒険を成し遂げるためには必要だ。

そんな「ロマンスの神さま」の敬虔なる信徒が、貴族のご令嬢から庶民の娘さんまでこの本にはわんさか登場している(ダイアナ元妃も実はそういう妄想の虜だったフシがあるらしい。義理のおばあちゃんがロマンス小説の大家だったとか)。

でも「恋愛なんて……」なんて言ってシニカルぶってる人間より、ほんの束の間であっても、「世界の主役が私なの!」と勇猛果敢に人生に挑んでいる人間の方がよほど好ましく見えるので、私は大好きだな。


ちなみに、『イギリス式結婚狂騒曲』で紹介されている演劇『恋がたき』の作者であるR・B・シェリダンも、実は駆け落ち婚の実践者だったりする。

ハーロー校在学中の1772年に有名なソプラノ歌手であるエリザベス・リンリーと駆け落ちしてフランスに逃亡している。

駆け落ち当時、シェリダンは20歳、エリザベスは18歳、共に未成年だったので(イギリスは21歳が成年だった)、この駆け落ち婚は無効とされた。

でも、二人の真剣さが伝わったのか、翌1773年に正式に結婚している。

と、人騒がせなことをしたシェリダンだけど駆け落ちしなきゃならなかった事情があったのよ。

というのも、子どもの頃から歌手として活躍していたエリザベスは、その可憐な美貌も相まって求婚者がたくさんいた。それだけでなく、エリザベスの父トマスが娘の意志など無視して勝手に60の爺さんと婚約を決めてしまっていたのだ。オヤジ、最低だな!

こんな背景もあれば、駆け落ちで既成事実を作ってしまおうと考えるのも当然だ。

そりゃ、駆け落ちにまつわる騒動を描いた『恋がたき』にリアリティあるのも当然だわい。


ここまでは、恋愛至上主義的結婚について書いてきたけど、お次はとある「ザ・政略結婚」の顛末について書いていきたい。

この物語の主役は、高貴なる皇族の殿下である。

世の乙女がうっとり思い描く麗しのプリンス……と思うかもしれないが、これを読んだ後では多分、

「サイッテー!」

と吐き捨てていること請け合いである。

 

時は大正13年、某皇族から宮内省に長男の婚約を解消したいという申し出が出された。

理由は、家族である相手の節操に疑いがあるためだという。

しかし、天皇からの内許を得ていた婚約の解消に対して、簡単に許可を与えるはずはない。それに、この某家はかつて長女の婚約において、宮中を二分する争いを起こした過去があった。

さて、これはどう処理したものか……。


某皇族とは久邇宮くにのみや家のこと。そして、長男とは朝融あさあきら王のことである。

「王」と称されることだけあって(王とはプリンスの意味)、紛うことなき高貴なる御方である。

そのようなやんごとなき方が、たとえ華族の令嬢とはいえ「節操に疑いあり」というような女性と結婚するなどとんでもない、確かに婚約解消しても仕方ない、と思う人もいるかもしれないが、この話は久邇宮家が言い出した全くのデタラメ、嘘だったのだ。

双方共に10代前半という若さで婚約の内許伺いを仰いでいたことから、家同士の都合で決められた婚約だったことは明らかである。その上、皇族の結婚は天皇の許可が必ず必要だったので、内許を仰いで認許が与えられたらもうその時点で結婚は確定したも同然、それを取り消すことは至難の業だった。

でも、朝融王が相手に厭気が差してか、それとも他に目当ての相手が出来たのかどうかは知らないが、婚約相手と結婚したくないと父の邦彦王に駄々を捏ねて、婚約を取り消してもらおうとしたらしい。

それに対して相手方は、「それでは約束が違うではないか!」と猛反発したのは当然だが、問題は両家だけの問題に留まらず、宮中まで巻き込んだ三つ巴の騒動となり、俗に「久邇宮朝融王婚約破棄事件」として歴史に刻まれている。

この一件だけでも男側の身勝手さにうんざりするが、実はこの久邇宮家、昭和天皇の皇后良子ながこの出身家でもあるのだ。

つまり、前に書いている長女の婚約にまつわる騒動というのは、「宮中某重大事件」として当時の社会を大きく騒がせた事件のことだったりする。

この「事件」は、久邇宮家の家系に色盲の遺伝があることを知った元老の山縣有朋が、皇太子と良子の婚約を解消させようとしたことに端を発する。

山県有朋という政治家は尊皇思想を奉じて世に立った人でもあるから、この事実を重く受け止めたらしい。また、大正天皇の健康問題を考えると、「皇統の純血」は絶対に必要という思いもあった。そのため、この遺伝に関する調査結果を当の久邇宮側に呈示し、こういうことだからと辞退を申し出ることを望んだわけだ。

しかし、久邇宮は猛反発した。

この件が起きる以前に、皇族の増加を抑えようとした「皇族降下令」(皇族は八世にして臣下に降下すること)の成立の動きで、山県たちと久邇宮邦彦王や伏見宮博恭王が対立した経緯もあって、「宮中事件」前から十分火種は燻っていたわけだ。

その火種に大量の油を注ぐことになった宮中某重大事件は、婚約解消に動こうとする山県側と抵抗する久邇宮家や皇太子の教師という対立軸に、薩長閥の対立などが絡んで大揉めに揉めた結果(右翼からの攻撃も激しかったらしい)、婚約解消を訴えていた山縣有朋が元老を辞し、婚約はそのまま履行されることになった。

つまり、この件では久邇宮家が大勝利を収めたことになったわけである。

生前、


「自分は勤王に出で勤王に討ち死にした」


と書き記したほどに、維新の時代から尊皇を信条に生きてきた山県有朋にとって、これは何よりも悔しいことだっただろう。

だが、そんな山県の思いなど久邇宮家は知ったことでもないようで、大正12年に皇太子裕仁と良子女王の御成婚が無事済ませたとなるや、今度は「相手に厭きた」なんていう理由で、自分たちは婚約を解消したいとかほざいてきた。

宮中某重大事件で山縣に肩入れしていた人間たちにしてみれば、

「どの口で言うか~!(怒)」

という気持ちになったのも当然と言えば当然である。

ある意味ごり押しに近い感じで将来の天皇に嫁がせることが出来たことで、久邇宮家は少々図に乗っていたのかもしれないし、もともとそういうお家柄だったということもある(西園寺公の証言もある)。

だけど、勝手な言いがかりをつけられて婚約解消を言い渡された方はたまったものではない。

相談人(旧幕臣の家臣団の皆さんというのが凄い)の猛抗議に加えて、宮中某重大事件で久邇宮家の態度にムカついていた人間は、これをチャンスとばかりにあの生意気な皇族にひと泡吹かせてやろうとする。

臣籍降下案をちらつかせてまで。

とにかく、久邇宮家と相手方、そして宮内省とそれぞれの思惑や事情が複雑に絡み合って、なかなか上手くことを収めることが難しかった。

仲介役に頼まれた徳川さんや西園寺公は、何とか話をまとめましょうかね、はいはいと奔走してくれたけど、心中、


「あー、めんどくせぇなー……」


と呆れ返ってたんじゃないかしら?

自分の得になるわけでもないのに頼まれれば動かなきゃいけないんだから、フィクサーも大変である。

結婚が、それこそシャネルの言葉のように「結合こそ力なり」という思惑で動く場合、つまり同盟を築くための政略結婚であるなら、結婚する当事者の気持ちなど聞く耳を持たず、自分たちの同盟(家)の都合だけを優先される。結婚する当事者は所詮、将棋やチェスの駒の一つに過ぎなくなってしまう。

男はそれでも構わないだろうが(いや、偏見か)、女の心情は一切無視される。

「婦人一人を殺す様な風説を立て」(倉富日記)られても、抗議すらさせてもらえない。

最終的に婚約は無事解消と相成ったわけだが、この朝融王という男はちっとも懲りない質だったようで、この後伏見宮家(つまり、皇族降下令で反撥した仲間だった伏見宮博恭王)の次女である知子女王と結婚してからは、謎に安心したのか女癖の悪さが爆発している。

知子女王の不在時に、侍女に手を出して妊娠させて、生まれた子どもは農家に養子に出されている。これだけでも、おいおい!ってなものだが、当時の総理大臣の年俸が1万円未満という時代に、子どもの養子先には1万円、また侍女には5000円を支給している。

あ”あ”……?

これだけに留まらず、三女が言うところでは、

「父にはあちこちに、1ダースじゃきかないくらい子どもがいる」

らしい。

何それ?(呆)

昭和天皇もこんな義理の兄にはほとほとお困りになっていたようで、


「金を持たせると女にばっかり使うし、禁治産者にでもした方が……」


とまで仰っていたらしい。

こんな行状もあり、他の皇族からは冷ややかな目を向けられていたらしいけど、本人はそんなのは気にするような人間ではなかったみたいだ。

何しろ今上天皇の義兄なのだ。怖いものなしで、戦後の皇籍離脱と公職追放の憂き目に遭っても好き勝手に生きていた。

そんなどうかしてる男と結婚した知子女王の気持ちはというと、


”「朝融王も酒井との婚約破れ、速に結婚出来ざれば、其面目に関するに付、朝融王に婚することを承諾せよと云われ、自分は其時より犠牲になる積りにて結婚したり」”(倉富日記)


と後に語っていたという。

それほどの覚悟でもって嫁してきたというのに、戦後間もない昭和22年に40歳という若さで亡くなっている。


参考にしたサイト

【久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺】

http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/asaakira.html

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