『距離』

『雪』

『距離』

 立ち込めるアルコールと酸化した油の匂い、隣室から漏れ聞こえる歌声がボリュームを落としたカラオケ機器のCMと入り混じって何とも言い難い、妙ちきりんなBGMとなっている。時折混ざる呻き声やいびきに、誰かがビクリと反応しては、何事も無かったかの様に再び眠りに付く。

 死屍累々、そう表現するに相応しいある種の地獄絵図となった部屋からそっと抜け出して、誰も居ない喫煙室へと足を運んだ。




 喫煙室に滑り込み、充電の少ないスマホを確認すると、時刻は午前四時前。届いているメッセージの内、手軽に返せるいくつかのメッセージは返信しておくが、ツァーリボンバ級のソレについてだけは見て見ぬふりをせざるを得なかった。今更ちょろっと文章で言い訳したって仕方が無い、数時間後の自分に何とか頑張って貰うしかない。

 そんなあまりにも情けない責任転嫁を決意した後に、ふと気になったのは部屋に置いてきた酔っ払い共の事だ。大学生時代に所属していた音楽サークルの中でも、今なお交流がある程に仲の良かったメンバーではあるのだが、一人を除いて異様に酒癖が悪く、今回の様に突然三次会のカラオケに行くと言って聞かないような連中である。

 もうじきフリータイムは終わりを迎える訳だが、一体何人がまともに帰宅出来るだろうか。

 ま、他人の事心配してる場合じゃないよな、と一人呟くとパーカーのポケットに忍ばせた煙草を手に取った。

 煙草に火を灯し、煙を酸素と一緒に深く吸い込んで、肺いっぱいに満たされた煙を喫煙室の天井で回り続ける換気扇に向けて吐き出す。白く棚引く煙が換気扇に吸い込まれてゆくのを眺めながら、再び吸い口を咥えようとした時だった。

 喫煙室の扉が無遠慮に開かれて、見知った顔の人物が入室してくる。大学の頃より数段明るい茶髪を肩の辺りで切り揃えた女性――神崎恵理は僅かに赤い顔のまま此方の隣に並ぶようにして壁にもたれ掛かった。


「……いいのか、喫煙室になんか入って」


 思えば恵理とこうして一対一で話すのは、それこそ大学生の時以来かもしれない。今更お互いに気まずさも遠慮も在りはしないが、何となくそうなる機会を意識的にお互いが避けていた部分がある事は否めなかった。


「絶対にダメって事無いでしょ、そりゃ確かに推奨はされてないかもだけどさぁ」


 昨晩から今朝に掛けて、周りの心配など何処に吹く風といった具合のハイペースで飲んでいたように思えたが、想像よりはっきりとした声色で恵理は答えた。


「話なら外で聞こうか」


 まだ半分以上ある煙草の残りを柄入れに落とそうとした腕を、恵理はやんわりと制止させた。そして器用に指先だけで煙草を奪うと、なんの躊躇いも無く自らの口に運ぶ。

 先端に灯る橙色の明かりがひと際強い輝きを放つ。此方が止める間もなく恵理はそっと紫煙を放ち、まじまじと手にした煙草の銘柄を見て微笑んだ。


「良い銘柄だよねぇ、コレ」


 恵理の真っ白な指に挟まる煙草はあの時と何も変わらない。変わったのは恵理の薬指に嵌まるエンゲージ・リングだけだ。


「さあな、モノの良し悪しはよく分からん」


「あの時からずっとコレにしてたの?」


「……一々変えるのも面倒だからな」


 半分は嘘で、半分は本当の事だった。煙草は二十歳の頃から恵理に感化されて吸い始めたが、未だに味の良し悪しなどは分からない。

 だが、それでも敢えてこの銘柄に拘り続けていたのは、今この瞬間の為であったのだ、何処かでお互いがそう感じていた。


「ふぅん。ま、そういう事にしといてあげる」


 そう言い、恵理は煙草を柄入れに落とすと、かつてそうしたように着ていたパーカーの袖口をちょいちょいと、二度だけ引っ張った。

 恵理の仕草につい反射的に身を屈めてしまうと、恵理は満足そうに頷く。視線が交差し、恵理はそっと目を瞑る。そんな仕草に釣られて思わず目を瞑ったのは、きっとまだ酒が抜けきっていなかったからに違いない。

 唇に触れる生暖かい感触。しかし、何故か違和感を覚えて目を開けると、ニマニマと意地の悪い笑みを浮かべる恵理が居た。そのまま唇の間に挟んでいた指をグイと押し付けて、その反動をもって一歩だけ後ろへと下がる。


「これが今の私達の距離、でしょ?」


 あの頃のように楽し気で、でも何処か悲し気に恵理はそう言った。そして、此方が返答するよりも早く、何事も無かったかのように背を向けて、恵理は喫煙所を出て行った。

 その小さな背中をぼんやりと見送り、ため息を零すと、恵理の後を追うようにして喫煙室を後にした。




 ドリンクバーのカウンターで真っ白なマグカップに、湯気立つホットコーヒーが注がれるのを眺めながら恵理は呟く。


「酔っ払いのたわごとって事で、聞き流して欲しいんだけどさぁ」


 それは店内を流れるヒットソングにすら掻き消されてしまいそうな小さな声だった。


「ままならないよね、本当」


 指輪の付いた左手でお腹を擦りながら恵理はフフッと笑う。

 幾重もの選択肢の中から選んだ今だけが此処には存在している。それがどうしようもない程、お互いには分かっているはずだった。故にこの会話に何の意味も無い事も。


「あ、ごめん。電話だ」


 ポケットから微かに震えるスマホを取り出した恵理は、その場で通話ボタンを押して話し始める。


「うん、そうだよ。始発でそっち向いて帰るから。大丈夫、無理はしてないし、ちょっと仮眠したから体調は良いくらい」


 恵理の通話相手との会話を聞きながら、頭の中でこの後に帰宅した時の言い訳をぼんやりと組み立て始める。もっとも、ウチの場合はこんなに穏やかな話にはならないだろうが。


「はーい、じゃあまたね」


 恵理はそう言い、通話を終える。その表情は何処となく暗い。抽出の終わったコーヒー入りのマグカップを手に取り、何度か息を吹きかけてからゆっくりと口を付ける。


「過保護過ぎだよねぇ、別に二十歳そこいらのガキじゃないのにさぁ」


「心配されている内が花だぞ」


 確かにねぇ、と恵理は頷き再びコーヒーを啜る。自分のグラスも持ってくれば良かったな、と欠伸を一つ噛み殺した。


「飲む? まだあっついけど」


 それを見かねてか恵理はマグカップを差し出してくるが、頭を振ってやんわりと断る。恵理も分かりきった回答に特に気を悪くした様子も無く、自らがもう一度マグカップに口を付けた。


「ままならないな……」


 そう呟いた言葉が恵理に届いたのかは分からない。もっとも、それには何の意味も無い事に変わりは無いが。


「そろそろ、皆を起こしてあげないとね」


「……部屋、戻るか」


 恵理とはその後、会話らしい会話は一つもしなかった。時間ギリギリまで寝ようとする他のメンバーを他所に、片付けと清算を込み合う前に済ませてしまう。退店時間の五時前に全員を何とか叩き起こし、各々を帰路に着かせた。




 自販機で買ったアイスコーヒーを片手に最寄り駅の喫煙スペースに立ち入る。早朝ということもあり、まだうっすらとした薄暗さが空に残っている。人気の無い喫煙スペースで眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、ポケットに入れっぱなしの煙草を取り出そうとした。

 刹那、脳裏を過ぎるのは喫煙室での一幕。唇に僅かに残る恵理の指の感触がフラッシュバックする。

 ため息をついて煙草を握ったまま、コーヒーを飲み干すとゴミ箱に空き缶と煙草を捨てて、喫煙スペースを後にした。

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『距離』 『雪』 @snow_03

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