第12話 三度目のセピア色
金曜日の夜、俺は自宅の庭で一人、素振りをしていた。
土曜日に誠司さんの前で脱ぐ可能性は九十パーセントを越えている。それまでに付け焼き刃かもしれないが体を引き締めておきたいからだ。
バッターボックスに立ったことがあるか?
硬式野球ボールを例に挙げれば、直径約七十ミリ、重さ約百四十グラムの固いボールが、最速時速約百五十キロで飛んでくるのだ。
初めて打席に立ったのは小学四年生の秋で、その時は軟式野球ボールだったけど、ボールが突っ込んできた時は動けなかった。目でとらえることすらできなかった。ボールが風と音と共にキャッチャーがかまえるミットに収まったあとで、ようやく我に返ったのだった。
「何やってんだ兄貴」
弟に質問されたが無視して続けた。
「あんた、草野球でもするの」
母親にも質問されたがやはり無視した。
俺が必死になって金属バットを振っているまさにその時、誠司さんと余田は息詰まる会話を交わしていた。
この会話を俺は土曜日に誠司さんの口から聞くことになる。
誠司さんから聞いたままの、誠司さんと余田の会話をここに記す。
「沢渡くんと何を話したの」
「『誠司さん』て呼ばれてんのか」
「え――」
「あいつのことは何て呼んでんだよ」
「そんな……名字だよ」
「そうかな。名字で呼びあってるふうじゃなかった」
「……余田さん?」
「日野さんのことが好きだって言ってたぜ」
「――断ったのに」
「向こうは気持ちが続いてるみてえだ」
「……ごめん」
「ごめん? 何が『ごめん』なんだよ」
「それは――」
「俺に対して申し訳ねえと思うことでもしてんのかよ」
「違う。違うよ」
「ずいぶん日野さんのこと想ってるみてえだな。誠司さんにはあんたがいる。誠司さんはあんたのもとへ戻っていく。それでも俺はかまわない。俺といるか、あんたといるか、誠司さんが決めることだから。あいつはそう言ってたぜ。忘れられねえ。忘れてえのに、忘れられねえ」
「余田さん」
「それからこんなことも言ってた。誠司さんはあんたを裏切ってなんかいない」
「裏切る……って……」
「俺を裏切ってないって、まるで日野さんがあいつのこと好きになったみてえじゃん。あいつとセックスでもしたみてえじゃん」
「そんな――え……裏切るって――」
「――わりい。俺、今、すげえ動揺してんだ」
「他にも何か言われたの」
「いや、それだけ。俺、あいつに、日野さんと寝たのかって聞いちまった」
「どうして? どうしてそんなことを聞いたの」
「日野さん、ようすがおかしかったじゃねえか。泣きやまなかったり、ぼーっとしてたり。あいつと絡んでから、日野さんが俺の知ってる日野さんじゃなくなっていくってずっと……ずっと怖かった」
「余田さん」
「わかってる。わかってるよ。俺の前で三品が描いたスケッチブック、全部破いて捨ててくれただろ。俺のこと愛してくれてなかったら、そんな真似できねえだろ。わかってんだよ。でも、最近、日野さん、あいつとずっと一緒じゃねえか。明日だってあいつと話があるんだろ。あいつに会いに出かけるんだろ。話があるなら今、電話しろよ。電話すりゃあいいだろ。行く必要ねえだろ。二人きりで話そうぜって、ラブホとかに連れ込まれたら日野さん、断れるのかよ」
「待って、余田さん、俺は」
「――わりい。ほんとにわりい。俺、怖いんだ。怖いんだよ。日野さんから捨てられるんじゃねえかって怖くて仕方がねえんだよ」
「いい加減にしろよ! 俺がそんなことするはずないだろ! 何回同じことを言わせるんだよ!」
「じゃあ言ってみろよ! あいつと何を話したか何をしたかどこへ行ったか、隠してねえで全部俺に言ってみろよ!」
「――言うよ」
「――おう」
「……あの子は、バイセクシャルで。男女両方に性衝動、つまり性欲を持つことができて。だから苦しいんだって俺に相談してきて、俺もそういうこと詳しくないから調べて。だから話すのにもすごく時間がかかって」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃない」
「沢渡は日野さんとヤりたいだけだろ。それで日野さんもあいつに変に同情して、一回くらいなら寝てやってもいいかなって思っただけなんだろ」
「違う――違うよ。信じて」
「こういうことがあって、信じろって方が無理だろ」
「一回くらいならなんて――思ってないよ」
「いい加減にしろ? こっちの台詞だよ。俺は日野さんの何なんだ。お揃いのバングルだってつけてんのに。一緒にいるって初詣でも誓ったのに。一緒に写真だって撮って飾ってるのに。俺が日野さんちの同居人になったのに――」
「……余田さん……」
「はっきりしてくれよ。言ってくれよ。俺は日野さんの何なんだ」
「最愛の、人だよ――」
「ほんとかよ。信じらんねえ」
「だから……帰ってるでしょ。ほんとに余田さん以外の男が好きなら……帰って……ない」
「あいつの言う通り、決めるのは日野さんだ。あいつといるか、俺といるか」
「ねえ、落ち着いて」
「あいつのこと、好きになったんか。それともただの同情か」
「好きって、そんな――同情? どうして? ただの同僚だよ、後輩だよ、ただの――」
「――ごめん。言いすぎた」
「俺こそ……ごめん……」
「日野さん……ほんとに、寝て……寝てない、よな、あいつと……」
「……寝てない。寝るわけがないよ」
「なあ……行くんだろ、あいつのところへ」
「ごめん……。明日だけは……。でも、帰るから。必ずここに帰るから」
「じゃあさ……聞かせてくれよ。どこへ行ったのか。どんなことをしたのか。何を話したのか」
「――わかった」
「いや。――わりい。話さなくてもいいよ。帰ってきてくれさえしたらそれでもういいよ。俺にただいまって言って……」
「……ただいまのキスをするよ。ハグもするよ。いつもしてるみたいに」
「俺……日野さん嫌いになれねえ。離れたくねえ。俺のこと……捨てないで」
「余田さんこそ……俺から離れないで……俺を捨てないで」
「だから、離れるわけねえだろ……捨てるわけがねえだろ。あいつにも言ったけど、俺ができることは、日野さんを信用することだけだ」
「そう――言ってくれたの」
「ああ、言った。言ってやった」
俺が聞いたのは、ここまでだ。
今は土曜日、ここは俺の車の中、助手席に座る誠司さんはまぶたを重そうに伏せている。
誠司さんには俺が住む町の最寄り駅まで電車で来てもらった。俺の車で移動することにしたからだ。
駅ビル前の道路は片側一車線でタクシーが客待ちをしていたりバスが停留所に停まったりしている。通行人や車がひっきりなしに行き交う。だから車を駅ビルまで徒歩三分の立体駐車場に入れ、俺は駅の改札口に向かう階段を一段飛ばしで駆け上がる。
階段を上がると広場に出る。この広場は改札口に直結している。
親子連れ、制服やジャージを着た学生、スーツを着た会社員がめいめいに歩いている。発着を知らせる音楽や駅員のアナウンスがぼんやり響く。改札口近くにあるパン屋からはバターのにおいがする。
腕時計を見る。誠司さんが乗ってくる電車が到着する三分前だ。
改札口から通路へ、人が次々と現れる。前を向いていたり、スマホに視線を落としていたり、隣を歩く人に話しかけていたり、さまざまだ。
緊張のあまり心臓が雑巾みたいにしぼられる。
あ、いた! 誠司さんだ!
誠司さんが歩いてくる!
やべえ。私服だ。超イケてる。超カッコいい!
俺は嬉しくなって、満面の笑みを浮かべて駆け寄る。
でも、誠司さんの前に着いたとたん、俺は立ち止まった。
誠司さんは顔色が悪かった。ずっと下を向いて、唇を引き結んでいる。
俺は誠司さんの右手を取った。引っ張って通路沿いにあるドラッグストアに向かう。冷たい飲み物が並ぶドアのないショーケースから五百ミリリットルのペットボトルに入ったミルクティーを二本つかみとり、レジで俺が交通系ICカードを使って支払った。
沈みきっている誠司さんを出入り口近くの壁に寄せる。
「どうぞ。一口飲んで、とりあえず落ち着こう」
ミルクティーを見たとたん、誠司さんの綺麗な目から涙がこぼれ落ちた。
そうさ。これは聡さんが誠司さんによく買ってあげていたミルクティーさ。去年亡くなった、誠司さんに初めて愛することを教えてくれた三品聡さんが好きだったミルクティーさ。
俺が差し出したペットボトルを両方の手のひらで包んでから、誠司さんはキャップを開けた。聡さんにキスするように飲み口に唇をつけ、聡さんからの愛情を摂取する勢いでひと息に半分くらい飲み干す。
そうするのを見届けてから俺もミルクティーを二口ほど飲んだ。甘くて、茶葉の香りが立ちのぼり、少しだけ苦みがある。
「ありがとう」
涙ぐんだまま笑うので、指先で涙の粒を払ってあげた。
だからこの人は放っておけないんだ。
ここから先は俺の勝手な想像に過ぎないけれど、誠司さんはいつも一人で悩んで、一人で泣いてる。重たい荷物――今回は俺のことだ――それを自分一人だけで背負い込んで、それがあるべき場所を探して歩き回って見つけて、一人でそこに置こうとしている。
ねえ、俺のこと、見えてる?
あなたが背負ってる荷物を一緒に持ってあげようとしている人間が、ここに一人いるんだよ?
でも、他にもいるんだ。あなたが背負う荷物を隣からひょいと片手で持ち上げて、「一緒に持てばいいだろ」とかなんとか言いながらあなたと二人で片方ずつ持って歩いているヤカラが。
そいつに俺は、あなたを好きなことを知らせてしまった。そいつが待つ部屋からあなたは俺の前に来て、そいつが待つ部屋に帰っていく。俺と今日、何をしても、何を話しても、どこへ行ったとしても。
ねえ、それでも、俺は、誠司さん、あなたと一緒にいたいんだよ。
「行こ、誠司さん」
俺は誠司さんの手をもう一度握って、立体駐車場へ歩いた。ここは騒がしすぎる。
そして俺たちは駅前から離れて県道を走っているというわけだ。
話し終えた誠司さんに俺は言った。
「電話してくれたらよかったのに。そしたらすぐに俺が余田に話したのに」
「電話したらさらにまずいことになるでしょ。それに君が駆けつけるまでに三十分以上かかる」
「俺、やっぱり、普通のデートしなくていい」
「どういうこと?」
「誰にも邪魔されない所に行きたい。俺たちが二人きりになれる所に。静かで安全な所に」
条件をすべて満たす場所は一つしかない。しかも俺は今、そこへ向かっている。
「大丈夫。部屋まで送るよ。それで俺が余田に説明する。もしバトったら、誠司さん、俺んちにかくまう」
「――健。何を考えているの」
「俺、わかったんだ。『愛すること』」
誠司さんは黙っている。
「誠司さんはきっと、聡さんからしてもらったことを、そのまま俺にしてくれたのでしょ」
「まあ……そうだけど」
「わかったよ。個室で話を聞いてくれたこと、キスしてくれたこと、抱きあってくれたこと。俺を大切にしてくれた。それがまず『愛すること』の一つの答えだよね?」
「……うん」
「抱きあった時にわかった。誠司さんは俺に足りないものを自分の肌で足してくれたのだって。それを俺がもう十分ですって伝えるまで、何度でも抱きあおうとしてくれるつもりなのだって。けどそれで、余田とバトったんでしょ。俺からしたらね、セックスしたら、した相手と、今つきあってる相手に責任取らなきゃいけないなんて考え自体、意味がないんだよ。セックスなんかコミュニケーションの一つの手段でしかないじゃない? いや、俺が言いたいのは――」
もうすぐ着く。看板が、建物が見える。
「健、ここ――」
「ごめん」
駐車し、エンジンを止めた。
誠司さんを見る。目が険しい。怒ってる。
「どういうつもりだ」
「だから、ごめん、て」
「ごめんじゃ済まないだろ」
そう。ここは、ワンガレージ式のラブホテルだ。ゆうべインターネットで調べ、吟味して決めた。建物と駐車場が連結している。他にも同じ建物が並んでいるが、互いに独立している。
俺は誠司さんに顔を近づけた。
「愛してる」
「健――」
「唇はほんとうに愛する人のためにとっておいてと言ってくれたでしょ。その愛する人は今、俺の目の前にいる。だから――していい?」
誠司さんは観念したように目を閉じる。
「いいの?」
誠司さんは形のいい唇から強く息を吐いた。
「――決めたのは、俺だから。君が愛することを知るまでそばにいると」
「ありがとう」
俺は唇を誠司さんの唇に合わせた。
いったん離して、誠司さんをうかがう。
誠司さんが、静かで落ち着いた、切ない瞳で俺を見つめる。
鼻と鼻の先が触れあう。
それを合図に、俺と誠司さんの唇がぴたりと吸いつきあった。
「誠司さん……」
「……健」
「中へ入ろ」
部屋はこの間使ったラブホテルみたいに照明がセピア色で、ベッドカバーは赤ワイン色だ。
俺たちが脱いだ服はソファーの上とか床とかに散っている。
冷たいシーツとベッドカバーの間で、俺は誠司さんを、誠司さんは俺を抱きしめた。
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