第9話 ありがとうを伝えたくて

朝の通学時間、私は駅のホームに立ちながら、自分の心臓の鼓動がいつも以上に早くなっているのを感じていた。先日の出来事――彼にスマホを拾ってもらい、声をかけてもらったこと――が頭から離れない。そして、今日はそのお礼をちゃんと言おうと、私は心に決めていた。


「ありがとうを言うだけ、ただそれだけよ!」


と、何度も自分に言い聞かせる。だけど、これが案外難しい。昨日の私は、転んで恥ずかしすぎて、何も言えなかった。ただスマホを受け取って頷いただけ。せっかく彼に声をかけてもらえたのに、情けない。


「今日は、絶対にちゃんとお礼を言うんだから!」


と、私は再び自分に誓った。


いつもの電車がやってきた。ドアが開くと、私は勢いよく車内に飛び込んだ。少しでも勇気が消えてしまわないように、一瞬でもためらう隙を与えたくなかった。


「よし、彼はいるかな……」

と、心の中でそわそわしながら、車内を見回す。


あ! いた!


彼は、いつも座っている場所に座っている。今日はスマホをいじっていないで、外をぼんやり眺めている。これはチャンスかもしれない。スマホに集中されていると、私の存在なんて絶対に気づかれないから、むしろ今は絶好のタイミングだ。


電車内は混んでいたけれど、いつもより少しだけ空いている気がする。私は、彼に近づける場所に立つことができた。そして、私の心臓はさらにバクバクし始めた。


「どうしよう、どうしよう……」


私は彼の顔を見ないように、下を向きながら心の中で葛藤する。お礼を言うだけって、こんなにも難しいことだったの?


目をつむれば、きっと勇気が出るはず。そう思った私は、思い切って目をぎゅっと閉じた。彼にお礼を言うシミュレーションを頭の中で何度も繰り返し、深呼吸をする。


「大丈夫、きっと大丈夫……彼にスマホを拾ってもらったんだから、『ありがとう』って言えば、自然に会話が始まるかもしれないし……」と、心の中で自分を励まし続ける。


ついに覚悟を決めた私は、目を閉じたままゆっくりと彼の前に立った。


「今だ、言うんだ、凜……!」


自分の声が、心の中で大きく響いた。


「すみません! 昨日、スマホを拾ってくれて……ありがとうございました!」


私は、思い切ってお礼を言った。目を閉じたままだったけれど、少しでも勇気を出して彼に感謝の気持ちを伝えた。


……だが、何も反応がない。


え? 私の声、ちゃんと届いていない? それとも、やっぱり恥ずかしすぎて、声が小さすぎたのかな?


もう一度、勇気を振り絞って今度は目を開けてみる。


「……え?」


目の前には、彼の顔はない。代わりに、どこかで見覚えのある、小太りのおじさんがにっこりと笑って私を見ているではないか。


「いやあ、元気な挨拶だねぇ!」


おじさんが微笑んでいる。完全に私の言葉を、自分に向けたものだと思い込んでいる。


「えっ……うそ、また!?」


私は驚きと恥ずかしさで、頭が真っ白になった。これは、以前に何度も見たおじさんだ。電車でカバンの中身を落とした時に、拾ってくれたあのおじさん。だけど、今はその優しさがあまりにも眩しすぎる。


「い、いや、これは違うんです! お礼を言う相手は、その……」

と、私は彼の方をちらりと見た。彼は、まったく気づかずにイヤホンを耳から垂らしながら外の景色を眺めている。完全に、私の存在には気づいていないようだ。


「はぁ……なんで、こうなるの……?」


私は頭を抱えたくなった。


周りの乗客たちが、私とおじさんのやりとりをちらちらと見ているのを感じる。私は顔から火が出そうなほど恥ずかしくなって、何とかその場をやり過ごそうと必死だった。


おじさんは、ニコニコとしたまま


「まあまあ、若い人が元気に挨拶するのはいいことだ!」

と、全然関係ない話を続けようとしている。

私は、「違う、そうじゃない……」と心の中で叫びながら、どうやってこの状況を切り抜けようか頭をフル回転させていた。


その間にも、電車は静かに進んでいく。車内の広告がカタカタと音を立て、窓の外には淡々と流れる景色が広がっている。普段なら、彼の方を見てドキドキするこの時間が、今日はまるで拷問のように感じられた。


「すみません、ちょっと急ぎますので……」


私はようやく、おじさんから逃れる口実を見つけ、少し離れることに成功した。だけど、心の中はぐちゃぐちゃだった。



++++++++++



その日の学校では、朝の出来事が再び笑いのネタになっていた。


「凜! またあのおじさんに話しかけたの!?」


友達が大笑いしながら近づいてきた。


「いや、そうじゃなくて……」

と、私は真っ赤な顔で言い訳をする。でも、友達たちはそんな私の様子を面白がって、ますます笑いを堪えられなくなっている。


「なんか、毎回おじさんに助けられてない? それ、もう運命なんじゃない?」

と、真由がニヤニヤしながら言ってきた。


「違う! 私はただ……」


もう一度、私は説明しようとしたけれど、彼女たちはまるで聞く耳を持たない。


「でも、凜、なんでおじさんにお礼言っちゃったの? 普通、もうちょっと確認するでしょ?」


別の友達も、私のミスを笑いながら指摘する。


「……うぅ、もう最悪……」


私は机に突っ伏して、頭を抱えた。



++++++++++



お昼休み、私は真由と二人でお弁当を食べていた。いつもなら、何気ない話題で盛り上がる時間なのに、今日はまったく食欲がなかった。


「でもさ、凜、あのおじさんにありがとうって言ったの、ちょっと面白かったよね?」


真由がからかうように言う。


「うるさい……本当に、私としては最悪だったんだから……」


私はお弁当の端をつつきながら、ぼそっと答えた。


「でも、さっきの話を聞いてると、ちゃんと彼の前でお礼を言うのって、結構ハードル高いよね?」


真由が優しく言ってくれた。


「うん……でも、それでも言いたかったんだよ。せっかく拾ってくれたんだし……」


「まあ、確かにそれは言いたいかもね。でも、今日はちょっと残念だったね」


「うん……」


私はため息をつきながら、ようやく口を開けてお弁当を一口食べた。

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