第8話 今日は何もしない

朝の電車に乗り込んだ瞬間、私はそう強く心に誓っていた。昨日の奇抜なバッグ作戦があまりにも惨敗で、周りの視線を集めた挙句、友達にも「趣味悪い」とまで言われた。それを思い出すだけで、今でも赤面しそうだ。


「だから今日は、絶対に目立たない!」と、私は自分に言い聞かせた。


何もしない。ただ大人しく電車に乗る。それだけ。彼のことは見たいけど、今日は何もするつもりはないし、自然体でいよう。そう決めて、いつもの車両に乗り込んだ。


電車はいつも通り混んでいたけど、今日は特に混んでいる気がする。手すりに掴まろうとした瞬間、私の目が彼を捉えた。


「あっ……いた。座ってる……スマホを見てる……」


私は心の中で密かにテンションを上げたが、それもすぐに落ち着かせた。


「いやいや、今日は何もしないんだから。じっとしていればいいんだ。大人しく、何も考えない……よし、大丈夫」


私は自分にそう言い聞かせ、手すりにしっかり掴まった。と、その時――。


電車が突然、大きく揺れた。


「えっ!?」


バランスを崩した私は、思わず体が前に倒れ込み、周りの人にぶつかりそうになる。手すりを掴もうと必死に腕を伸ばすが、電車の勢いがそれを許さない。私は体勢を立て直すこともできず、盛大に前のめりに――


ドサッ!


盛大に床に倒れ込んだ。


「う、うそ……こんなことって……」床に倒れ込んだ私の心の声は悲鳴に近かった。転んだショックよりも、その場の恥ずかしさに耐えられなかった。周りの乗客たちがちらっと私を見ている気がする。


だが、その時だった。


私のスマートフォンが、転んだ勢いで手から滑り落ち、床を滑って彼の方へ――いや、彼の目の前に!


「うそ……!」


まるでスローモーションのように、スマホが彼の座っている席の前にピタリと止まる。そして、彼がそれに気づいて、スマホを手に取った。


「えっ、どうしよう……どうしよう……!」私は転んだ痛みも忘れて、心臓がバクバクと早鐘を打つのを感じた。


彼はゆっくりとスマホを拾い上げ、私の方を見た。え、もしかして……話しかけてくれるの?


「大丈夫?」


彼がスマホを持ったまま、優しい声でそう言ってくれた。


「え……?」


頭が真っ白になった。え、本当に? 私に? この私に?


「だ、大丈夫?」


彼がもう一度、少し心配そうに声をかけてくる。


「……あ、はい!」と言いたかったのに、言葉が出ない。ただ、頷くだけしかできなかった。


「これ、君のだよね?」


彼がスマホを差し出してくれる。


私は、ただそれを受け取るだけ。頷きながら、何も言えずに。


「ありがとう……」その一言が、どうしても声にならなかった。ただ嬉しさと恥ずかしさで、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。


何とか立ち上がって、もう一度お礼を言おうと思ったけど、また口が動かない。ただ、スマホをぎゅっと握りしめたまま、彼の前からさっさと離れた。


「はぁ……どうしよう、どうしよう……」


電車の中で、私はただひたすら混乱していた。転んだ恥ずかしさ、スマホを拾ってもらった嬉しさ、声をかけてもらった驚き……全ての感情がぐちゃぐちゃに混ざって、何も考えられない。


次の駅まで、私はただぽーっと窓の外を見つめるだけだった。もう、何もできない。ただ、彼に声をかけてもらえたその事実が、心をいっぱいにしていた。


次の駅に着いたらすぐに降りるつもりだったのに、気づいたら駅に着いていた。降りるのもぎこちなく、彼の方をちらりと見ることもできなかった。



++++++++++



教室に入ると、すでにクラスメイトたちは笑いながら私を待ち構えていた。


「凜! 今日の電車で転んでたでしょ?」


友達の声が、教室に響く。


「あれ、めっちゃウケたよ!すごい音立てて転んでたもんね!」


「スマホも飛んでったし、みんな一瞬びっくりしてたよ!」


彼女たちは私を取り囲んで、大笑いしている。確かに、あの転倒劇は一目で見ても恥ずかしいものだった。それは認めるしかない。


「もー、何も言わないでよ……」


私は照れ隠しに、ただ軽く笑ってみせたが、正直、転んだことをからかわれるのはかなり恥ずかしかった。でも、その恥ずかしさを吹き飛ばすぐらい、心の中は違う感情で満たされていた。


「凜、転んでるの見て笑ったけどさ、あれ、スマホ彼に拾ってもらったんでしょ?」


真由がニヤニヤしながら言ってきた。


「う、うん……」


「で? どうだったの? なんか話した?」


「……話したっていうか、拾ってくれて『大丈夫?』って……」


「えー! すごいじゃん! それって一応、成功なんじゃない?」


真由がそう言ってくれたけど、私はただ頷くだけだった。確かに、彼に声をかけてもらえたのは嬉しい。でも、その一方で、あまりにもドジで恥ずかしい状況だったから、全然喜べなかった。


「でもさ、凜、次からは転ばなくて済むようにした方がいいんじゃない? 次の作戦は……もっと穏やかなのがいいかもね!」


真由がケラケラと笑いながら言った。


「そ、そうだね……」


私は照れ隠しに笑いながら、次の作戦をどうするか、頭の片隅で考え始めていた。



++++++++++



「はぁ……でも、話しかけてもらえたなんて夢みたい……」

お昼休み、私はお弁当をつつきながら、ぽーっとしていた。真由と他の友達たちは、まだ今日の転倒劇について笑い続けているけど、私はもうそんなこと気にしていなかった。


だって、彼がスマホを拾ってくれて、声をかけてくれた。それだけで、今日はもう最高の日だった。


「凜、大丈夫?」


真由が心配そうに声をかけてくる。


「うん、何でもない。何も気にしてないよ……」


私は夢見心地で、ただ微笑んで答えた。


今日は無意識に成功してしまったかもしれない。それが何だか、ちょっとだけ誇らしかった。

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