第2話 カバン大作戦

電車がホームに滑り込む音が聞こえると、私はいつものように小さく息を吸い込み、車内に足を踏み入れた。朝の通勤・通学ラッシュの時間帯。いつも混み合っていて、座れないことが多いけれど、それは気にならない。私にとっては、電車に乗る瞬間こそが一日の最大のイベントだからだ。


もちろん、理由は一つ。彼。


「いるかな……」


目の端でチラリと確認する。まさか堂々と彼を探すなんてできない。だって、もし目が合ったら、私がずっと彼を探していたってバレるかもしれないから。だから、自然に。何気なく。そんなふうに彼の姿を確認するのが、もう日課になっている。


そして、今日も――いた!


彼はいつものように他校の制服を着て、窓際に座っている。相変わらず、静かに外の景色を見つめている姿がとても絵になる。私の目は、無意識に彼に釘付けになっていた。すらりとした長い足に、少しだけ乱れた黒髪。いつもより少し眠そうな表情も、また素敵だなって思う。


「今日は……話しかけるチャンス、あるかな?」


心臓がバクバクと音を立て始める。この感覚にはもう慣れてきた。毎朝、彼を見るたびに鼓動が速くなって、胸がキュッと締め付けられる。だけど、どうしても自分から話しかける勇気は湧いてこない。ただ見るだけ。それだけで満足しようと思っていたけど、最近はそれじゃ足りない気がしてきた。


友達の真由にも「話しかけなきゃ後悔するよ」って言われたし……。


よし、今日は少しだけ、勇気を出してみよう。私にだってできるかもしれない。もちろん、突然声をかけるなんて無理だから、「偶然」を装って彼と接触するチャンスを作るしかない。


そのために考えたのが、今日の作戦。


「カバンの中身を『うっかり』落とす作戦!」


彼の近くでカバンを「うっかり」開けて、中身を床にぶちまける。そして、彼に手伝ってもらうのだ。その流れで自然と会話ができるはず。うん、完璧だ。さすがにこんなシチュエーションなら、彼も無視はしないだろう。私が恥ずかしい思いをすることもない……はず。


私は彼の隣に立つ。よし、作戦開始。


カバンのファスナーを少し開けて、様子を伺う。電車が揺れるタイミングに合わせて、軽くカバンを揺らせば、自然に中身がこぼれるはずだ。こうやって頭の中でシミュレーションしながら、私はドキドキしつつファスナーをもう少し開けた。


「いける、今だ!」


心の中で合図を送り、私は電車が揺れた瞬間に、カバンを軽く振った――つもりだった。しかし、その瞬間、電車が想像以上に大きく揺れて、私のカバンがバランスを崩した。


「きゃっ!」


思った以上の衝撃で、私は踏ん張るのがやっと。カバンの中身が予想以上の勢いで飛び出してしまった。消しゴム、ノート、スマホ、そしてお弁当まで! それらはまるで自分の意思を持っているかのように、転がり、跳ね回り――。


「うそ、なんでそっち行くの!?」


私が願っていた完璧なシナリオはどこへやら。私の文房具たちは見事に彼の方向とは真逆へと、大暴走。消しゴムはピョンピョン跳ねながら、おじさんの靴に直撃。ノートはスライディングでもしているかのように、優雅にドアの方へ。スマホはカラカラと滑っていき、どういうわけか彼の反対側に座っていた女子高生の足元へゴールイン。


「ちょっと待って、そっちはダメでしょ!」


心の中でツッコミを入れたところで、もちろん誰も私の気持ちなど察してはくれない。床に散らばる私のアイテムたちを前に、全身から汗がじわっと噴き出してくる。いやだ、なんでこんなことに……。


「あああ……もう……」


顔から火が出そう、いや、いっそのこと消しゴムになって床を転がりたい気分だった。でも現実は甘くない。代わりに、私のペンがコロコロとおじさんの足元に停車。よりによって、おじさん? まさかの展開に動揺を隠せない。


「大丈夫? これ、落としたよ」


私が必死に立て直そうとしている中、おじさんがニコニコしながらペンを拾い上げ、親切心を爆発させてくれる。いや、おじさんの親切はありがたいんだけど、私が求めているのはそっちじゃない!


「ありがとうございます……」


震える声でお礼を言う私。顔が赤くなってるのが自分でもわかる。熱い。暑すぎる。この電車、クーラー壊れてない?


恥ずかしさで溶けそうになりながら、ちらりと彼の方を見るけれど――おっと、何事もなかったかのように、窓の外を見つめたままの彼。私の大惨事には微塵も気づいてない様子。まるで何も見えない壁でも存在しているかのようだ。


「見てないの……?」


あれだけの大騒動を、どうして気づかないんだろう。ちょっとだけホッとした自分がいたけど、同時に「なんで?」という疑問が頭をよぎる。こうなったらもう、静かに引き下がるしかない。


私は散らばった消しゴムを拾い集めながら、崩れたお弁当を見て一瞬固まる。おかずが……ご飯にめり込んでいる……。でも、今さら嘆く暇なんてない。


「あーあ……」


小さくため息をつきながら、カバンに荷物を押し込み、心の中で反省会を始める。


やっぱり簡単にうまくいくわけがない。今さらながら、自分の作戦がどれだけ無茶だったかが身に染みてわかる。私は、床に散らばったノートを拾いながら、小さく笑ってしまった。こんなバカなことをしている自分が、なんだかおかしくて仕方がなかった。


でも、失敗しても大丈夫。また次の作戦を考えればいい。そうやって毎日少しずつ彼に近づいていくんだ。今はまだ話せなくても、きっといつか、自然に彼に話しかけられる日が来るはず。そう自分に言い聞かせながら、私は少し胸を張って電車の中に立ち続けた。



++++++++++



結局、そのまま電車を降りて学校へと向かう私。頭の中はさっきの失敗でぐるぐる。もしかしたら、誰にも気づかれずに済んだんじゃないか、なんて淡い期待を抱きながら教室に入った。


だけど、そんな希望は甘かった。


「ねえ、さっきの電車でカバンの中身ぶちまけたの、凜だったよね?」


クラスに入るや否や、クラスメイトの声が耳に飛び込んできた。まさか、と思って顔を上げると、数人の女子たちがにやにやしながらこっちを見ている。


「えっ……ちょっと待って、それって私のこと?」


私は恐る恐る質問すると、彼女たちは笑いながらうなずいた。


「そうだよ! もう、見ててハラハラしたんだから。何かと思ったら、いきなりカバンの中身がバーって飛び出してさ!」


「わ、わざとじゃないよ!」


必死に否定する私だが、彼女たちはますます笑いをこらえきれない様子。顔がますます熱くなってきて、逃げ出したくなる。


「もう、ほんと恥ずかしいんだから……」


心の中で叫びながら、無理やり話を終わらせようとするけど、クラスメイトたちは止まらない。私はそのまま自分の席に向かい、ため息をつく。


その時、後ろから真由がひょいっと現れ、にやにやしながら私の机に肘を乗せてきた。


「凜、あんたほんと面白いことやるね」


「真由まで……もう、何も言わないで……」


私は頭を抱えるが、真由は面白がるように私を見ている。私の親友である彼女には、すべてお見通しだった。


「でもさ、ちょっとすごいじゃん。あんなに大胆に彼に近づこうとするなんて。褒めてあげたいよ、ほんとに」


「いや、全然褒められるようなことじゃないから……しかも、近づけてないし!」


私は肩を落とし、思わず机に突っ伏す。真由はクスクス笑いながら、私の背中を軽く叩いた。


「まあまあ、失敗は成功のもとって言うしさ! 次の作戦はもっと上手くいくかもよ?」


「その前に、もうやめようかって気持ちになりそう……」


「そんなこと言わないで、あきらめるにはまだ早いでしょ。次こそ、うまくいくかもよ?」


真由の励ましに、私は少しだけ元気を取り戻す。いや、確かに今回は失敗したけど、諦めたくはない。今度こそ、彼に話しかけるチャンスを掴んでみせる。


――そう心に決めた。そして昼休みになり、私と真由は一緒にお弁当を広げる。だが、ふと自分のお弁当箱を開けた瞬間、私は固まった。


「あ……」


ご飯の上に、朝詰めたはずの卵焼きが無惨に崩れ、片方に寄りかかっている。ああ、そうだった……あの時、カバンがひっくり返って、お弁当まで巻き添えに……。


「どうしたの、そのお弁当?」


真由が不思議そうに私の崩れたおかずを見て、目をぱちぱちさせる。私は恥ずかしさのあまり、笑うしかなかった。


「いや、電車でね、ちょっと……カバンが、あれこれしちゃって……」


「ああ、あのカバン騒動ね! まあ、仕方ないか。次からは、お弁当も気をつけなよ?」


「うん、そうする……」


結局、今日は何もかもが上手くいかなかった日だった。でも、これも経験だよね。次こそ、絶対に成功させてみせるんだから!

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