三条つばめ警部補のお別れ「夜へ急ぐ人」

高柳 総一郎

犯行編

 黒崎あかねは妻であることが仕事だ。

 語弊のある言い方であるのは重々承知の上だが、そういうほかないのだから仕方がない。だから、夫である黒崎錦之助が亡くなってからも『彼の妻』であることが重要視されてきた。

 錦之助はヤクザの三代目だった。暴力団黒崎会は、今どき珍しい『一本どっこ』の組織で、裏社会でそれなりの立ち位置を死ぬまで貫き通した。あかねは大学に在学中、金欠で仕方なくバイトしていたクラブで、同じ席についた錦之助から拝み倒され後妻となった。二十一歳の時だった。

 彼は確かにヤクザだった。立派なヤマタノオロチの入墨が背中に入っていたし、小指も欠けていた。ただ、何不自由なく生活させてもらったのは感謝している。

 しかし、元々人生の目的が希薄だった彼女にとっては、錦之助が死んだ後の人生は長すぎたし──周りの人間が放っておかなかった。

「姐さん。こんなところにお呼びだてして、申し訳ありませんね」

 錦之助が死んでからというもの、構成人数百人という黒崎会に跡目争いが起こった。

 一人は若頭の佐藤──もうひとりは、舎弟頭だいがしの河本。ヤクザの世界で言えば、ナンバーツーである佐藤が継ぐのが常識だ。しかし、佐藤は人望があまりにもなく、組員達の支持も河本に傾いている。

 佐藤は、組員達の支持を集めるために、もっと直接的な手段に出ることにした。

 それが、錦之助の妻──つまるところ、前組長の妻を口説き落とすことだった。

「どうも料理を楽しむ雰囲気じゃなさそうね」

 先月行ったキャンプで撮った作業工程動画のSNSでの反応は良かった。スマホでそれを確認し、顔を上げて見たくもない佐藤の顔を見る。表情から察するに、どうせくだらない話だろうとは思った。

 ちょうどクリーニングから返ってきた西陣織のいい着物でも着れば気分も晴れるだろうとやってきたのは間違いだったかもしれなかった。

 あかねはこれまた買ったばかり卸したての、同じく綴織の硬さが取れぬ帯に違和感を覚えながら、佐藤の鋭い目を見据えた。

 味方でないヤクザというのは、どういう立ち位置であれ総じて獣だ。視線を逸らせば食われる。

「俺ァ、まどろっこしいのは嫌いですよ。単刀直入に言います。姐さん、俺の跡目を推してください」

 佐藤はそう言うと、少しばかり──ほんの少し首を傾けて頭を下げた。

「跡目はあなたじゃないの?」

「河本のオジキは、俺にゃあ組を継がせられんと言ってるんです。姐さんも知ってのとおり、若頭ってのは長男です。組も長男が継ぐのがならいだ。継がせられん納得できないってんなら、その材料を用意すりゃあいい」

「それがあたしなわけ? 勘弁してよ。錦ちゃ……あの人はあなたを跡目にするために若頭にしたんでしょ。それ以上あたしがどうこう口を出すわけにはいかないでしょ」

 任侠道は男の筋道、生き様である。細かな風習・不文律もあるが、いずれにしろ組員でもないあかねが口を出す問題ではない。錦之助にも、それは強く言われていた。

 おめえが口出すような稼業じゃねえ。他のモンがなにか言ってきても、知らぬ存ぜぬで通しな。

 結局それが彼の遺言になってしまった。

 何よりもどうでも良い。錦之助が死んだ以上、二代目に代替わりしたら組と縁切りする予定だったあかねは、佐藤の勝手な言い分に辟易していた。

「姐さん。そうはいっても困りますよ」

「困ればいいじゃない。あたし、予定あるの。もう帰るわ」

 あかねは立ち上がって、佐藤が引き止める声も聞こうとせずに、そのまま料亭を去った。雨が降っている。

 すぐ近くの駐車場まで小走りで行くと、愛車である軽SUV──あかねの趣味であるキャンプのために買った、オフロード対応の人気車種だ──のトランクを開けた。それなりに神経質な彼女らしく、キャンプ用品がプラスチック製の引き出し型衣装ケースに整然と並んでいる。その脇に、緊急用の傘が入っていた。多少なら大丈夫とはいえ、今着ている着物は正絹製、水分が大敵だ。錦之助が遺した自宅の駐車場には屋根がない。これ以上強くなったら困る──。

 そんな考えを浮かべながら、乗車しようと顔を上げると、そこには雨で濡れそぼった佐藤の姿があった。

「何? まだ何かあるの?」

「姐さん。……俺ァヤクザですよ。欲しいものは力ずくでも手に入れる。跡目もそうですが……ついでにあんたも」

「……冗談よね」

 獣臭がするような、鋭く暗い視線があかねを射抜く。寒気がしたのは、この雨のせいだけではあるまい。

「あんたまだ若い。身体だって持て余してるだろう。俺の女になれば、自然と跡目も俺のもとに転がり込んでくる」

「馬鹿言わないで!」

 あかねの細い手首に、佐藤の力強い指が食い込む。それはまさしく、獣が獲物を食い散らかそうという理不尽で力づくな行為だった。

 後部座席を倒して、そこに荷物を積んでいるこの車の中では、あかねを蹂躙するだけのスペースなど容易に手に入る。雨の勢いは増し始め、彼女が力の限り叫んでも雨脚に吸い込まれていく。声にならぬ声のまま暴れ、あかねは手近なものを掴んで──着物の襟に顔を埋めながら笑う佐藤の首裏にねじ込んだ。

 びくっと体を震わせて、佐藤は一瞬うめき、苦痛に身をよじってずるりと荷台からずり落ち、砂利の中へとうつぶせに転がった。

 どろりと赤い河が広がっていき、雨がその中に吸い込まれていく。

 死んだ。殺してしまった。

 はずみとはいえ、黒崎会の若頭だ。その意図するところがわからないあかねではない。はだけた着物の襟を正す。帯は床に押し付けられてぐちゃぐちゃになってしまっていた。腰裏に来ている腰紐に手をやり、解けてないことに安堵する。

 いや、それよりも──佐藤の首裏に刺さったナイフはまずい。あかねの趣味で作った手製のものだからだ。彼女はそれを強引に引き抜く。血液が飛び散り、傷からどくどくと溢れ出る。

 流れていく血と、それを洗い流していく雨──耳煩わしいその音が、あかねのなにかを変えた。ナイフをキャンプ用に用意していたジッパー付きのビニール袋に放り込み、奥に入れていたキャンプ用のモーラナイフを指紋が残らないように慎重にハンカチで包むと、雨が濡れるのも構わずにトランクを閉めた。

 屋根代わりになったそれがない中で、佐藤の体は激しい雨脚の中に沈んでいく。

 その彼の傷──ナイフを突き刺したまさにその傷に向かって、再びナイフを突き入れた。できるだけ傷がぐちゃぐちゃになるように、数回。気持ち悪いとか罪悪感とか、あかねには考えようもなかった。

 どうでも良いのだ。

 錦之助は自分のことを愛してくれた。一人の女として見てくれた。しかし、黒崎会の連中ときたら、姐さんとは口で言っていても、結局自分のことをモノか何かと思っている。態度に透けて見えるのだ。

 だから、なってしまったものは仕方ない。錦之助がいない黒崎会に、立てる義理などあろうはずがない。

 駐車場に誰も来なかったのは奇跡だと言えるだろう。あかねは転がった遺体に構うことなく、車に乗ってエンジンをかけ、アクセルを踏んだ。

「ゆうちゃん?」

 ハンズフリー通話で出たのは、堀内ユウトという男である。黒崎会の若衆で、あかねの身の回りの世話をしている。若いながら気が利いて、内縁だが妻がいる点が考慮されたのだ。さすがに巻き込むのに少しばかりの躊躇はあるが、手伝いくらいはしてもらっても構わないだろう。

『姐さん、もうお帰りで? 若頭とお食事だと聞いてましたが……』

「キャンセルよ。頭きたから出てきちゃった。跡目がどうだこうだなんて話しかしないんだから」

『はあ、そうですか……あの、大丈夫でした? あんまり悪し様に言いたかないんですが、若頭、手ェ早いですから……』

 胸元で佐藤の頭が蠢いているような気がして、あかねはたまらず胸元をぱんぱん払った。気持ちが悪い。返事がないのが気になったのか、ユウトは続けて言った。

『……お食事、用意しておきましょうか? 召し上がってねえんじゃねえですか?』

「それより、着物がビショビショになっちゃったの。西陣織のおろしたてなのに…泥も跳ねちゃったし、帰ったら脱いでごみ袋に入れとくから、捨てといてくれる?」

『捨てる!? 帯だって確か、買ったばっかりじゃ……そりゃ構いませんが……』

 あかねは極道の妻としてナメられないように、という錦之助の教えから、着道楽を装っている。着物は好きだが、こんなに持っても仕方ないし着切れない。仕方ないので、数度着たら手放すようにしているのだ。捨てることもないわけではない。不自然には聞こえないはずだ。

「あと、明日からソロキャンに行ってくるから、留守お願いできる?」

『若頭にそんな嫌な気分にさせられたんで?』

「そういうことよ。不愉快になったわ。着物と留守番、頼んだわね」

 返事も待たずに、あかねは通話を切った。不愉快。そう、不愉快だ。嫌なことがあると、ソロキャンプに行く。一人になる。孤独であることが、彼女の人間性を守るための唯一の手段だった。

 何より、佐藤が死んだとしても、直ちにあかねに疑いが行くとは考えにくい。

 彼は黒崎会のナンバーツー。ヤクザ組織の大幹部だ。狙われる理由などいくらでもある。

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